http://www.asyura2.com/14/senkyo173/msg/182.html
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神社本庁公式サイト「神道への誘い」より
【安倍内閣を牛耳る神社本庁の正体 第2弾】神社本庁が神殺し! 鎮守の森を原発に売り飛ばし反対する宮司を追放!
http://lite-ra.com/2014/10/post-561.html
2014.10.19. リテラ
前回記事
在特会より危険!? 安倍内閣を支配する極右団体・神社本庁の本質(リテラ)
http://www.asyura2.com/14/senkyo173/msg/135.html
前回の記事で、安倍内閣の19閣僚中16人が神社本庁の政治団体「神道政治連盟国会議員懇談会」(神政連国議懇)のメンバーであること、そして神社本庁が国家神道復活をもくろむ危険な思想の団体であることを指摘した。その結果、本サイトには案の定、「キチガイサヨクが神社まで批判している」「神社本庁を極右とか、煽りがひどすぎる」「日本の古からの伝統を守る団体を批判するのは日本人じゃない」といった批判が殺到している。
おそらく、神政連国議懇の会長をつとめる安倍晋三首相や、神社本庁が組織をあげて支援する山谷えり子拉致問題担当相、有村治子女性活躍担当相も同じような主張をするのだろう。「神社本庁は神道を通じて日本の伝統と文化を守り伝える団体」「神道政治連盟の目的は、悠久の歴史がはぐくんだ神道精神を政治に活かし、日本らしさを取り戻すことにある」とかなんとか。
そういうインチキをふりまく連中のために、今回は、神社本庁が引き起こしたある事件を紹介しよう。この事実を知れば、神社本庁が伝統を守り伝えるどころか、逆に悠久の歴史が育んだ信仰を破壊する団体であることがよくわかるはずだ。
事件の舞台は安倍首相の地元、山口県の南東部、室津半島の先端にある中国電力「上関原発」の計画地だ。上関原発といえば、1982年に建設計画が浮上して以降、30年にわたって激しい反対運動が展開されてきたことで知られている。全国でも珍しい持続的な運動と、福島原発事故を受けた民主党政権の判断で現在は建設計画が中断しているが、この原発建設予定地は「四代正八幡宮」という神社の土地が2割を占めていた。
四代正八幡宮は由緒正しい神社で、周囲には、縄文時代からの鎮守の森が広がっている。また、八幡宮の眼下の入り江一帯は世界的に珍しい貝類が生息し、日本生態学会も調査に入るなど、自然の宝庫として注目を集めている。
ところが、その森に、上関原発の第一号炉の炉心、発電タービン建屋を建設する計画がたてられ、98年から神社側に土地の買収が働きかけられるようになったのだ。
しかし、当時の八幡神社宮司・林春彦は土地の売却を認めなかった。当然だろう。そもそも神社本庁憲章第十条には「境内地、社有地、施設、宝物、由緒に関はる物等は、確実に管理し、みだりに処分しないこと」という規定があり、神社の土地は売却できないことになっている。これは、一木一草に神が宿っているとする古代からの神道の考え方からくるもので、神社の森は鎮守の森、神の棲む森とされ、各神社はそれを守ることが固く義務づけられてきた。
ところが、中国電力は計画を変更しようとはせず、県知事や政治家、さらには神社本庁に働きかけ、林宮司に売却を認めさせるよう圧力をかけ始める。
だが、林宮司は頑として首をたてにふらなかった。林宮司は当時、「現代農業」(農山漁村文化協会)2002年5月増刊号に「人間・自然破壊の原発に神の地は売らず 神社、鎮守の森の永遠は村落の永続」と題して、こんな手記を発表している。
「原発立地の焦点となっている神社地は、そもそも四代地区の祖先の人びとの辛苦によって、神社永続のための基本財産として確保されたのである。神社地が、地域の人びとによって八幡山と愛称されてきたゆえんであろう。そもそも、このような歴史的由来をもつ神社地を現代に生きる者たちの短絡的な経済的利益によって売却できるはずがない」
「鎮守の森や神社地なるものは、その根本の理念にかんがみても、現代に生きる者たちのために存在するのでなく、遠い先祖より受け継ぎ、未来の子々孫々に伝えゆくべきものなのである」
まさに、古よりの信仰を守る神職としては正当な姿勢である。ところが、驚いたことに、八幡神社を統括する山口県神社庁、そしてその上部団体である神社本庁はまったく逆で、土地売却に向け動き始めたのだ。その理念からいえば、林宮司をバックアップすべき神道団体が、中国電力や当時の自民党政権と裏で手を組み、反対する林宮司を追放すべく、さまざまな圧力、嫌がらせを始めたのである。林宮司は同手記でこう証言している。
「一年一度の大祭である秋祭りに、副庁長(山口県神社庁)の立場にある神職が、羽織・袴といった大仰ないでたちで、予告もなしに祭りの始まる直前に乗り込んできて祭祀を妨害するという異常事態まで出来しているのである。これは、神社二千年の歴史に未曾有のことであろう。神社土地売却に同意しないために、神社本庁(東京都渋谷区代々木)の代表役員らによって、当職の解任があらゆる手段を用いて画策されているが、副庁長による、このような秋祭りの妨害もその一環である」
そして、嫌がらせと圧力を続ける神社本庁にこう警告を発した。
「法律上の最高権限をもつ神社庁の代表役員が神社地の承認をすることにでもなれば、それは自らが制定した法規を自分の手で破壊することであり、神社本庁自体の瓦解を意味しよう」
しかし、神社本庁はそれでも神社地を売却しようと強行手段に出る。林宮司に対して「解任辞令」を出し、代わりに原発容認派の宮司を就任させたのである。そして、この新しい宮司が財産処分承認申請書を提出すると、04年8月20日、神社本庁は「山口県上関町・八幡宮所有地の上関原発建設用地への財産処分承認申請書に対する承認の可否」という文書を発表し、「結論 本件は、万已を得ない事情があると判断し、承認とする。」とした。
この発表文書には、「尚、本件の承認は、他の神社の財産処分にかかる全ての案件に影響を及ぼすものではなく、あくまでも個別に判断したことを茲に申し添へる」という付言があり、いかにこの決定が特例だったかがうかがえる。この決定に際し、自民党政権からの働きかけがあったのは確実で、山口県を地元とし、神社本庁に深くコミットする安倍首相もキーマンのひとりではないかといわれている。
しかも、林宮司の解任をめぐっては、不可解な事件が起きている。解任の少し前に神社本庁に林宮司のニセの退職願が提出され、その結果、林宮司は退職に追い込まれたのだ。林宮司は06年、山口県神社庁を相手に文書の偽造、違法手続があったとして裁判を起こしたが、裁判の途中の07年3月、突然倒れて帰らぬ人となった。
原因は心労が重なったためといわれているが、一方で、この問題をルポした『真説 日本の正体 封印された謀略の裏面史を紐解く』(高橋五郎・小池壮彦/学研パブリッシング) は林宮司の死について「裁判で事実が明るみに出ると困る連中が何らかの手を下したという風評もある」という物騒な指摘をしている。
裁判はその後、林宮司の弟に引き継がれたが、09年の一審、翌年の二審で退職願が偽造であることは認められたものの、山口県神社庁の偽造への関与は否定された。
以上が事件の概要だが、どうだろう。これでも神社本庁は日本の歴史と伝統を守り伝える団体といえるのだろうか。彼らはホームページや広報物では「古よりの信仰、伝統を守り伝える」「鎮守の森に代表される自然を守る」などと美辞麗句を並べ立てているが、実際には古からの信仰を守ろうとした宮司を追放し、神が棲む森を原発に差し出した。これはまさに、神社本庁による「神殺し」といってもいい暴挙ではないか。
だが、神社本庁という組織の本質を考えれば、こうした行動はそう不思議なことではない。前回も指摘したように、神社本庁は神社信仰を広める団体ではなく、国家神道を復活させるための団体だからだ。
実は、100年ちょっと前、明治政府がその国家神道を国民に強制していく過程で、まさにこの上関と同じようなことが起きている。
日本の神社信仰はもともと「神道」いう形でひとつにまとめられるようなものではなく、それぞれの地域によって多様なかたちをもっていた。大木や巨石など自然物をご神体とする神社も多かったし、その村固有の祖先を祀る祠、民衆が安寧やご利益を祈るための神社、また八坂神社や稲荷神社のように大きな神社でも天皇崇敬と関係のない神社もけっこうあった。
ところが、明治政府が近代国家の支配イデオロギーとして「国家神道」を打ち出すと、こうした多様な信仰がすべて皇室神道、天皇崇敬と結びつけられ、伊勢神宮を頂点にして序列化されていく。
そして登場したのが「神社合祀」という命令だった。神社合祀は、序列の低い小さな神社を廃止して、大きな神社にまとめていくという政策だが、これによって、それまでその地域の人たちが大切にしていた小さな祠や社が取り壊され、鎮守の森が切り開かれ、ご神体とあおがれていた『となりのトトロ』に出てくるような大木が次々と切り倒されていったのである。
ちなみに、この「神社合祀」に対して激烈な反対運動を展開したのが、天皇へのご進講も果たしたことのある高名な博物学者の南方熊楠で、南方は合祀を進める県職員に「神罰が下るぞ」と殴り込みをかけて逮捕されている。
南方の怒りは当然で、それがどんな小さな祠であっても、当時は地域で暮らす人々にとって精神のよりどころであり、そこにある石や木や森が自然への畏敬や敬神崇祖の思いをつくりだしてきた。それをいきなり人と土地を切り離し、神が宿る自然を壊すというのは、許されざる行為だったのである。
しかし、国家神道を推し進める者たちにとってはそんな民衆の思いなどはどうでもいいことだった。国家神道というのは宗教ではなく、「神」よりもまず「国家」なのだ。「神」、もっといえば「皇室」さえも、為政者が国民を支配し、国を強化していくためのツールにすぎなかった。
そして、この体質は今も神社本庁に脈々と受け継がれている。だからこそ「国家」や「自民党の政治家」からの求めに応じて、神々が棲んでいるはずの縄文の森を平気で原発に売り飛ばすことができるのだ。
しかも、この団体は今、自分たちの息のかかった政治家を大量に政権に送り込み、再び日本人が国家のために命を投げ出す政策を着々と推し進めている。国力増強のために自然や人々の暮らしを平気でふみにじる政策を次々実現しようとしている。
そういう意味では、上関の危機もけっして去ったわけではない。原発の建設計画は今のところまだ中断したままになっているが、原発再稼働を進める安倍政権が神社本庁とともに再び“神殺し”を始める可能性は十分ある。
日本の「歴史」や「伝統」を愛し、日本人としての「誇り」をもちたいと考えるのは当然のことだ。だが、伝統や歴史というのはたかだか100年ちょっとのフィクショナルなイデオロギーのことではないはずだ。安倍首相や右派メディアが叫ぶ浅薄な言葉に熱狂する前に、もう一度、その本当の意味を考えてみてほしい。
(エンジョウトオル)
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