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2014年10月13日
妥協に妥協を重ねた末だが、筆者は朝日新聞を日本の最低限の良識を維持し得るメディアとして消極的にだが支持する。現在の日本の右傾な空気の中では、識者の口も重いわけだが、そうそういつまでも右傾の空気が継続するものでもない。少々「空気」の早場米に手をつけておこうと思う。勿論、筆者個人の感情としては、アメリカ礼賛と云うポジションに大いに疑問を持つし、記者クラブメディア独特の体制翼賛的体質からの脱皮への姿勢のなさも大きな不満だが、消去法で行くならば、朝日新聞くらいはマスメディアとして生き残ることを望んでいる。到底、読売新聞や産経新聞がステータス新聞になはれないのだから。
この、メディア全体を覆っている「朝日叩き」はイデオロギーな意志に基づくものと、トレンドゆえに売れるからと云う営業的事情もあるのだろう。「朝日叩き」を起因した「吉田証言」「吉田調書」には、誤報といわれても致し方ない部分があるのは確かだろう。だからといって、そこで伝えようとした事実の部分の多くは正しい方向に向けられていたのだから、それ程恥じ入るものではない。無論、強弁できるほどのポジションでもない。
そもそも論で悪いのだが、朝日新聞に入社することが目的化し、新聞記者としてどうあるべきかを、忘れた人々によって引き寄せられた誤謬なのだと思う。ポーズで反政府的姿勢を標榜しても、金儲けの部分では体制に翼賛しようという腹積もりなのだから、弱みを晒して火遊びをしている、危うい塀の上を歩いていることになる。たしかに、馬鹿を相手にする方が商売はやり易い。しかし、そのような選択は読売新聞に任せてしまう勇気が必要だ。現状の高給取り体質を変えていかない限り、寄らば大樹の社員連中を抱えるだけのメディアになってしまう。逆に、それだけの高給を取るにふさわしい記事を書く気概が求められている。
高給を一気に引き下げることは出来ないだろうが、記者クラブ発表記事重視から、調査報道重視へのシフトを本気でやれば、サイレントマジョリティな部分は充分に朝日を支持するだろう。調査報道のノウハウが不足であれば、外部者を大いに活用し、高給取りの役立たずをリストラクチャリングしていくことは可能である。出来うれば、社員の側から、霞を食べてでも正しい報道をしたいと立ち上がるのが好ましいが、今の朝日新聞の肩書だけで満足する社員を増価させてしまった以上、そういう機運が自然発生する可能性はゼロだと思う。誤報の出ないシステムを作ることではなく、誤報の少ない調査報道中心の紙面づくりが出来る体質を模索するのが、朝日新聞の立場が強くなるのだと思う。
今回の一連の誤報問題に関して、第三者委員会を設置したわけだが、委員の顔ぶれを見て愕然とした。経産省設置のエネルギー審議会同様以下の結論ありき人選になっている。委員長には、中込秀樹。委員は岡本行夫、田原総一朗、波多野澄雄、林香里氏、保阪正康の各氏。以上の7人になのだが、どう見ても安倍官邸に阿った人選になっている。落としどころと云うか、無条件降伏の態すら見えるわけで、嵐が去るまで甲羅の中に首を引込めようと云う魂胆に思える。おそらく、政治部主導になると、メディアは常に劣化するを踏襲する好例になりそうだ。
誤報が怖いのであれば、記者クラブ情報をかき集めた「官報」紛いの新聞を出せばいい。誤報は拙いが、誤報を恐れるあまり、角を試して牛殺すことが、最も大いなる間違いなのだと思う。たまには誤報くらいあるだろう。ただ、大切なことは、報道全体が正解に近い方向を向いていれば、誤報も誤報ではあるが、数行の訂正記事で済む。正確無比、完璧は、何もしないのと同じだ。謂わば、能力の出し惜しみであり、腐敗の温床であり、政権が変わるたびに、社論が変わるようでは、世界に日本の良心を伝えるメディアの地位を降りるしかない。しかし、日本の良心を発する媒体が読売・産経・日経では、世界における日本の地位は何処まででも落ちていくだろう。
政府との妥協、営業上の妥協とリベラル?(モデレート)の矜持。この三つのファクターをどのように紙面構成で作り込むのか、その辺を目に見える形で、読者にアピールしていくことが必要なのだろう。朝日でなければ書けない記事、コラム。読売産経文藝春秋では書けない記事、そう云うものを官制報道と並列で、異論反論する問題点を提示し、読者に考える機会を与えることが可能なメディアになって貰いたいものだ。現状は朝日非難が空気だから、仕方ない、首をすくめて嵐が去るのを待つのではなく、このような「空気」風潮を吹き飛ばす心意気こそが求められている。
おそらく、そのような心意気に至るためには、社の営業成績が悪化しても致し方ない。社員の給与も下げざるを得ない、不動産の一部の売却も必要かもしれない。しかし、それでも朝日新聞が日本の良識として残るのだという宣言は、世界の残り数少ない信頼されるメディアとして生き残る方法なのだと思う。ただ、サラリーマン経営者が幹部の企業が、このような大胆にして身を切るような改革が可能かどうか、少々心もとないし、第三者委員会の顔ぶれから、今後多くの期待を抱くのはかなり難しい注文のように思えてくる。筆者としては、叩き甲斐のあるメディアの一つくらいは残っていて欲しいと思うのだが、日本のメディアすべてが、笑いと嘲笑の対象でしかないのは無力感に襲われる。最後になったが、朝日の先輩記者でもある山田厚史氏のコラムも参考掲載しておく。
≪ メディアが朝日は「非国民」「廃刊」と叫ぶとき―― 確実に近づくマスメディアの死
従軍慰安婦問題の検証から始まり、池上コラム不掲載が炎を煽り、福島原発事故の吉田調書報道で社長が平謝りした朝日新聞問題。新聞や週刊誌に「廃刊」「不買」の活字が躍り、轟轟たる朝日批判がメディアをにぎわせた。興奮は収まりつつあるが、一連の騒ぎからメディアを巡る危うさが見えてきた。異なる 言論を封殺しようという動きが公然化し、慰安婦報道に携わった元記者の再就職先に「辞めさせろ」と迫る脅迫文が届く時代だ。
■記者本人ばかりか家族まで
「非国民」という罵声で、言論や人権を抑圧したかつてのような空気が今の日本に広がりつつある。 朝日新聞に在籍した二人の記者が実名で攻撃を受けている。元慰安婦の証言を記事にした植村隆元記者は、今年4月から神戸松蔭女子学院大学に就職す ることになっていたが、週刊文春2月6日号が「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」と書いたことで、ネットで同大学への抗議を呼びかける運動が起こり、大学は雇用契約を取り消した。
報道によると、植村氏の住所や電話番号、高校生の長女の写真などがネットに公開された。嫌がらせの電話や「自殺するまで追い込むしかない」などネットで中傷されている。 4月から札幌市の北星学園大の非常勤講師を務めているが、大学に「辞めさせないと学生を痛めつける」などという脅迫状が2度届いた。電話やファックスによる攻撃は後を絶たないという。 帝塚山学院大の教授だった清田治史氏も退職に追い込まれた。「慰安婦狩りをした」と証言した吉田清治氏を記事にした当事者として標的になっている。脅迫文が大学に届き、清田氏は退職。学生の被害を恐れたのかもしれないが、脅しに屈した判断は大学にふさわしい選択だったのだろうか。面倒事を避ける 「事なかれ主義」とも受け取れる結末だった。
北星大学は筋を通している。迫害に耐え日本で布教したキリスト教というバックボーンによるものかもしれないが、脅しに屈しない姿勢は見習うべきだろう。
■攻撃の本当の狙いは何か
「誤報」は報道につきまとう厄介ごとである。責任を個人に求めるあまり、周辺まで巻き込んだ中傷・暴力・脅しが公然と起こるところに、現在のメディア状況の危うさが映し出された。
攻撃の狙いは「誤報」そのものではない。 週刊新潮10月9日号では石原慎太郎氏が「国を貶めて新聞を売った『朝日』の罪と罰」という手記を載せ、「もはや廃刊するしかない」と述べてい る。朝日批判をする論者はハンで押したように「朝日は日本と日本人を貶めた」と主張する。誤報(多くの論者は「捏造」という)の背後にある「日本を貶める」報道姿勢に集中砲火を浴びせている。
慰安婦問題でいえば、「日本だけが酷いことをしたわけでない。朝日が大げさに騒ぎ立てて世界に悪いイメージをふりまいた」という理屈で「朝日は反日」「中国・韓国のお先棒担ぎ」「売国奴」となる。
底流に「日本は悪くない」という思いがあり、敗戦後の占領政策で植え付けられた「自虐史観」への失地回復という意図が読み取れる。 安倍首相らが掲げてきた「戦後レジームからの脱却」や「東京裁判史観の否定」など、歴史認識の修正を求める人たちが朝日の慰安婦報道を問題にしてきた。彼らが非難するのはメディアにありがちな「誤報」そのものではなく、朝日の論調である。
日本を貶める→売国奴→廃刊にせよ、という論理。気に入らないメディアは消えてなくなれ、という主張で「不買運動」を応援する。こうした「排除の論理」が脅迫やネット上で家族までさらし者にする言葉の暴力の温床になっている。 こうした動きは、戦前の「非国民」を彷彿させる。本人だけでなく家族も責められ、家に石が投げられた。「日本を貶める」は「非国民」のリメークではないか。
■慰安婦問題に対する内外格差
6日の国会で菅官房長官は「吉田証言は河野談話に影響していない」と答弁した。談話を作成する過程で吉田証言の信ぴょう性を吟味したが「使えない」と判断し、談話には取り入れなかったと明言した。
吉田証言の記事が取り消されたことで「河野談話は骨格が崩れた」と快哉を叫んでいた人たちは「現実の壁」を思い知っただろう。
河野談話は元慰安婦からの聞き取りや旧日本軍の資料などをもとに作成されたもので、安倍さんが首相になったからといって塗り替えらえるものではない。吉田証言があろうと無かろうと、慰安婦問題は歴史的事実として存在する。
海外でもオランダのティマーマンス外相が「従軍慰安婦は強制売春そのものであることは疑いない。河野談話を支持する」と先日語った。直後に安倍首相の側近である荻生田光一衆議院議員(自民党)は「河野談話は取り消さなければならない。安倍首相が来年の終戦70周年で新たな談話を発表すれば河野談話は取り消される」と7日のテレビで語った。
この内外格差がことの本質である。戦場で自由を奪われ強制的に兵隊の相手をさせられ、命まで失っていった慰安婦の過酷な事実は、韓国だけでなくオランダや米国でも問題にされている。「吉田証言がウソだったから性奴隷はなかった」という歴史修正主義の論理は、政府内部でさえ通用しない。
ニューヨークで開かれた国連総会での演説でも、安倍首相は慰安婦問題の見直しには一切触れなかった。「日本が国ぐるみで性奴隷にした、といういわ れなき中傷が世界で行われている。誤報でそういう状況が生み出されたのも事実だ」と国会で息巻いた安倍さんも、外国では口を閉ざす。日本で力を増す「歴史の否定」が世界の非常識であることは安倍さんでも分かっている。
だからこそ怒りの矛先は朝日新聞に向かう。「影響力の大きい朝日新聞がウソをふりまいたから世界は誤解した」「各国語で訂正記事を出せ」という大合唱だ。だが日本が歴史修正を声高にすればするほど、国際的な信用は低下する。
■朝日もまた「排除の論理」に陥った
では朝日批判は「保守派のから騒ぎ」かといえば、そんな軽い話ではない。 朝日のブランドイメージ、読者の信頼に大きな打撃を与えた。メディア業界が不信の目にさらされる中で、比較的信頼できる新聞とされていた朝日まで「筋書に沿った都合のいい情報を集めて記事を書いている」という認定がなされたことは極めて重大だ。
慰安婦を強制連行したという吉田証言は、分かりやすい話で、疑いもなく飛びついてしまった。怪しい、と疑いが出ても「決定的な証拠はない」と目をつむった。どうやらウソだ、と分かっても、訂正せず放置した。少ない当事者の間で隠密裏に処理され、社内でも一握りの当事者しか知らなかった。はじめは 「騙された」だったが、最後は「隠ぺい」である。
隠ぺい」から17年経ち、この8月に記事取り下げが決まった。この時の検証記事を池上彰さんがコラムで批判した。面白く思わなかった経営陣が掲載拒否を命じ大問題に発展する。
私はこの一件が朝日の失態の中で一番罪深いと思う。「排除の論理」だからだ。気に入らない論調は消えてもらいたい、という反応は「日本と日本人を貶める」という理由で不買や廃刊を求める側と共通する。「独善」ともいえる。批判者も同じ土俵で、という民主主義のルールから外れてしまった。
■「吉田調書」問題も深刻な後遺症を残す
一方、福島原発事故に関する「吉田調書」も深刻な後遺症を残した。記事そのもののは「取り消し」に値するような誤りはない。「命令違反で撤退」という見出しは誤解を招いたが、内容は事故で指揮系統が乱れ所長の指示に反する集団行動が起きてしまった、という事実を書いたものだ。「逃げた」という見立ては記事でなされていないが、多くの読者が「所員が逃げた」と受け取るような書き方がミスリーディングだった。
しかし社長が記者会見して詫びる話ではない。本来なら慰安婦報道で謝罪し、池上問題で責任を取るべき社長が、不手際を認めたくないあまり、関与が少ない吉田調書の記事を口実に謝罪した、という顛末ではないのか。この不誠実な態度が傷口を大きくした。
「記事の誤りは、事態の解釈に問題があったのか、事実に誤りがあったのか」と聞かれ杉浦編集担当は「事実の誤りがあった」と認めた。命令違反とは命令が伝わっていたのにこれに逆らう行動を指すもので、命令が伝わっていなかったのだから「命令違反とはいえない」という説明だった。
記事は結果として「命令に反する行動」があったことを書いたもので、解釈の問題である。普通だったら記者を擁護する経営陣が、謝罪する口実に使ったため、ことさら記事の不備を強調した。
「記者が思い込みで筋書を描き、都合のいい事実や発言を並べて東電を批判する記事に仕立てた」という朝日攻撃に経営者が同調したのである。読者は「ああ、やっぱり朝日もそういう新聞なんだ」と思うだろう。
「我々はそのような姿勢で紙面づくりはしていません。そう受け取られのは遺憾です」というのが、ぎりぎりの対応ではなかったか。社長が攻撃側についたのでは一線はやっていられない。メディアの自殺に等しい態度だった。 充満するメディア不信が背景にある。「はじめにシナリオありで、取ってつけた取材で記事なんて書かれているんだろう」というような印象を抱いている読者は少なくない。
■マスメディアが死を迎える時
新聞より危ういのは週刊誌やテレビのニュースショーだ。読者が飛びつきそうな筋書が先にある。週刊誌ではデスクが見出しを決め、都合いい素材を集めるライターが重宝がられる。テレビでは放送局の正社員が企画を選び、制作会社が視聴率を稼げる演出を任される。 ヤラセとかメディアスクラムなど報道不信を招く事態が進んでいた。どうせいい加減な取材だろう、と読者が疑いの目を向けていると時に朝日問題が起きた。
誤解を恐れずに言えば、取材に筋書、言い換えれば仮説は欠かせない。情報は天から降っては来ない。事実を発掘する調査報道は「こういうことが構図ではないだろうか」と記者はアウトラインを描いて事実を集める。「都合にいい情報を探す」のは確かだ。しかし、実際はそう簡単ではない。筋書に合わない事実や発言が出てくる。描いていた話とは違うようだ、と思ったとき筋書を変えられるか。そこで記者の力量が問われる。
はじめに描く筋書は、すでに出回っている情報や見立てを材料に組み立てる仮説に過ぎない。取材で掘り出した事実と向き合うことで新たな構図が見えてくる。そこにニュースがあり、取材の醍醐味がある。必要なのは取材力・柔軟な頭・時間である。ゆとりがないとできない。締め切りぎりぎりで、シナリオを変えたくても取材時間がない。テレビでは、もう一度撮り直しなどできない、という事情も働く。
メディア業界が地盤沈下し、人繰りや予算が窮屈になっている。人員と時間の制約で柔軟な取材はできにくくなっていることが、お手軽な筋書先行の記事や番組を生んでいる。
朝日は比較的「ゆとり」があり、良質な情報が期待されていた。スクープを連発してきた特別取材班は、社内でも自由な取材ができる体制にあった。それだけにプレッシャーもあったと思われるが、経営陣が現場を切り捨てるような発言をするのでは、報道不信に火をつける結果になるのは明らかだ。
それを叩く雑誌や新聞も他人事ではないはずだが、朝日批判を書くと販売部数が伸びる。今度の騒動は干天の慈雨だそうだ。 「信用していた朝日までも」という驚きが好調な部数につながる。「そんなことは分かっているよ」と誰も見向きもしなくなった時、マスメディアはいよいよ死を迎える。 ≫(ダイアモンドオンライン:山田厚史・世界かわら版)
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