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@人と人の関わり合う関係の有り様の原型は、学校の文化祭や体育祭を巡る話し合いや活動にあると思われます。そこでは、ひとり一人の具体的な事情の言葉や飾りの言葉や同意や反発などが渦巻きつつも、一つの流れをたどっていきます。義務教育であれば、原則として誰でも学校の住民であることを離脱できません。
A学校行事への参加などを巡って、そこを通過してきたわたしたちは誰でも、なかなかうまくいかない人のいろんな関わり様を見聞きし、自ら体験してきています。そして、自らも学校の住民の一人としてなんらかの関わり合いの仕方をたどってきています。
B大人になって特に小さい子どもが居たりすると、学校やPTAなどを介した地域での関わり合いに参加することしばしばあります。また、町内会に加入していれば、その関わりもあります。ここでの人々の関わり方も学校の原型的なものと対応していると思います。
C地域の行事に参加することもしないこともあり得ます。しかし、観念(頭)の中では、地域住民の一人ということは消去できても、ある地域に住み具体的に生活している以上住民としての自分の存在を消去することはできません。人は観念の世界を生き観念を増殖させることがあります。
Dウヨクもサヨクも集団的な観念(イデオロギー)の世界です。亡霊のように共に未ださまよっていますが、わたしの理解では、前者は先の戦争の敗戦により、後者はソ連崩壊により終わったと考えます。イデオロギーが悪だとは思いませんが、具体的なひとり一人の住民を殺傷することがあります。
Eこの住民とイデオロギー(宗教)の関わり合いは、聖書によく知られた描写があります。(「マルコによる福音書」第六章 他) 郷里での住民とイエスの対照として描かれています。住民の側から見ると、イエスは大工の息子でどこでこんな偉そうなことを学んできたのか、となります。
F一方、イエスの側からは、「『預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない』。そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。」と描いています。この両者の視点は現代でも通用します。
Gそういう意味で、両者の視点を取り出し描いた聖書の内省的な記述は、普遍的な優れたものだと言えます。ところで、わたしは集団的な観念(イデオロギーや宗教)以前の、この列島に住み日々生活している無名の具体的な住民という、おそらく誰もが認めるだろう場所から、考えようとしています。そして、その背景には、この列島の無名の住民たちの連綿と続いてきた、大きな歴史がひかえています。
Hもちろん、この列島の住民といっても、考え方の違いや対立もあるでしょう。ただ、その場合、わたしたちの共通の了解事項であって欲しいのは、この列島の住民の一部ではなく、全体の利益や幸福を第一に置くことです。政治や経済や経営などの学問もそのように書き換えられていくべきだと考えています。
(註.ツイッターのツイートを元に少し加筆)
この列島の一住民より
臨時のブログ「回覧板」( http://blog.goo.ne.jp/okdream01 )
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