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2014年10月05日
そこそこの規模の書店・雑誌コーナーに立ち寄ってみて判ることだが、「90%対10%」の世界が、此処にもあったと云う印象を持つ。何のことかといえば、「保守・右翼・国家主義」系の雑誌と「ニュートラル・リベラル」系雑誌との、出版物の数の差である。積み上げられている展示スペースの差でもある。意地悪に観察していると、「保守・右翼・国家主義」系の雑誌を手にする客の多くが、中身を確かめることもなく手に取り、レジに向かい購入している。しかし、「ニュートラル・リベラル」系雑誌は手に取られ、パラパラとめくられるが、購入行動に直接結びついていない。つまり、その雑誌を買おうと書店に訪れたわけではなく、内容が読む価値あれば、と云う吟味が入っているように見える。
ニュートラル、リベラル系な人々の場合、筆者も多くの体験を持つが、細かい部分まで拘る傾向が強い。“あばたもエクボ”の心境にならず、原理的部分にも拘るし、“糞味噌”を絶対的に分別する傾向があるようだ。おそらく、リベラルやニュートラル系な政治活動が手を繋ぐことの困難さは、この傾向の人々の性癖にも由来するだろう。その点で、「保守・右翼・国家主義」系の人々はよく言えば大らかだ。糞味噌一緒に食べても平気だし、“あばたもエクボ”は年がら年中で、常に一定の方向で酔いしれていたい性癖を持つ。謂わば、酩酊状態でいたいのだから、目を覚ませと言われるのを最も嫌う。
大変大雑把な括りで話を進めるが、この両派の属する、どちらの人を対象に「商売」する方が得か問題で考えると、大変に判りやすい。誰が考えても、「ニュートラル、リベラル」系雑誌の読者は“七面倒くさい”に違いない。買わずに文句垂れる。「保守・右翼・国家主義」系雑誌では、敵国叩きとか、政敵叩きとか、他メディア叩き、ゴシップ等々、感情的な“酩酊”を誘うし、惚れているわけだから、どれ程粗雑に編集しても売れるのだから堪らない。つまり、商売上、「ニュートラル、リベラル」は金にならん層であり、商業雑誌の根幹を揺るがす。その点、商業雑誌に「保守・右翼・国家主義」はピッタリなのである。オマケで言えば、既存システム的だから、既存企業の広告も取りやすい。
かくして、売ることが目的の書店においても、「保守・右翼・国家主義」が多く置かれるし、よく売れる。無論、販売力の差もあるだろう。複雑系な人間達より、単純系人間の方が、人口構成上も多いだろうし、純朴でもある。そうして、優れたマーケッティングから考えても、「保守・右翼・国家主義」系の雑誌が重用される。無論、イデオロギー的色彩も存在するのだが、市場原理に沿った発行は、「保守・右翼・国家主義」と云う点で一致してしまったのだろう。このような傾向は、日本人が「総中流意識」を形成した、時期と重なっているようだ。そして、日本では労働運動も下火になり、学生運動も下火になって行く。
このような傾向は相乗性もあり、加速度的傾向もあるようで、リベラルな人々が読む雑誌類が、殆どボランティア的精神に委ねられているので、いつの日か、書店で一切目にすることが出来ない出来事まで想定できる。いまでは、一世を風靡した岩波の「世界」にしても、「文芸春秋」の30センチ平積みの中で、2センチの背丈では、ちょぃと「世界」の上に「文芸春秋」が置かれれば、永遠に顧客の目にはつかない運命になる(笑)。 *「ニュートラル、リベラル」な雑誌としては、上述の「世界」がどうにか生き残っているが、「改造」(1955年廃刊)、「展望」(1978年廃刊)、「月刊現代」(休刊)、「論座」(2008年廃刊?)の惨状だ。その他の「ニュートラル、リベラル」の月刊誌の多くは、書店での販売に見切りをつけたのだろう、定期購読方式になって生き残りに掛けている。(例示:「選択」、「創」、「FACTA」、「月刊日本」、「紙の爆弾」など)。今後は、ネット上における「ニュートラル、リベラル」系論壇に期待するしかない現状のようだ。「リテラ」の試みが成功するかどうか、注目に値する。
それに引き替え、マーケットを独占状態で、そもそも有利な戦いにあって、「保守・右翼・国家主義」系の雑誌は、安倍晋三政権の右寄り思考と相乗的に、我が世の春を満喫している。書きだすのも腹立たしいが、取りあえず、中身もたしかめず購入してくれるファンによって、美味しい商売をしているのだろう。益々、政府にとって都合の良い人々が増えるのだが、到底“麻疹のようなもの”と言うだけでは済まないのだが、現状では打つ手なしである。まあ、安倍政権がコケタ時どうなるかだが、あまり期待が持てるとは思えない。ちなみに、「保守・右翼・国家主義」雑誌は、元気溌剌である。
国内の宿敵たちの粗探しバッシング、隣国の粗探しと憐れみ、そして崩壊する運命予測。これだけで充分、感情を高揚させてくれる。これが、現状のシステム維持に親和的なのだから、広告面でも有利に作用する。そもそも保守的地盤のある“お上”の国だから、同じようなテーマを、論者を代えて、数回繰り返せるので、編集も楽である。政権自体が、「保守・右翼・国家主義」なのだから、基盤が堅牢な上に、追い風まで吹いているのだから、元気が悪くなる要素ゼロである。もっと面白いことは、叩かれている側も、それなりのリアクションで対決してくるから、いつまでも同一テーマで商売が可能になる。そして、その上、購買者が、内容に関わらず、“この雑誌は買うのだ”と云うバイブル化している点も強みである。ちなみに、あれれ?と思う「保守・右翼・国家主義」系雑誌を羅列して、終わりにする。
「文藝春秋」、「諸君」(2009年休刊、文藝春秋内での諸君化現象)、「正論」(産経新聞)、「中央公論」(読売新聞)、「WILL」(悪名高き花田紀凱編集長・『週刊文春』の編集長に就任した後は、タカ派の論調を展開)、「Voice」(PHP)、「新潮45」(新潮社)、「SAPIO」(小学館)等々。これらに強力にタッグを組んで、ビジネス関連雑誌が刊行されている。書店において、雑誌棚で目にするものは、殆どこちらの属性にあるようだ。尚、週刊誌関連は時間の関係上省略したが、傾向は月刊誌と同じだ。
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