http://www.asyura2.com/14/senkyo172/msg/127.html
Tweet |
「日本の一部言論の現実感のなさは病に近い。人種差別するかしないかは、思想の問題ではない:田中希生氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/15387.html
2014/9/29 2014/9/29
https://twitter.com/kio_tanaka
日本の一部言論の現実感のなさは病に近い。
人種差別するかしないかは、思想の問題ではない。
右翼だろうが左翼だろうが、それはしてはならないのであって、右翼なら人を誹謗中傷していいわけではあるまい。
新聞から書店にいたるまで、一部ジャーナリズムの言論感覚は麻痺しているというほかない。
言葉には、じゅうぶんにひとを傷つける力がある。
つまり言葉は暴力たりうる。
そのことを知っていることこそ、言論の自由、ということである。
言葉は非現実だから、なにを言ってもよい、というのは、現実を尊重することではない。
特定の暴力的言論を禁止するよりも、はるかに不自由にすることである。
かつて左翼のほうから、言葉は表象にすぎず、無力であって、現実とは異なるということがしきりに言われたことがあった。
言葉が力であるというのは典型的な戦中右翼のロマン主義だと。
だが、それは誤解である。
言葉は充分に力であって、それが意図どおりの現実をもたらすかどうかが困難なだけである。
言葉をあつかう仕事をしているひとたちにいいたいのは、どのような言葉であっても尊重するというのは、言論の自由とは関係なく、言論を卑しめるかもしれないと考えて欲しいということである。
むしろ、言葉をできるだけ美しく、そして正しく用いることが、言論の自由を高めるのだと思って欲しい。
もちろん、なにが正しいか、美しいかを判断するのは容易ではないが、すくなくとも、どのような言葉であっても話すことが許されている、というのは、言論の自由を誤解した近代人の思い上がりと思う。
そしてその野放図にしてしまった言葉によって、われわれのほうが、しっぺ返しを喰らうのだと。
言葉を美しく保つことこそ、言葉をあつかう仕事をする者が実践すべきことである。
どんな言論でも公にしようというのは、言葉を甘やかすことであり、自分の仕事を馬鹿にすることであり、人間を増長させ、暴走させることである。
そしてその増長は、そうした言葉を許す人間自身にふりかかる災厄になる。
言葉を愛し、言葉をあつかう仕事をする一人文学者として、今日の言論状況にはほんとうに心の底から怒りを覚えている。
言葉を醜く用いて深さを奪い、武装だけをたくましくすることは、日本民族を守ることではない。
わたしはべつに民族主義者ではないが、日本民族が消滅していいとは思っていない。
言葉を自然にふさわしい形で用いることのできる、才能あふれる若者たちが、今日の言論状況のなかでいかに苦しんでいるか。
どのような言葉であろうと売れればよい、ヘイトスピーチは隠せばよいと思っているような、言葉を馬鹿にしたジャーナリズムのおかげで、若者がおのれを高める手段を失っているか。
言葉を磨くことに心血を注ぐ若者の足を引っ張っているのが、同じ言葉を仕事にしている大人だということに、怒りを通り越してなにもかも諦めそうになる。
複雑な人間の感情を表現するに同じだけの複雑さの言葉にあることが、人間の自由を保証する。
言葉を高めることによってしか、自由は保たれない。
言葉から高みや深さを奪い、即物的なわかりやすさや快楽を求める今日のジャーナリズムや教育界の風潮は、人間からますます自由を奪うのに役立ち、それどころか人間に対するテロリズムの横行をさえ許している。
言葉の衰弱が恐ろしいのは、自分では気づくことのできない致命的な不自由を招くことである。
自分は毎日のように、真の才能と向き合っている。
自分よりもはるかに才能のある「友」との語らいのなかで自分は成長した。
「友」の才能の十全に伸び切るような場所のなかなかできないことを、とても息苦しく思っている。
根を張るべき地面が崩れて行く感覚と、洗っても洗っても汚れのみつかる皿。
必死で皿を洗い続ける自分の横を、それは歴史学ではない、といって通り過ぎるひと。
社会はそんな風にできていないというひと。
その忠告に反発しながら、不安になって、目が覚めた。
ぞっとするほど汚れた皿の上の料理を「友」に食べさせることが正しいとは思えず、それで忘却が唯一の救いにみえる……。
自分の歴史観を信じてはいるが、こんな夢をみるとは、可笑しい。
未来に不安でもあるのか。
自分の歴史についての潔癖を、かえって汚れだと思うひともいるだろう。
自分に汚れにみえるものが汚れでなく、自分が残したいと思うものを捨てたいと思うひともいるだろう。
けっきょく、なにもわかっていないね。
自分としては凡庸な選択だ。
というより、選択の回避。
すべてを記憶するか、それとも忘れるか、という二者択一のどちらも選べなかったというにすぎない。
前近代の歴史は適度に残り、適度に消え去って、社会の邪魔をしたりはしなかったはずだ。
ぼくの知っている歴史には、そういう慎ましさがあった。
きわめて遠い点と点とが結ばれて、それが物語になる。
トロイア戦争(ホメロス)とペルシア戦争(ヘロドトス)とが結ばれて、ひとつの物語になった。
それをひとびとは歴史といった。
事件を記憶しておくことはとても大切で、そしてひとはすぐに事件のことなど忘れてしまった。
物語だけが残った。
なにもかも残っている近代の歴史の特徴は喧騒であり、音楽が鳴り始める寸前で別の音楽が鳴って前のものをかき消す、その繰り返しである。
渾沌が現代を覆い、ある「意見」を「概念」にまで高めるのはよほどのことになる。
すべては意見である。
自由人たちの世界の末路はきっと、このようなものである。
ともあれ、あまりに才能豊かな「友」との語らいが、自分を生長させたのはたしかなことである。
自分は土になれればそれでよく、できるだけよい土になるために、伸びようとしているにすぎなかった。
汚れていない、豊かな土に。
目覚めたときは不快だったが、それを思い返させてくれた点で、悪くなかった。
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK172掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。