15. 2014年10月06日 02:00:04
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【血のメーデー事件・吹田事件・大須事件】在日朝鮮人と日本共産党・左翼団体による大規模襲撃・テロ事件 血のメーデー事件 血のメーデー事件(ちのメーデーじけん)は、1952年(昭和27年)5月1日(木曜日)に 東京の皇居外苑で発生した、デモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件である。 事件は一部の左翼団体が暴力革命準備の実践の一環として行われたものと見られている。 戦後の学生運動で初の死者を出した。 300px-Bloody_May_Day_Incident2 http://ja.wikipedia.org/wiki/血のメーデー事件 概要
GHQによる占領が解除されて3日後の1952年(昭和27年)5月1日、 第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての 「再軍備反対」とともに、「人民広場(注:皇居前広場)の開放」を決議していた。 本来のデモ隊の解散予定であった日比谷公園から 北朝鮮旗を翻した朝鮮人を含む一部のデモ隊がそのまま 皇居前広場に乱入するなど暴徒化して混乱は午後5時半ごろまで続いた。 この日、行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民 およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、 交差点における警察官の阻止を突破して北に向い、 その途中では外国人(駐留米国軍人)の自動車十数台に投石して 窓ガラスを次々に破壊しながら無許可デモ行進を続け、 馬場先門を警備中の約30名の警察官による警戒線も突破して 使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込んだ。 これに対し警視庁は各方面予備隊に出動を命じた。 乱入したデモ隊は二重橋前付近で警備していた警察官約250名に 対し指揮者の号令で一斉に投石したり、所持していた棍棒、竹槍で 執拗な攻撃を繰り返して警察官1名を内堀に突き落とし、 他の多くの警察官も負傷する状態に至り警察部隊は止むを得ず後退を始めた。 応援の予備隊が到着してその総数は約2,500名となったがデモ隊は数を増して 約6,000名となった上、組織的な攻撃も激しくなった。 警察部隊は催涙弾を使用したが効果は上がらず、警察官の負傷者が 増加したため、身体・生命の危険を避ける目的で止むを得ず拳銃を発砲し、 ようやくデモ隊は後退を始めた。 この間にもデモ隊は警察官3名を捕え、棍棒で殴打して重傷を負わせ 外堀に突き落とし、這い上がろうとする彼らの頭上に投石した。 同時に別のデモ隊は外国人自動車等に棍棒、 石ころを投げ、駐車中の外国人自動車十数台を転覆させて火を放ち、炎上させた。 デモ隊と警察部隊の双方は激しく衝突して流血の惨事となった。 デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は重軽傷者約750名 (重傷者約80名が全治三週間以上、軽傷者約670名。さらに1956年1月に 頭部打撲の後遺症で法政大学学生1名が死亡)、外国人の負傷者は11名に及んだ。 当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、 出動を命じられるには至らなかった。出動した警視庁予備隊は後の機動隊であり、 警察予備隊とは異なる。 デモ隊によって転倒させられた自動車 300px-Bloody_May_Day_Incident その後の経過 デモ隊からは1232名が逮捕され、うち261名が騒擾罪の適用を受け起訴された。 裁判は検察側と被告人側が鋭く対立したため長期化し、1970年(昭和45年)1月28日の 東京地裁による一審判決は、騒擾罪の一部成立を言い渡したが、 1972年(昭和47年)11月21日の東京高裁(荒川正三郎裁判長)による 控訴審判決では、騒擾罪の適用を破棄、16名に暴力行為等の有罪判決を 受けたほかは無罪を言い渡し、検察側が上告を断念して確定した。 国会では事件直後から事件の責任をめぐり与野党間で激しい応酬があり、 6月には相次ぐ騒乱事件の対処不手際や破壊活動防止法案・集団示威運動等の 秩序保持に関する法律案の制定企図に反対する立場から衆議院で 木村篤太郎法務総裁の不信任案が提出されたが、否決された。 なお、同時期に起こった公安警察による事件でっち上げ(菅生事件)などの煽りを受け 事件発生の5ヵ月後に行われた総選挙で日本共産党は全議席を失った。 同水準の議席数を回復したのは1970年代のことであった。 メーデー裁判―闘いの記録 (1958年) [−] 岡本 光雄 メーデー事件被告団 1958 吹田事件 吹田事件(すいたじけん)とは、 1952年6月24日(火曜日)から6月25日(水曜日)にかけて、 大阪府吹田市・豊中市一帯で発生した吹田騒擾事件と、 その裁判で起きた事件(吹田黙祷事件)の両方を指して吹田事件という。 ただし吹田騒擾事件のみを指して吹田事件とする場合もあり、定まっていない。 同年に起こった血のメーデー事件、大須事件と並んで三大騒擾事件の一つとされている。 騒乱罪(そうらんざい)とは、多衆が集合して暴行・脅迫を行うことにより 公共の平穏を侵害することを内容とする犯罪類型である(刑法106条)。 1995年(平成7年)改正前には騒擾罪(そうじょうざい)とも呼ばれた。 火炎瓶攻撃を受けた警察官 Suita_Incident 事件の背景
1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した。当初戦況はソビエト連邦が支援する 北朝鮮が優位であったが、韓国軍とそれを支援するアメリカ軍やイギリス軍などを 中心とした国連軍による仁川上陸作戦で戦局が一変、逆に韓国優位となり、 韓国軍と国連軍の一部は鴨緑江に到達したが、急遽参戦した中国人民志願軍に よって38度線に押し戻され、一進一退の膠着状態が続いていた。 当時の日本は、アメリカ軍やイギリス軍をはじめとする連合国軍の占領下にあり、 朝鮮戦争に国連軍の1国として参戦していたアメリカ軍は日本を兵站基地として 朝鮮半島への軍事作戦を展開していた。 またアメリカ政府は、日本政府に対し飛行場の利用や軍需物資の調達、兵士の 日本での訓練を要請した。首相の吉田茂は「これに協力することはきわめて当然」 と述べ、積極的にアメリカへの支援を開始した。 吹田事件の舞台となった大阪大学豊中キャンパス周辺には アメリカ軍の刀根山キャンプがあり、アメリカ軍兵士が駐留していた。 また吹田市では国鉄吹田操車場から連日、国連軍への支援物資を乗せた 貨物列車が編成された。 北朝鮮系の在日朝鮮人は、北朝鮮軍を支援すべく、日本各地で 反米・反戦運動を起こしていた。当時、武装闘争路線を掲げていた 日本共産党は、こうした在日朝鮮人の動きに同調していた。 事件の概要
1952年6月24日夕方、大阪府豊中市にある大阪大学豊中キャンパスで 「伊丹基地粉砕・反戦独立の夕」が大阪府学生自治会連合によって開催された。 学生、労働者、農民、女性、在日朝鮮人など約1000人 (参加者数には800人から3000人まで諸説ある)が参加した。 集会では「朝鮮戦争の即時休戦、軍事基地反対、アメリカ軍帰れ、 軍事輸送と軍需産業再開反対、再軍備徴兵反対、破防法反対」などの アピールが採択された。 集会終了後、国連軍用貨物列車の輸送拠点となっていた吹田操車場まで デモを行うことになった。集会参加者は西国街道経由で箕面へ向かい、 吹田に南下する「山越部隊」と阪急宝塚本線石橋駅から臨時列車を動かし、 服部駅(現在の服部天神駅)から吹田に向かう「電車部隊」に分かれて行動した。 人数は山越部隊の方が多かった。 吹田操車場になだれ込むデモ隊 Suita_Incident2 山越部隊は警察予備隊豊中通信所の横を通り、 午前2時ごろ三島郡豊川村に到着した。
ここで山越部隊は「ファシスト打倒」と称して笹川良一宅に投石したり、棒きれで 玄関の扉を損傷させている。笹川良一本人は留守で、けが人はなかった。 休憩後、山越部隊は南下して国鉄労働組合吹田支部の中野新太郎邸に立ち寄り、 庭で竹槍を振り回したり障子を破ったりしたが、けが人はなかった。 一方、電車部隊は大阪大学近くの石橋駅に入ったが、 最終電車が発車した後だったため、駅長に臨時列車の発車を強要した。 駅長はやむなく運賃徴収の上、臨時列車を発車させることになった。 電車部隊は梅田駅と石橋駅の間の服部駅で全員が下車し、 旧伊丹街道の裏道経由でデモを行い、6月25日午前5時ごろ 三島郡山田村(現吹田市山田南)で山越部隊との合流を果たした。 この間、警察は電車部隊が梅田駅に向かうと予想し、梅田で警官隊を 待機させていたが、電車部隊が服部駅で下車したため行方を見失い、 山越部隊についても電車部隊の対応をしている間に見失っていた。 合流後、デモ隊は南下し須佐之男命神社に到着した。 神社前には吹田市警察や国家地方警察の警官隊が警備線を張っていたが、 警察指揮者との交渉をデモ隊が受け入れなかったため、警察隊は警備線を解き、 デモ隊に道を譲った。 大阪地方検察庁は、この時にデモ隊が暴徒と化して突進し、 暴力で警備線を突破したと主張して騒乱罪を適用した。 しかし証拠写真や警察指揮者の証言からデモ隊が暴徒化した 事実がないことが明らかになったとされた。 このため後の裁判で被告人全員が騒擾罪無罪となることになった。 須佐之男命神社から南下したデモ隊は、午前6時ごろ 国鉄東海道本線岸辺駅経由で吹田操車場に入った。 デモ隊は操車場内で「戦争反対」「軍用臨時列車を止めろ」などの シュプレヒコールをあげながらデモを行ったが、実際には軍用列車は 事前に移動させられていた。吹田操車場から出たデモ隊は吹田駅に向かった。 なおこれらデモ隊の行動について、「うさぎ狩りのようでした」などという 証言もなされたものの、検察は「暴徒そのものだ」と形容した。 実際にデモ隊は暴徒化し、京都方面に向かっていた 在大津南西司令官カーター・W・クラーク陸軍准将の車に 石や硫酸ビンを投げ、クラーク准将は顔に全治2週間の傷を負った。 また午前7時ごろ茨木市警察のウィーポン車にむかって、 7・8名のデモ参加者が石や火炎瓶を投げて、転げ落ちた警官が火傷や打撲傷を負った。 この後、デモ隊は道路沿いにある駐在所や派出所に投石などした。 その後デモ隊は西口改札から吹田駅に入り、同駅で流れ解散となった。 吹田駅の助役は裁判時に「デモ隊が順調に乗ってくれたので、 『うまいこといきましたな』と駅長とも話していた」と証言している。 解散したデモ参加者らは大阪行き8時7分発の列車に乗車しようとした。 そこに約30人の警察官が追いつき、デモ隊はこれと衝突した。 これによりホームは大混乱となり、デモ参加者や一般乗客に負傷者が出た。 事件では200人を超える大量逮捕が行われ、111人が騒擾罪で起訴された (被告人の1人が裁判中に死去、1人は韓国に強制送還され「行方不明」と なったため最終的に109人)。 なおこの際に警官が発砲しデモ隊の4人が重傷を負った。 列車内で撃たれたデモ参加者は吹田市を相手として賠償請求訴訟を起こし、 裁判所は警察官の職権乱用を認め、吹田市も承認している。 なお検察は「拳銃発射は暴徒のうちにもこれを行ったものがあり、 これら負傷のすべてが警察官の発射した」ものとは言い難いと主張していたが、 証拠がなく現場にいた警察官、第三者証人だれも証言していないため、 根拠が乏しいとされ裁判で認められなかった。 なお検察は警察隊が撃った弾によって重傷を負わせたデモ参加者4人を起訴していない。 裁判
吹田事件弁護団は後に保守系の吹田市長となった 山本治雄を主任弁護士として結成された。 弁護団には国会議員をしていた弁護士の加藤充や亀田得治らも加わり、 国会でも吹田事件を取り上げて「弾圧」の不当性を訴えた。 このときの裁判戦術は、大衆的裁判闘争と呼ばれ、後に日本国民救援会によって 公安事件の闘争方法として定着していくことになる。 日本共産党が路線を転換し、武装闘争路線を誤りと認めた六全協以後も、 幅広い団体や日本共産党国会議員・弁護士による支援は続けられている。 1953年7月27日、朝鮮戦争が休戦。7月29日に行われた公判の冒頭で、 被告人たちは佐々木哲蔵裁判長に朝鮮戦争休戦を祝う拍手と朝鮮人犠牲者に 対する黙祷を行いたいと申し出た。 これについて佐々木は「裁判所は止めもしなければ激励もしない、 裁判所は中立性を表明する」と静観した。検察は佐々木の対応を不服とし、 保守系議員に働きかけて佐々木を国会の裁判官訴追委員会にかけた。 これがいわゆる吹田黙祷事件である。訴追委員会は佐々木の喚問を決定するが、 佐々木は裁判の公平性が損なわれるとして拒否。 最高裁判所は、「法廷の威信について(通達)」 (昭和28年9月26日最高裁判所総総第210号)及び「法廷の威信について」 (昭和28年9月26日最高裁判所総総第211号高等裁判所長官、地方裁判所長 および家庭裁判所長あて事務総長通達)を発出し、全国の裁判官に宛てて、 佐々木の訴訟指揮を「まことに遺憾」とした。 しかし、司法関係者による相次ぐ反対のため、喚問は行われなかった。 結局、裁判官訴追委員会では、訴追猶予の決定が下された。 1963年6月22日の第一審判決では騒擾罪の成立を認めなかった。 検察は111人の被告人のうち47人を控訴したが、1968年7月25日の第二審判決でも 一部の被告人が威力業務妨害罪で有罪となったが、騒擾罪の無罪は変わらなかった。 参考文献
吹田・枚方事件について (1954年) (検察研究特別資料〈第13号〉) [−] 横幕 胤行 法務研修所 1954 大阪で闘った朝鮮戦争―吹田枚方事件の青春群像 大阪で闘った朝鮮戦争―吹田枚方事件の青春群像 [単行本] 西村 秀樹 岩波書店 2004-06-25
朝鮮戦争と吹田・枚方事件 朝鮮戦争と吹田・枚方事件 [単行本] 脇田 憲一 明石書店 2004-03-22
なにわ金融事件簿―闇に蠢く懲りない面々 なにわ金融事件簿―闇に蠢く懲りない面々 [単行本] 高村 薫 かもがわ出版 1997-11
これでいいのか大阪府大阪市 (日本の特別地域特別編集 40) これでいいのか大阪府大阪市 (日本の特別地域特別編集 40) [ペーパーバック] 三宅敏行 マイクロマガジン社 2012-11-29
大須事件 大須事件(おおすじけん)とは、1952年(昭和27年)7月に 愛知県名古屋市中区大須で発生した公安事件。
(デモ側が子供を動員していたことがわかる) 帆足・宮越両代議士を歓迎するデモ隊 300px-Oosu_Incident 事件の発端
中華人民共和国の北京で、日中貿易協定の調印式に臨んだ 日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が帰国し、 1952年7月6日(日曜日)に名古屋駅に到着した。 両代議士の歓迎のために約1000人の群集が駅前に集合、 無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。 その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、 翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を 襲撃する計画が発覚した。 帆足・宮越両代議士を歓迎するデモ隊 Oosu_Incident2 事件の概要
1952年7月7日(月曜日)当日、名古屋市警察は警備体制を強化し、 全警察官を待機させた。 午後2時頃から、会場の大須球場 (名古屋スポーツセンターの敷地にかつて存在した球場)に 日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、 午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。 午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、 その煽動によって約1000人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。 警察の放送車が解散するよう何度も警告すると、デモ隊は放送車に向かって 火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、 デモ隊は四方に分散して波状的に火炎瓶攻撃を行うなど大須地区は大混乱に陥った。 また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、 中税務署に火炎瓶を投下する別働隊の事件も発生している。 この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、 デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。 名古屋市警察は捜査を開始、 最終的に269人(その内、半数以上が在日朝鮮人)を検挙した。 捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、 朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが判明した。 裁判
名古屋地方検察庁は騒乱罪等を適用し、152人を起訴した。 裁判は当初の予想よりも長期化したが、1978年9月4日、 最高裁判所第二小法廷は上告を棄却し、有罪が確定した。 参考文献
大須騒擾事件について―対権力闘争事犯公判手続上の諸問題 (1954年) (検察研究特別資料〈第14号〉) [−] 法務研修所 1954-03 名古屋市警察史 名古屋市 名古屋市総務局調査課 愛知県警察史〈第3巻〉 愛知県警察本部 日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実 (1980年) 日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実 李 瑜煥 洋々社 検証:大須事件の全貌―日本共産党史の偽造、検察の謀略、裁判経過 検証:大須事件の全貌―日本共産党史の偽造、検察の謀略、裁判経過 [単行本] 宮地 健一 御茶の水書房 2009-05
[12削除理由]:管理人:無関係長文多数のアラシ
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