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「歴史や政治を「名誉」という尺度で語る言説が増えてきたが:山崎 雅弘氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/15356.html
2014/9/25 晴耕雨読
https://twitter.com/mas__yamazaki
歴史や政治を「名誉」という尺度で語る言説が増えてきたが、実際には彼らの言う「名誉」は「面子」でしかない。
名誉と面子は似ているので錯覚しやすいが、決定的な違いは「名誉」は自分の失敗や瑕疵を認めても「認める態度」によって保たれるのに対し、「面子」は自分の失敗や瑕疵を認めると失われる。
自分の失敗や瑕疵を指摘された時「他の連中もやっているのになんで自分だけが」と感情的に反発するのも「名誉」ではなく「面子」にこだわる人間の特徴で、価値判断の尺度を内面でなく「他人からどう見えるか」という外面に置いている。
失敗や瑕疵を認めて「他人から見下される」ことを心底から恐れる。
名誉に見せかけた「面子」は、犯罪行為を指摘されても「他の連中もやっている」という言い訳で守れるが、本物の名誉はそんな言い訳では決して守れず、逆に言い訳のお粗末さで失墜する。
自分の過去には瑕疵がない、とは「名誉」を重んじる人は言わないが「面子」にこだわる人はそこに最大の価値を置く。
「名誉」でなく「面子」にこだわる人間は、交渉では「実質的勝利」でなく「形式的勝利」を求めるので、名を捨てて実を取るという「譲歩」を行えない。
「面子」にこだわる人間は「形式」に思考を支配されているので、名と実の違いすら認識できない。
失敗するとわかっていても、他の方法を選択できない。
先の戦争における敗戦と膨大な犠牲は、政府と国民が「名誉」と「面子」を取り違えて、ひたすら「面子」に固執した結果だったと思う。
国際連盟脱退も、日中戦争解決の失敗も、敗北確実な対米英蘭戦の開始も、面子に固執せず譲歩すれば避けられたが、それができずに日本軍人だけで230万人が死亡した。
名誉」と「面子」の取り違えは、捕虜の扱いにも見られる。
実質の「名誉」を重視していた日清・日露戦争の日本軍は、捕虜を不名誉とは考えず敵の捕虜にも敬意を払ったが、昭和の日本軍は捕虜になれば「面子が潰れる」と考えて厳禁し、敵捕虜も虐待して、大勢の日本軍人が戦後に戦犯として処刑された。
実質としての「国の名誉」が日々失われていることに憂慮する日本人は少なくないが、形式としての「国の面子」にしか関心のない人には、前者の人間に見えている破壊が全く見えない。
自国の失敗や瑕疵を認めて「他国、特に自分が見下している国から見下される」不安から「国の名誉」をさらに壊し続ける。
政府と国民が「名誉」と「面子」を取り違え、ひたすら「面子」に固執した結果、この国は1945年8月に破滅の瀬戸際へと追いやられた。
本物の「愛国者」は、その状況を「二度と繰り返してはならない」という点から思考を始めるが、「面子」にこだわる「偽の愛国者」は、逆にそれを繰り返そうとする。
この先、政治家や新聞、政府に近い人間が「名誉」という言葉で思考や行動を誘導・制約する動きが増えていくと思うが、美麗な語句に惑わされて「名誉」と「面子」を取り違えたまま暴走すれば国が滅ぶことを、先人は自分たちの命と引き換えに教えてくれている。
彼ら彼女らの犠牲を無駄にしてはいけない。
> 国を愛することが悪いのでしょうか@mas__yamazaki 大阪護国神社で行われた政治集会において教育勅語を朗唱した後「日の丸行進曲」「愛国行進曲」「日本」を合唱する塚本幼稚園の園児たち。http://bit.ly/1qnbZkF http://t.co/q2AFgaNNR7
国を愛することは何も悪くありませんよ。
私も一日本人として、この国を愛しています。
問題なのは、国を愛する行為だと錯覚して国民が間違った方向に暴走し、国を滅ぼしてしまうことです。
70年前、この国はそれで滅亡しかけました。
> というか素朴に在特会守る警官多すぎだよ。。 http://t.co/VVWHgovrPh
8月29日に国連の人種差別撤廃委員会が日本政府に提示した「ヘイトスピーチを行った個人や団体に対して捜査を行い、必要な場合には起訴すべきだ」との勧告に対する、首相と国家公安委員会からの「返答」がこれですか。
> 日本の極右とネオナチは関係ないと産経新聞は主張していましたが、ここで在特会による六本木ヘイトデモ参加者が掲げていたプラカードを観てみましょう。「忘恩乞食ヤクザの民、ユダヤ-朝鮮人ファシストの言論弾圧を許すな」。完全に合体していますね。 http://t.co/Ss8AnNAgr4
産経や読売はともかく、朝日や毎日も現職閣僚と有力ヘイト団体の実質的な繋がりに、今後も一切触れずに済ませるつもりなんだろうか。
国が音を立てて変質しているのに、一般市民はおろかフリーのジャーナリストすら入れない場所で権力者に質問する職業の社会的責任とか、記者は何も感じずに平気なのか。
「AFPはフリーのジャーナリストが、私たちが足を踏み入れない地域で取材してきた素材を受けつけないことにした。フリーの記者がシリアに行って取材してきた情報も写真も映像も、私たちは使わない」
「プロパガンダのための暴力シーンは報じない。これが、先月から相次いで公開された人質の斬首場面をAFPが流さなかった理由だ」(AFP)http://bit.ly/1ulka8x
宣伝戦に加担しないために、何かを「敢えて報じない」判断にも、報道職人の確固とした「プロ意識」を感じることはあるが、日本のメディアが何かを「報じない」背景に、その種の「プロ意識」はあるのか。
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