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2014年09月16日
表層的面だけを観察していると、今回の朝日新聞の誤報(過度の表現)であるとか、ミスジャッジは、ある面でそのとき流れていた世の中の雰囲気、ムード、「空気」による報道へのしっぺ返し、と言っても過言ではない。ポピュリズムに親和性を持つことで、購買部数を増やすと云うのは、マスメディアが持つジレンマである。また、経営上、報道の質は、購買数を増加させる事とスポンサーの意に沿わない報道を自粛する二面性を有している。これも、日本のマスメディアが抱えるジレンマである。以上のことを念頭に入れて、現在の日本のマスメディアと云うものを捉えておかないと、思いもしない方向に世間の「空気」と云うものは加速度的に流れ、のっぴきならない奔流、濁流となることを危険視しておくべきだ。
朝日新聞のリベラル性が、どの程度ホンモノだっかと云う議論もある。筆者は、個人的な感情として、今の「政権、産経・読売・日経・文春等々」の朝日新聞魔女狩り報道ぶりを眺めながら、まさに「小沢一郎バッシング」に近いものがあることを感じる。まあ、かなりいい気味と云う感慨もあるわけでが、世界的通用する新聞社としての評判があっただけに、産経や読売が叩かれているのとは、異なる次元での評価も必要だろう。馬鹿がバカなことを仕出かしても、「そりゃそうだろう」で済むが、利巧や良心を標榜していたメディアにとってのダメージは、計り知れない。
そもそも、調査報道には、報道のリスクが付きものなわけで、週刊誌ではないのだから、キャッチコピーで“売らんかな”の精神構造自体が間違っている。事実関係を羅列して、そこそこの識者や読者を巻き込んで、疑念や推測をちりばめて紙面構成をすればいいのだ。そこから先は、読者の能力ひとつで、どちらの考えに帰結するか、メディア側が、羅針盤まで指し示す必要はない。その羅針盤の創作活動の中で、大袈裟な表現や、意図的言葉じりの悪用などが紛れ込むのである。
朝日の今回の原発に関する誤報(過度の表現)は、吉田所長の命令が、全員に伝わっていなかった、という故吉田所長の証言があるわけだが、正直、現時点では、吉田所長が“神格化”された前提で、すべてが動いている点にも注意を向けるべきである。故吉田氏が、自己防衛する立場であったこと、また、東京電力や原発従事者を擁護しなければならない立場にいた人物であることも考慮されるべきで、吉田所長の“神格化”の魔女狩り的な要素が既に加わっていたことも、検討に値する。まあ、極めて日本人的で、仏になった人が、嘘や曖昧さを言うわけがない!という、風潮に、朝日自信が乗っかり、その上で墓穴を掘ったことになる。
フクイチのレベル7の事故が起きている最中の錯綜した中で起きた出来事の事実関係そのものを、為にする議論で、ポピュリズムな方向性に迎合した朝日新聞の反原発姿勢には、そもそも眉唾的ニオイはしていたわけで、中日・東京新聞や夕刊ゲンダイの一貫した姿勢とは異なるものがあった。反原発で、反集団的自衛権で、反秘密保護法の論陣を張りながら、消費増税賛成、TPP賛成の論がまかり通っているのが朝日新聞なのだから、リベラルどころか、Wポピュリズムだとも言える。このような現象は、朝日新聞が日本の良心を標榜する立場と、官僚機構とは喧嘩しない立場と、アメリカと親和的であろうとする立場と、スポンサーの顔色みながら記事を書く立場など、相容れないものを、新聞社一社で抱え込むことの限界を露呈したのだと思う。
事実関係を重視するのであれば、フクイチ事故当時、現場従事者の多くが、福島第二に退避したのは事実であり、その命令(乃至は指示)が不徹底で通じなかった云々は、重大な事実誤認とは、意味合いが違う。重要なことは、現に、従事者の多くが、事故原発から逃げ出したことであり、故吉田所長の指示に対する違反があったのか、通知不徹底であったか、それを証明するのに、故吉田所長の証言が神格化しては、議論の余地はなくなる。また、慰安婦問題にしても、吉田清治の証言が捏造であったから、慰安婦の強制連行はなかったと云う、産経読売、安倍晋三らの主張も、極めて奇妙である。慰安婦の強制連行があった事実がなかった証明には、何ひとつ貢献していない。木の小枝に張り付いていた枯葉が落ちたと騒いでいるだけで、森には一歩も踏み込んではない。
つまりは、マスメディアの限界論の噴出であり、大戦翼賛報道態勢に拍車がかかる危険が増大してきたのは、忌々しい問題である。おそらく、このままの状況が続けば、朝日新聞の読売新聞化が顕著になる可能性を示している。奇妙な部分で手に手を取り合い、仲間気分を味わいながら、実は、相手のミステークを待ち望み、水に落ちた犬を棒で叩くような所業に出るのが、「節操なき社会の木鐸」の不都合な真実なのである。読売産経の醜さは、右翼らしからぬ今起きている読者倍増プログラムなど、武士の風上にもおけぬ、節操なきメディアの無様な姿なのである。このような状況に晒され、朝日がどのようなメディアに変わるのか、少々興味もあるが、多くを期待するのは無理な感じもする。
産経・読売が政府丸抱えメディアであり、日経が経団連丸抱えメディアであることは、多くの国民が知っているわけで、それはそれで良いだろう。米中露EU等々も、日本の知的傾向を知るために参考にするメディアが朝日であると云う言説は、この問題が起きたからといって、早急に変わるものではない。購買部数の減少も、ネトウヨが喜ぶほど減少はしないだろう。ただ、根本的に、マスメディアの持つ役割自体は構造的に減少傾向にあるわけだから、このような問題を奇禍として、マンネリ化した新聞のつくり方自体を見直す方向にまで進めることが出来れば、奇禍になるだろう。
その方向がどのようなものか、筆者にも一定のイメージはある。記者クラブメディアからの脱出を推奨するつもりはないが、政府発表報道部門と自由報道部門と云う、紙面の構成そのものに挑戦するにはイイ機会だと思われる。日本の新聞のイメージを刷新する器量を持っているのは、朝日新聞の人材力の強みでもある。その人材を、中途半端なポジショニングで動かすから、ミスが出るわけだから、大きく新聞構成をチェンジさせるのである。新聞を「政府行政発表報道部門と自由報道部門」の区別を一目瞭然化させるために、「白と薄緑」の紙質に変え、虻蜂取らずな論説を排除する。記者連中に単独取材能力がないのであれば、社外のフリーランスやコラムニストに、多くの紙面を提供するのも選択である。
朝日の社員記者が、その民間部門に門戸を開いた紙面の内容の裏付け等々の作業をすることで、確実性は増すだろう。無論、あまりにも極端な論が展開された時には、それに対峙する論も同時掲載するとか、ドラスティックな、新聞の紙面構成の改革に着手すべきだろう。ネットメディアや個人ブロガーであっても、大いに有効活用する度量の深さを見せるメディアに変われるチャンスだと思う。そのような試みもせず、無難にこの場を乗り切ろうとすれば、読売新聞化するのは必定で、世間の「空気」はトンデモナイ方向に走り出し、再び後悔懺悔と云う時代に突入する危険はかなりある。大袈裟にいえば、日本が右翼翼賛リスクを回避できかどうかの瀬戸際にあると云う事実を噛みしめるべきだろう。
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