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昭和天皇実録公表 「ご聖断」ソ連参戦で 侵攻報告の18分後「終戦」指示(産経新聞)
http://www.asyura2.com/14/senkyo171/msg/159.html
投稿者 赤かぶ 日時 2014 年 9 月 09 日 10:07:05: igsppGRN/E9PQ
 

ポツダム宣言受諾の「ご聖断」へ至る経過(写真:産経新聞)


昭和天皇実録公表 「ご聖断」ソ連参戦で 侵攻報告の18分後「終戦」指示
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140909-00000089-san-soci
産経新聞 9月9日(火)7時55分配信


 宮内庁は9日、昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」の内容を公表した。事実として確認された言動や、側近らの謁見日時が時系列で示され、これまで諸説あった終戦の「ご聖断」の経緯が明らかになった。昭和天皇が最終的にポツダム宣言受諾を決意したのはソ連軍が満州に侵攻したとの情報を得た直後で、ソ連参戦が「ご聖断」の直接原因だったとみられる。実録には幼少期の生活ぶりなども詳細に記され、公表により近現代史研究が大きく進むことになりそうだ。

 実録では、連合国が日本に降伏を求めたポツダム宣言を入手した昭和20年7月27日から降伏の玉音放送が流れた8月15日までの20日間を36ページにわたり詳述。それによると、昭和天皇は広島に原爆が投下された2日後の8月8日、賜謁した東郷茂徳外相に「なるべく速やかに戦争を終結」させたいとの希望を述べた。

 翌9日午前9時37分、ソ連軍が満州侵攻を開始したとの報告を受けると、直後の9時55分、木戸幸一内大臣を呼び、戦争終結に向けて鈴木貫太郎首相と「十分に懇談」するよう指示。木戸内大臣から天皇の意向を聞いた鈴木首相は、午前10時30分開催の最高戦争指導会議でポツダム宣言への態度を決定したいと答えた。

 10日午前0時3分、御前会議が開かれ、鈴木首相から「ご聖断」を求められた昭和天皇は、ポツダム宣言受諾を決心したと述べた。

 昭和天皇のポツダム宣言受諾決意の時期には、広島や長崎への原爆投下時、ソ連参戦時など諸説あったが、実録を分析した京都大の伊藤之雄教授(近現代史)は、広島への原爆投下時では2日後に終戦の意向を閣僚の東郷外相に伝えたのに対し、ソ連参戦時は直後に側近中の側近だった木戸内大臣に指示した点を重視。「ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」としている。

 実録の記述により、連日の本土空襲や原爆投下などで終戦の意向を強めた昭和天皇が、ソ連参戦で万策尽きたと判断。これ以上の犠牲を広げないため、即時終戦に向けた動きを主導した当時の様子が明らかになったといえる。

 また実録では、幼・少年期の手紙や作文を初めて公開。初出のエピソードも多数盛り込まれた。一方、即位後の政治的発言や側近らの謁見内容が明かされないことも多く、編纂(へんさん)方針をめぐり議論を呼びそうだ。


 

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コメント
 
01. 2014年9月09日 10:18:14 : sIAhp364cc
戦中の苦悩、克明に=少年期の作文、鼻手術―「昭和天皇実録」公表・宮内庁
時事通信 9月9日(火)5時15分配信

 宮内庁は9日、昭和天皇の87年余りの生涯を記録した「昭和天皇実録」の内容全文を公表した。大元帥だった戦中、退位論が浮上した戦後の苦悩を含め、激動の生涯を歩んだ昭和天皇の足跡が克明に描かれ、昭和史の一級史料となる。子どもの頃の手紙や作文
、側近らによる回顧録作成などの新事実、二・二六事件後の侍従長による「百武三郎日記」といった新史料の存在も判明。今後の昭和史解明の大きな手掛かりとなりそうだ。

 実録は計61冊(目次・凡例1冊含む)、1万2137ページ。1901年4月29日の誕生から、89年1月の87歳での逝去、2月の大喪の礼、91年3月30日の昭和天皇武蔵野陵の陵籍登録まで、確実な史料に基づき原則口語体で年代順に記した。

 新事実やあまり知られていない事実は、宮中にクリスマスの風習があったこと、学習院初等科時代の日記や運動会についての作文、両親の大正天皇らに宛てた手紙、寓話(ぐうわ)、23歳のときの鼻の手術、戦時中に伊勢神宮を参拝した際の「御告文(おつげぶみ)」の内容など。ポツダム宣言受諾を決めた御前会議に昭和天皇が出席したのは45年8月10日午前0時3分で、前日9日深夜開始ではなかったことも確認された。

 これまで知られている「独白録」と「拝聴録」以外に、側近らが戦前の話や戦後の国民への思いなどを聞いて回顧録が作られたことも判明。同庁書陵部は「原本は確認できていない」と説明している。新たな和歌もいくつか収録された。

 同庁によると、編さんに使われた3152件のうち、約40件が新史料。一方、太平洋戦争開戦から終戦、占領期にかけての内容について、大方の専門家は「通説を大きく覆す記述はない」との見方で一致している。

 実録は90年4月から24年余りで完成し、今年8月21日、天皇、皇后両陛下に献上された。来年3月以降、今後5年かけ順次公刊される。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140909-00000007-jij-soci


02. 2014年9月09日 10:21:30 : sIAhp364cc
首相叱責、辞任に追い込む=若き昭和天皇の「政治関与」―張作霖事件・昭和天皇実録
時事通信 9月9日(火)5時31分配信

 1928年6月4日、満州軍閥の巨頭、張作霖が奉天郊外で爆殺される事件(満州某重大事件)が発生。即位後間もなかった昭和天皇は事件への対応をめぐり、田中義一首相を叱責、辞任に追い込んだ。

 28年12月24日、田中首相は昭和天皇と面会し、事件の概要を報告、詳細は白川義則陸軍相から説明させると伝えた。29年3月27日、陸軍相は昭和天皇に対し、河本大作関東軍参謀の独断による事件だが、国益を損ねるため公表しないと述べた。

 同年6月27日、田中首相は昭和天皇に対し、犯人不明のまま責任者の行政処分のみを行うと報告した。昭和天皇は、これまでの説明と大きく違うとして、「強き語気にてその齟齬(そご)を詰問」し、辞表を提出するよう求めた。田中首相は弁明しようとしたが、昭和天皇は「その必要はなし」と退けた。

 翌28日午前、昭和天皇は河本参謀を停職などとする人事を裁可した。午後、鈴木貫太郎侍従長は田中首相を呼び、昭和天皇の「御真意」を改めて伝えた。田中首相は面会を求めたが、鈴木侍従長は昭和天皇が拒否していると説明。これを受け、田中首相は「最早(もはや)御信任を欠く」として内閣総辞職を決意した。田中首相は約3カ月後に死去した。

 田中首相を失脚させた若き昭和天皇の「政治関与」に、西園寺公望元老ら側近は不安を抱いたとされる。昭和天皇はこの問題以降、政治関与に慎重になったといわれている。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140909-00000014-jij-soci


03. 2014年9月09日 10:22:33 : sIAhp364cc
事件直後、鎮圧命じる=「禍転じて福となせ」―二・二六事件・昭和天皇実録
時事通信 9月9日(火)5時34分配信

 1936年2月26日未明、陸軍の青年将校らが首相官邸や警視庁などを襲撃し、高橋是清大蔵相や斎藤実内大臣らが殺害された二・二六事件。昭和天皇は事件発生後直ちに、側近に対して早期鎮圧を命じ、その後自ら乗り出す意志を何度も示すなど、非常事態収束に向けた対応を急がせた。

 昭和天皇は2月26日朝、事件の一報を聞き、本庄繁侍従武官長と面会。「事件の早期終息を以て禍(わざわい)を転じて福となすべき」と述べた。その後も頻繁に事件の成り行きを聞き、事件鎮圧を督促。侍従武官長との面会は26日に14回、27日12回、28日は15回に及んだ。

 27日、侍従武官長に対し、自分の最も信頼する老臣を殺傷されたことについて「真綿(まわた)にて我が首を絞めるに等しい行為である」と述べ、自ら暴徒鎮圧に当たる意志も示した。

 28日午後、クーデター失敗を悟った首謀者らが自決して謝罪するので、勅使を派遣してほしいとの意向を示していると本庄侍従武官長から聞いた。昭和天皇は「非常な御不満を示され御叱責」した。同日夜、難を逃れた岡田啓介首相と面会。辞職の意向を伝えられたが、「時局重大の折柄職務に精励すべき」と、職務を続けるよう希望した。

 昭和天皇が侍従武官長から「叛乱(はんらん)軍は大方鎮定した」と報告を受けたのは、発生3日後の29日午後2時ごろ。大元帥である昭和天皇が事件の早期鎮圧を訴えたのに、事態収拾が遅れたことで、昭和天皇は陸軍への不信を強めていったといわれている。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140909-00000015-jij-soci


04. 2014年9月09日 10:23:54 : sIAhp364cc
軍部けん制「外交努力を」=戦争への道、止められず―開戦・昭和天皇実録
時事通信 9月9日(火)5時35分配信

 1937年の盧溝橋事件を機に日中戦争が始まり、40年に日独伊三国軍事同盟を締結、そして41年の対米宣戦布告へと、日本は戦争への道を突き進んでいった。昭和天皇は懸念を示しながらも、この流れを受け入れていった。

 御前会議前日の41年9月5日、昭和天皇は近衛文麿首相から政府方針である「帝国国策遂行要領」の説明を受けた。第1項が対米戦争の決意、第2項が外交手段を尽くすとなっており、「戦争が主、外交が従であるが如(ごと)き感あり」と不満を述べ、順序を改めるよう求めた。首相は軽重の順ではないと答えたが、納得しなかった。

 その後、杉山元・参謀総長と永野修身軍令部総長を呼び出し、南方作戦の成算などについて問いただした。約5カ月で終了見込みだとの回答にも納得せず、参謀総長の発言は反対の結果になることがしばしばあると指摘。さらに事情説明するのを強い言葉で叱責した。

 この日は2人が「決して戦争を好むにあらず、回避できない場合に対処するのみ」と答えたため、これを了承。翌6日の御前会議で同要領が可決され、10月上旬まで対米交渉がまとまらない場合の開戦方針が決まった。

 昭和天皇は会議終了間際、杉山参謀総長と永野軍令部総長が答弁しなかったことを「極めて重大な事項にもかかわらず、意思の表示がないことを遺憾に思う」と批判。平和を祈る気持ちを詠んだ明治天皇の歌「よもの海みなはらからと思ふ世になと波風のたちさわくらむ」を読み上げ、2人の意向をただした。御前会議での天皇の発言は極めて異例だった。

 10月上旬になっても対米交渉に進展はなく、近衛内閣は総辞職。昭和天皇は次の東条英機首相に、9月6日の御前会議の決定にとらわれることなく検討するよう命じ、11月5日に武力発動の時期を12月初めとする新たな国策遂行要領が決まった。

 結局、日米交渉は決裂し、12月1日の御前会議で開戦が決まった。昭和天皇は会議後に面会した杉山、永野両総長に対し、開戦の決定を「やむを得ないこと」と話し、陸海軍は十分に協調するよう命じた。

 12月8日、日本は米ハワイの真珠湾を攻撃し、英国と米国に宣戦布告。太平洋戦争が始まり、日本は暗い時代を迎える。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140909-00000016-jij-soci


05. 2014年9月09日 10:25:07 : sIAhp364cc
2度の「聖断」で大戦終結=「国体も国家もなくなる」―終戦・昭和天皇実録
時事通信 9月9日(火)5時37分配信

 米国は1945年8月6日に広島、同9日に長崎に原爆を投下。そしてソ連が突如、対日参戦した。昭和天皇の2度の「聖断」により、日本はポツダム宣言を受諾し終戦に至ったが、戦争継続を求める陸軍との攻防が最後まで続いた。

 8月10日午前0時すぎ、昭和天皇は皇居・吹上御苑内の防空施設「御文庫」付属室で開催された御前会議に出席。ポツダム宣言受諾の条件をめぐって意見が分かれ、鈴木貫太郎首相が「聖断」を求めた。昭和天皇は「人民を破局より救い、世界人類の幸福のため(国体護持のみを条件とする)外相案にてポツダム宣言受諾を決心した」と述べ、午前9時、連合国側に伝えられた。

 これに対する米国側の回答をめぐり、政府と軍部で再び議論が続いた。昭和天皇は14日午前11時すぎ、御前会議に姿を見せ、鈴木首相は改めて「聖断」を求めた。

 昭和天皇は「戦争を継続すれば国体も国家の将来もなくなる。即時停戦すれば将来発展の根基は残る」と述べ、終戦の詔書を自らラジオ放送すると提案。午後11時、ポツダム宣言受諾が米国に伝えられた。

 放送の録音は午後11時25分から、宮内省の内廷庁舎「御政務室」で行われた。録音盤は侍従職事務官室の軽金庫に収納された。

 同日夜から翌朝にかけ、「聖断」撤回を求めた一部の陸軍将校がクーデターを決行。近衛第1師団長を殺害して偽の命令を出し、皇居内に侵入した。通信施設などを占拠して録音盤や御璽などを捜したが発見できず、朝には鎮圧された。目覚めて報告を受けた昭和天皇は、事件の発生を嘆いた。

 昭和天皇は15日午前11時20分、御文庫付属室で枢密院会議に出席。同50分、会議場に隣接する「御休所」に移り、正午から、前夜録音したラジオ放送を聞いた。平沼騏一郎枢密院議長ら会議参列者は、御休所外の廊下に整列し放送を聞いていた。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140909-00000017-jij-soci


06. 2014年9月09日 10:26:10 : sIAhp364cc
「戦争避けられず遺憾」=自らマッカーサー訪問―昭和天皇実録
時事通信 9月9日(火)5時37分配信

 ポツダム宣言受諾後の1945年8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。9月27日、昭和天皇は自ら東京・赤坂の米国大使館を訪れ、マッカーサー元帥との初めての会見に臨んだ。

 午前10時に到着した昭和天皇は玄関で秘書らの出迎えを受けた後、室内でマッカーサー元帥と対面、握手してあいさつを交わした。2人で並んだ写真3枚を撮影し、着席した。

 マッカーサー元帥は「原子爆弾の登場により、今後もし戦争が起これば人類は絶滅する」「もし日本が戦争を続けていたら日本全土は壊滅し、何百万人が犠牲になったであろう」などと約20分間、強い口調で話した。

 これに対し昭和天皇は「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考えでありましたが戦争となるの結果を見ましたことは自分の最も遺憾とするところであります」と述べた。会見は約30分で終わり、マッカーサー元帥は玄関まで見送った。

 昭和天皇とマッカーサー元帥の会見は計11回に及び、食糧問題や国内の治安、日本の安全保障などが話題に上った。最後となったのは51年4月15日。昭和天皇が連合国軍最高司令官を解任されたマッカーサー元帥にお別れのあいさつをするため急きょ訪問、これまでの好意に対し謝意を伝えた。

 会見の内容について、昭和天皇は終生語らなかった。マッカーサー元帥は64年出版の回想記で、昭和天皇が最初の会見の際、「すべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした」と述べたと記している。今回実録に引用された通訳の記録にこの発言はなく、真偽をめぐっては今も議論がある。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140909-00000018-jij-soci


07. 2014年9月09日 10:27:09 : sIAhp364cc
時代に翻弄された参拝=空襲、GHQ、A級合祀―靖国・昭和天皇実録
時事通信 9月9日(火)5時39分配信

 1931年の満州事変以降、昭和天皇はほぼ毎年、靖国神社を参拝していた。しかし、その後の時代の移り変わりに翻弄(ほんろう)されるかのように、時期の変更や見合わせを余儀なくされ、晩年は参拝自体を見送った。

 戦時中は、戦没軍人らを合祀(ごうし)する臨時大祭に合わせた参拝が通例だった。しかし、本土への空襲が本格化したため、44年10月以後は「現下の戦局に伴う防空上の見地」から祭事終了後に変更された。

 敗戦直後の45年11月に行われた臨時大招魂祭には参拝したものの、翌46年の春季例祭では連合国軍総司令部(GHQ)が使者の派遣を「不適当」と判断。このため、次の参拝は52年、使者派遣は53年まで見合わせることになった。

 戦後8回目となった75年11月の参拝は「終戦三十周年に当たり、同社より御参拝の希望」があり、私的参拝の形式で行われた。だが、キリスト教系団体などが中止を要望。野党各党から反対声明が出され、国会でも質問主意書が提出されるなど論議を呼び、参拝はこれが最後となった。

 3年後の78年、靖国神社はA級戦犯を合祀。昭和天皇は88年4月28日、富田朝彦宮内庁長官に対して、3日前の記者との会見で第2次大戦を「いやな思い出」と表現したことに触れた上で、A級戦犯合祀と参拝に言及した。

 実録にはこの「言及」の内容は記されていないが、富田長官が残したメモによると、A級戦犯合祀に不快感を示したという。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140909-00000019-jij-soci


08. Crw 2014年9月09日 12:36:28 : wWeV1Xsorrafg : tmwIqKjYjU
昭和天皇、軍部専横止められず 「実録」公表:社会:中日新聞(CHUNICHI Web)
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2014090801002003.html

最近の読売ナベツネとサリン石原コンビみたいなもんですね。


09. 2014年9月09日 13:00:07 : GYHWDpOZ6Y
[昭和天皇、軍部専横止められず]

軍部だけでなく、朝日新聞をはじめとしてマスコミも戦争支持で国民世論を煽って

戦争への道は「どうにもとまらない」ことになった。

BY,山本リンダ(古すぎ?)

それと米国らのABCD包囲網により ヘイ、ジャップ、カモン、の情勢

にあったでしょうし・・・・。


10. 2014年9月09日 13:28:59 : Rj4rbmcCFk
敗戦決定を「聖断」と呼ぶのはおかしくないか?
こんなの、開戦決定に使用すべき単語だろう

11. 2014年9月09日 13:41:37 : qVAAt2EA7A
>>10

それは勝った戦争の場合だろう。負けた戦争の開戦決定を「聖断」と呼ぶのはマゾなのか。


12. 2014年9月09日 14:05:23 : mDPbKgi0ZM
 開戦の決定は聖断ではないだろう、帷幄奏上の統帥でほとんど軍の運用実態を把握しない天皇が直接統帥の決断をするわけがなく、たんなる天皇は機関に過ぎなかった。しかし、戦争終結の決断は最初で最後の天皇自身の判断による決断、すなわち「聖断」と言えるのではなかろうか。なぜなら、帷幄奏上は戦争継続であったにも拘らず自身のお考えで押し切っている。

13. Crw 2014年9月09日 15:07:22 : wWeV1Xsorrafg : gtNRZ28EnM
国を愚かな戦争に導くナベツネや石原のような国賊の輩というのはいつの時代にも居るのは確かですね。

14. 2014年9月11日 11:22:44 : I7ZeU2eHqA
終戦の原因を「原爆のせい」とすると日本の反原子力団体から攻撃されるから、
お役所仕事で、一番抗議のなさそうな「ソ連参戦」に押し付けたのが見え見え、という感じもする

15. 2014年9月11日 14:45:35 : kkKSgKKsSg
そうかな、AP通信とかはソ連参戦のことは伝えてないよ
原爆のせいではないとすると、アメリカの原爆投下の正当性が揺らぎ
大量殺戮の犯罪性を補足するからだろう
その意味では天皇の動静を事務的に記した実録は雄弁だ

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