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<南京大虐殺の真実>
「南京大虐殺は幻」とわめき散らしてきた極右の石原慎太郎の主張は、吉林省公文書館資料の公開によって、あっけなく葬り去られてしまった。現地派遣軍の憲兵隊司令官の記録に「100万人の南京市が事変後に30万人になった」と何度もある。
同司令官による「軍紀の弛緩」もその中に。南京侵略軍の蛮行は世界の戦争史上、類例のない悪逆非道なものだった。ふと1995年、戦後50年の南京訪問を思い出した。
<戦争遺児や目撃者も>
当時の訪問記「南京に立つ」にも触れておいたのだが、戦後50年の50人編成の南京と盧溝橋への平和行脚は、前年12月30日、中山太郎元外相秘書だった有澤志郎君と当時人民日報国際版編集長をしていた張虎生さんと食事をしていた際に、95年の南京訪問計画を打ち明けた。
彼はひどく喜んでくれた。95年1月7日、千葉県木更津市の小料理店「金本」での仲良しグループの新年会で、正式に披歴した。その後に朝日・東京・千葉日報が取り上げてくれて、丁度50人の参加者が集まった。
このメンバーの中には、現在東京都大田区長の松原忠義・宇都宮徳馬秘書もいた。差別社会・秋田県本庄市から故郷に戻って、自立への道を踏み出したばかりの戦争遺児・影山友子も、知り合いを誘って参加していた。戦場で散った父親の顔も知らないで育った、敗戦の1945年生まれ、50歳だった。
父親は硫黄島の海で人生を奪われたが、その前に中国侵略軍の1員にもさせられていた。芸術家志望は、中国時代の写真や派遣先の記録を残していた。
彼女は南京大虐殺記念館の現場に立つと、そこで見た「屠殺」という文字に驚愕した。そこに父親がいなかったことを確認して安堵したらしい。
<3カ月後も大虐殺する天皇軍隊>
86歳の辻田照二さんの姿もあった。息子の昇さん、当時和田町町議が付き添った。上海から南京に向かう車中、目の前の照二さんに「どうして南京なのか」と一言声をかけたことが、筆者だけの大スクープを手にした。彼は大虐殺の目撃者だったのだ。この計画の成功を証明してくれた。
現場に立つことなく、当時の南京に30万人はいない、嘘だ、と吹聴する、戦争加担勢力・右翼の、ためにする攻撃的言動には、正直なところ、腹わたが煮えくりかえる思いだが、歴史の歪曲・ねつ造は必ず化けの皮が剥がされるものだ。
「私は東京でタクシー運転手をしていた。そのため自動車部隊に所属、司令官を乗せたりしていた。大虐殺は本当にあった。3カ月後の南京をこの目で見た」と話始めた。
「関東軍情報将校は南京城が陥落した直後の1週間が特にひどかった。司令官到着前の3日間がすごかった、と聞かされていたが、3カ月後でも続いていた」と強調した。
これは多くの学者らの研究にも反する目撃談である。
<揚子江での銃殺惨状>
戦争とは、相手国民を皆殺しにするという皇軍の掟が存在するのだろうか。
それは3カ月後の南京郊外の揚子江でも繰り広げられていた。彼がなぜ3カ月後の目撃者だったのか。負傷して野戦病院で治療を受けていて、南京着が遅れたためだ。
日本軍の蛮行は、南京攻略直後のそれを容易に想像できるが、3カ月後でも、となると、これは戦争史上、特別に記録されてしかるべきだろう。
「揚子江にドラム缶を浮かべて、その上に板を縛りつけ、そこへと拘束した市民を追い込んで、日本兵が次々と銃殺してゆく。信じがたい殺伐とした恐ろしい光景だった。“お前も撃つか”と言われたが、とてもハイと従うわけにはいかなかった」
拘束された市民は、身を隠した国民党軍兵士だとしても、捕虜の無差別銃殺は国際法に違反する。そこに無関係な第3者はいなかったか。多くの市民が、揚子江上で銃殺されてゆくサマに将校付の運転手は、大虐殺の身の毛もよだつような恐怖を膚で感じさせられた。
「銃弾で撃たれて、もんどりうって揚子江に沈むと、その直後5メートル先に浮いてくる。其の時の激しい怒りと憎しみの眼光・形相を今も覚えている。忘れられない」と打ち明けてくれた。
「そのうちに銃弾が無くなってくると、次は銃剣で突き殺す。刺し方が悪いと、抜けなくなる。そうすると、ねじる。ねじらないと抜けない。凄惨過ぎる情景だった」
虐殺は揚子江だけではなかった。「捕虜にスコップを持たせて穴を掘らせる。掘った穴に捕虜を殺して埋めていた。戦争が終わっているのに、なぜ殺すのか。最初は分からなかった。日本軍に捕虜の観念が全くないことが、後で知った」
たとえそうだとしても、銃器を捨てた捕虜を全て殺害する天皇の軍隊、このことだけでも天皇責任は逃れることは出来ない。
<弛緩した日本軍の暴走>
軍紀の乱れは、他にもあろうが、天皇の軍隊は特別だった。敵国の人間を人間と見ない。敵国人を動物以下だと信じ込んでいる天皇の軍隊は、幼いころから天皇主義・選良教育を受けていたことが、蛮行を拡大させた可能性を否定できない。こうした価値観は、啓蒙思想家とされた福沢諭吉の言動にも見られる。その人物が、今も1万円札に載っている。明治は安倍一人に限らない。
捕虜を捕虜として扱わない。市民と兵士の区別さえしない。南京大虐殺は起きるべくして起きたものだ。女性は、レイプの対象と残虐な殺害の対象ともなった。
辻田さんの次の証言は強烈すぎるが、あえて紹介することにする。
「ある日、将校を乗せて市内巡察中、一角でものすごい女性の悲鳴が聞こえてきた。“そこへ行け”という将校の指示に従った。なんと、民家で日本兵がレイプした後、女性の性器に銃剣を突き刺していた。その悲鳴だった。朝鮮人の通訳に悲鳴の内容を確かめると、早く殺せと泣き叫んでいたことがわかった。その現場を将校は写真に取っていた。彼女の悲鳴は今も耳の奥から聞こえてくる」
驚愕すべき日本兵の蛮行は、世界で類例を見ないものだった。戦争の被害者は決まって婦女子である。一説には「慰安所設置に軍が動くのは、この南京大虐殺から」とされているのだが。
「南京での略奪・強姦はしほうだいだった」
この辻田さんの目撃談は、大虐殺に新たな視点を付与して貴重である。将校付の運転手ゆえのものだった。
<慰安婦業者に天皇の勲章>
従軍慰安婦についても聞いてみた。「日本人女性は少なかった。朝鮮人と中国人の女性が大半だった」という。
少ない日本人はプロの売春婦なのだろうか。彼によると、だいたい300人の日本兵に50人ほどの慰安婦が用意されていた。そうだとすると、南京大虐殺から始まった慰安所開設だったと言えるのかどうか。
日本兵の行く所、慰安所開設は軍務そのものだったのだろう。海軍主計中尉の中曽根康弘は、自分で率先して開設、一時はそれを自慢話のようにしていたらしい。安倍は、中曽根に聞けば持論を変えるしかないだろう。
歴史歪曲派は中曽根に教えを請えばいいだろう。
兵士に給与が支払われていたらしい。「1回50円。若い兵士はすぐ終わるが、長い者は催促されていた。くじ引きで順番を決めることもあった。慰安婦の業者には、天皇から勲章が与えられていた」
これは驚きである。勲章が授与される慰安婦業者というと、正に天皇制国家主義の、慰安所開設は主要な任務だったことになる。戦争の慰安所は、天皇の軍隊の重要な一翼を担っていたことになろう。
「日本政府は関与していない」「軍隊は関与していない。証拠を見せろ」と開き直ってきた安倍らに、吉林省公文書館資料は明白にNOを突きつけている。
日本国民は天皇の軍隊について、今も全く知らされてはいない。
2014年9月8日記
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