http://www.asyura2.com/14/senkyo170/msg/739.html
Tweet |
[中外時評]「五輪の品格」はどこに なぜ巨大施設やカジノか 論説副委員長 大島三緒
東京・晴海埠頭の客船ターミナルは首都観光の穴場だ。たまに船が入るとき以外は人影も少なく、海鳥が群れ飛んで空がとても広い。銀座から約4キロ、都心にこれだけ近いのに孤島のごとき別世界である。
展望台に立てば、この大都会を海からまるごと視野に収めることができる。湾岸に林立する超高層ビル。その向こうの、緑をまじえた清潔な街並み。岸壁の水はきれいで空気は澄み、つまり東京のいいところをすべて見て取れるわけだ。
だからでもあろう。2020年東京オリンピックの選手村はこの晴海にできる。しばし1万6000人が暮らすロケーションとして申し分ないが、こういう成熟した都市の姿をあらためて遠望してみると、すこし別の感慨もわくのである。
それは、何から何まで急ごしらえが必要だった1964年の五輪と、基本的なインフラがすっかり整った今回とは根本的に異なるという当たり前の話だ。「いまの東京なら来年にだって五輪は開ける」と言ってのける関係者もいる。
なのにどうだろう。旧態依然の五輪便乗や、ハコモノづくりの騒ぎがなんと盛んなことか。そもそも大会施設の整備計画自体に疑問は尽きない。
すでにずいぶん指摘されてきたが、神宮外苑の新国立競技場はその代表だ。敷地のゆとりがほとんどない場所に、高さ70メートルの巨大建造物が鎮座する。多くの識者から見直し論が出ているにもかかわらず、計画通り事業は進められるという。
東京都などは建設費高騰や人手不足もあって、ほかの五輪施設計画については再検討を始めた。新競技場建設も思い切って引き返す勇気を持てないのだろうか。神宮の森を歩き、そこに絵図面を重ねてみればこのプランの無理は誰にでもわかる。
新競技場は維持費も年間35億円かかるという。日本スポーツ振興センターは多額のイベント収入などが入るから年に3億円の黒字が出ると説明するが、捕らぬタヌキの皮算用だ。この計画は景観や環境問題だけでなく、将来世代へ負の遺産を残す危険もはらんでいる。
負の遺産の心配は、ほかのさまざまな計画にも共通する。老朽化したインフラの改修や再整備をこの機会に進めておく必要はあるだろう。しかし「五輪印」を押せば何でもあり、ではきっと後悔する。いま話題のカジノ解禁も同じではないか。
この秋の臨時国会で解禁法案を成立させ、2020年までに全国に数カ所のカジノ施設をつくる。そんなもくろみだが、ギャンブル依存の増加や反社会勢力の暗躍などマイナス面が少なくない施設を、スポーツの祭典とセットでこしらえるという感覚はいささか情けない。
カジノ解禁で外国からの観光客をたくさん呼び、地域の再生や経済成長に結びつける。推進派はそう唱える。しかしこういうものに頼らなくても日本には魅力が山ほどある。「お・も・て・な・し」は鉄火場でやらなくたっていいだろう。
思えば、滝川クリステルさんのこの言葉をキーワードに「2020年」は日本人の心に刻まれ、開催決定から間もなく1年になる。そして聖火がともるまであと6年足らず。このへんで旧来型の五輪熱からさめて、成熟国家で開く五輪のすがたをじっくり考えるときである。
それを一言でいえば、ハコモノよりもカジノよりも、五輪を迎えるのにふさわしい社会の構築が本当は大事だということだ。その核の一つは東日本大震災のときに芽生えた共助と連帯の精神、もう一つは多様性尊重の文化だ。おぞましいヘイトスピーチなど論外である。
1988年のソウルも2008年の北京も、かつてアジアで開かれた五輪は巨大建造物や派手なパフォーマンスで勝負に出た。こんどの東京五輪には、そういう新興国型ではない精神性や品格を求めたい。そう考えるのは浮世離れしていようか。
半世紀前、昭和の日本人はひたむきに働き、戦後わずか19年とは思えぬ祭典開催にこぎつけた。その意気あらば今回もまた世界がうなる五輪を、前回とはまったく違うかたちで実現させうると信じたいのだ。
さまざまなことを考えさせる晴海からの眺めだが、この客船ターミナル、夕暮れになるといよいよ閑散とする。巨費を投じた施設なのに接岸する船が少なく、宝の持ち腐れなのだ。じつに示唆に富んだ場所である。
[日経新聞8月31日朝刊P.12]
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK170掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。