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命懸けの吉田所長と日本人を貶めた朝日新聞。
日本人は貶めて中国は礼賛。
捏造は昔からです。
朝日新聞は中国が日本の原発は核開発目的と非難する一方、自国内の原発建設と原発輸出を推進していることをどう考えているのでしょうか?
正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現から
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5554.html
▼1984年の朝日新聞による「宇和田日記」捏造事件▼
http://blog-imgs-44.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/20120309073639c74.jpg
朝日新聞が1970年代に突如開始した『南京大虐殺』の大キャンペーンの中でも、特に悪質だった1984年の捏造報道事件を紹介する。
鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首
「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」
「鉄嶺」は満州の都市。
張学良の配下の者が匪賊を銃殺し、見せしめとして首を切ったものと考えられ、当時この写真は満州や朝鮮などで販売されていた。
http://blog-imgs-44.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/201203090718086d8.jpg
ところが、1984年8月4日、朝日新聞は、どこかでこの写真を入手し、日本軍による「南京大虐殺」の証拠写真として、とある「日記」と共にスクープ記事に掲載した!
http://blog-imgs-44.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/201203090832594df.jpg
日記と写真もあった南京大虐殺 昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊
昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」
昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊
「日記と写真もあった南京大虐殺」
「悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」
しかし、やがて、写真は偽物!!
日記も、朝日新聞による加筆あるいは改竄があったことが判明した。
朝日新聞との闘い・われらの場合都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ吉川正司(元都城歩兵第23連隊・中隊長)「文藝春秋」昭和62(1987)年5月号より転載
http://www.history.gr.jp/~nanking/books_bungeishunju875.html
朝日新聞との闘い・われらの場合
都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ
吉川正司(元都城歩兵第23連隊・中隊長)
「文藝春秋」昭和62(1987)年5月号より転載
昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊に5段抜きの大見出しが躍った。
「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」と題されたこの記事は、翌5日朝刊の全国版にも掲載され、一大センセーションを巻き起こす。
思えばこれが、朝日新聞との2年5ヶ月におよぶ闘いの幕開けだった。
(略)
支局長「抗議の公文書、確かに受け取りました。その事ですが、「お詫び」だけはご勘弁下さいませんか。その事を記事にすれば、私は首になります」
中山「首になる。仕方ないじゃありませんか。嘘の報道を大見出しの記事として全国版に掲載したんですから。その責任をとって首になるのが当然じゃありませんか」
支局長「その責任は重々、感じています。しかし首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。お願いします。この通りです(両手をついて頭をさげる)」
中山「お詫びがないと、私の方が困ります。亡き戦友の御霊を慰めるのが私ども連隊会の責務ですから」
支局長「そこのところ何とか」
2人の間で種々のやりとりがあったすえ、お詫びとか記事取り消しといった言葉は使わないが、全国版・地方版で連隊は南京大虐殺とは無関係との旨を報道することで、両者が合意した。
事務局長は帰ってから連隊会の安楽秀雄会長とも相談し、やむを得ないとの承諾を得たのである。
昭和60(1985)年2月24日、朝日地方版は「「南京大虐殺と無関係」元都城23連隊の関係者が表明」として次のように報じた。
(略)
いささか不本意ではあったが、ともかくもこの記事で、およそ半年におよぶ朝日と連隊会の抗争に終止符が打たれるかに見えた。
ところが、同年の6月、7月、10月と、大阪・名古屋などに住む戦友から相次いで「連隊は無関係という記事は全国版の何月何日に載ったのか」との問い合わせが事務局に殺到した。
全国版に載せると言った朝日が約束を破るはずはない。
この種の記事は紙面の片隅に小さく載せるのが新聞社の常道だから、もう1度よく見て下さい、と照会のたびに事務局は回答していた。
昭和60(1985)年12月20日、"お詫び"記事から半年たったところで、意外な事実が判明した。
この日、中山事務局長は、朝日宮崎支局に中村支局長を訪ねた。
事件の取材で宮崎に来ていた「世界日報」の鴨野守社会部記者を伴ってである。
中山氏はさっそく、
「例の無関係の件、全国版の何月何日に載ったのですか」と切り出す。
ところが支局長は言った。
「全国版?全国版には載せてありません」
「載せていない?それじゃ約束が違います」
「約束した覚えはありません」
「冗談をおっしゃってはいけません。あの日、固く約束されたじゃないですか。」
「いや、地方版に載せるとは言いましたが、全国版とは言いません」
そして中村局長は、「あの記事はすべて正しい。朝日新聞宮崎版に載った記事は訂正記事ではない。連隊会から抗議があった旨を載せたまでだ」と、言い放ったのである。
中山事務局長は、
「今からでもよいから、全国版に載せてくれませんか」と食い下がったが、
支局長は「いや、もうこれ以上の事は朝日としては出来ません」と一蹴した。
やむなく中山事務局長は、次のように言い残して席を立った。
「卑怯ですねあなたは。あの時私に、1人で来て下さいと言われた意味が今になってわかりました。約束をした、しないは、当事者だけでは押し問答になりますからね」
朝日は都城23連隊との抗争はこうして再燃したのである。
それから1週間ほどたった12月28日、朝日にとって極めて衝撃的なスクープが「世界日報」の一面トップを飾った。
「朝日、こんどは写真悪用 南京大虐殺をねつ造」と題された記事によれば、中国人の首が転がっている例の写真、南京大虐殺の動かしがたい証拠であると朝日が大見得を切った写真は、旧満州の熱河省で撮影されたもの、と指摘されたのだ。(その後の報道で、この写真は昭和6(1931)年、当時の朝鮮で市販されていたもので、満州の凌源で中国軍が馬賊を捕らえて処刑したものと判明する)
(以下略)
1985年12月、朝日新聞が1984年年8月に「宮崎の元兵士の写真と日記」として記事にしたあの写真が捏造だったと判明
1985年12月、朝日新聞が1984年年8月に「宮崎の元兵士の写真と日記」として記事にしたあの写真が偽物だったと判明
http://blog-imgs-44.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/20120309084555c14.jpg
関心を持たれた方は是非、全文読んで頂きたい。
朝日新聞の卑劣さが良く分かる。
朝日新聞との闘い・われらの場合
都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ
吉川正司(元都城歩兵第23連隊・中隊長)
http://www.history.gr.jp/~nanking/books_bungeishunju875.html
「文藝春秋」昭和62(1987)年5月号より転載
この朝日新聞による「宇和田日記」捏造事件については、『「宇和田日記」(日記帳)の現物があるから信頼できる』ような頓珍漢のことをいう馬鹿もいる。
しかし、この朝日新聞の日記捏造事件の核心は、本当に存在した宇和田日記に、後日誰かが大幅に加筆、あるいは改竄(書き換え)を行ったことにある。
騙されてはいけない。
当該事件の核心(想定)は以下のとおり。
――――――――――
1973年(昭和48年)、宇和田弥一、死去
1978年(昭和53年)の戦記編纂の以前に、宇和田氏の日記帳に誰かが加筆し、戦記編纂委員会に提出
戦記完成後、この日記は未亡人の宇和田八重子さんに返送される
・その後、さらに、誰かが大幅に加筆、あるいは改竄(書き換え)を行い、日記は朝日新聞に渡る
1984年(昭和59年)年8月、朝日新聞に5段抜きの大見出しが躍る。「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」と題された記事は一大センセーションを巻き起こす
1984年末、吉川正司氏は、日記の【現物】を見せてもらったが、3メートルほど離れたところからで、判読は出来ず
1985年(昭和60年)2月、朝日新聞宮崎支局で2回目の会談。連隊会側5名、朝日新聞側は中村支局長。日記の【現物】は、5メートルほど離れてから広げられたので、日記帳だと判断することさえ出来ず
1985年12月、朝日新聞が1984年年8月に「宮崎の元兵士の写真と日記」として記事にしたあの写真が捏造だったと判明
1986年(昭和61年)1月、朝日新聞宮崎支局会議室において、連隊会と朝日西部本社の会談。出席者は連隊会5人に対して、朝日側3名。「日記も嘘である。・・・日記を白日のもとにさらせば解決する」と迫れば、「そうなったら日記提供者の氏名が判明して、本人に迷惑が掛かる」と取材源の秘匿を楯に応じず
1986年8月、日記の保全が第1だと考えた吉川氏は、弁護士を通じて小倉簡易裁判所に対して日記保全の申し立て
1986年12月、裁判所側はほぼ連隊会側の主張を認め、朝日に日記を見せるよう判決。朝日側が、守秘義務の配慮が万全でないとして、福岡地裁小倉支部に抗告
本裁判となれば10年はかかるため、連隊会員たちの余命がなくなると判断。「うちの連隊は南京事件に無関係である」という記事を朝日の全国版に載せてもらうことで、保全申し立てを取り下げることを朝日に通告
1987年(昭和62年)1月、連隊会にも報告
連隊会は不本意なまま、朝日新聞との闘いを終えた。
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