http://www.asyura2.com/14/senkyo170/msg/415.html
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※ 原発板に赤かぶさんが投稿されている「吉田調書抄録」
「《吉田調書抄録(1)》 吉田所長「撤退なんて言葉、使うわけがない」「アホみたいな国のアホみたいな政治家」」
http://www.asyura2.com/14/genpatu39/msg/834.html
「《吉田調書抄録(2)》 海水注入「テレビ会議、音声切った」「うるさい、黙っていろ、と」(産経新聞)」
http://www.asyura2.com/14/genpatu39/msg/835.html
「《吉田調書抄録(3)》 津波襲来、全電源喪失「はっきり言って、まいった」「絶望していた」(産経新聞)」
http://www.asyura2.com/14/genpatu39/msg/836.html
「《吉田調書抄録(4)》 1号機爆発「短時間のドンという振動」「どう生かすかが一番重要だ」(産経新聞)」
http://www.asyura2.com/14/genpatu39/msg/837.html
「《吉田調書抄録(5)》 ベント躊躇せず「大臣命令で開くもんじゃない」(産経新聞)」
http://www.asyura2.com/14/genpatu39/msg/838.html
「《吉田調書抄録(6)》 3号機爆発 「死者出たなら腹切り死のうと」(産経新聞)」
http://www.asyura2.com/14/genpatu39/msg/865.html
「《吉田調書抄録(7)》 政府への不信 「腐った指示ばかりだった」(産経新聞)」
http://www.asyura2.com/14/genpatu39/msg/866.html
「《吉田調書抄録(8)》 注水活動「申し訳ないがすべて意味なかった」 ヘリ放水「セミの小便」(産経新聞)」
http://www.asyura2.com/14/genpatu39/msg/867.html
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吉田元所長の証言記録が明らかに[NHK]
8月25日 23時32分
東京電力福島第一原子力発電所の事故当時、現場で指揮をとっていた吉田昌郎元所長は、過酷な状況のなかで、次々と緊急事態への対応を迫られました。
吉田元所長は、何を考え、どう判断していたのか。
政府の事故調査・検証委員会が聴取した、延べ28時間、400ページに及ぶ証言記録が明らかになりました。
「逃げてはいない」
福島第一原発の事故当初の3月15日、東京電力が現場から撤退しようとしていると一部で指摘されたことについて、吉田元所長は「何をばかなことを騒いでいるんだと、私は一言言いたいんですけれども、逃げてはいないではないか、逃げたんだったら言えと。現場は逃げたのか、逃げていないだろう。これははっきり言いたいんです。逃げろなんてちっとも言っていないではないか」と述べ、強い不快感を示しています。
そのうえで、吉田元所長は「最後の最後、ひどい状況になったら退避しないといけないけれども、注水だとか、最低限の人間は置いておく。私も残るつもりでした。例えば事務屋とか、いろんな方がいらっしゃるわけですから、そういう人は極力、より安全なところに行ってもらうということをしないといけないとは思っていました」と述べています。
さらに、2号機が危機的な状況にあったことを踏まえ、当時の細野・総理大臣補佐官に電話で「プラントはものすごい危ない状態です、ぎりぎりです、水が入るか入らないか、賭けるしかないですけれども、やります。ただ、関係ない人は退避させる必要があると私は考えています、今、そういう準備もしています」と伝えたと述べています。
また「ことばづかいとして『撤退』という言葉は使ったか」という質問に対し、「使いません、『撤退』なんて」と答えています。
「指示で混乱」
吉田元所長は、総理大臣官邸や東京電力本店などからの直接の指示で、事故対応の現場が混乱した様子も証言しています。
吉田元所長はまず、総理大臣官邸と直接やりとりをすることになったことについて、「何で官邸なんだというのがまず最初です。本店の本部は何をしているんだ。それから、保安院さんももちろんですけれども、そちら側でしょうという感じだった。ずっとおかしいと思っていました」と述べ、官邸との対応は東京電力の本店が行うべきだったという認識を示しています。
また、3月14日、2号機が危機的な状況に陥り、原子炉を冷やすための方法を検討していた際、当時の原子力安全委員会の班目春樹委員長から電話があったことを明かしたうえで、「早く開放しろと、減圧して注水しろと。四の五の言わずに減圧、注水しろということがあって、清水(社長)が班目委員長の言うとおりにしろとか、わめいていました。現場も分からないのによく言うな、と思いながらいました」と述べています。
そのうえで「私だって、早く水を入れたくてしょうがない。そう思っているんですよ。だけれども、手順ってものがありますから、現場ではできる限りのことをやって、あとがスムーズに行くようにと思っているんですけれども、なかなかそれが通じないんですね。『ちゅうちょ』していると思われているんです。何もちゅうちょなどはしていないです」と述べ、東京から相次いで出される指示に困惑した心境を明かしています。
「後方支援体制」
吉田元所長は、原発事故対応に必要な資材や物資の輸送など、後方支援体制を巡る問題点についても指摘しています。
吉田元所長は、福島第一原発の事故で外部電源が失われたあと、東京電力本店から送られてきたバッテリーについて、「本店の方では種類は違うかも分からないけれども、手当たり次第、集めたものを送ってくるということになったんですね。困るのは、こっちがいちいち仕様を確認しに行かないといけない。それから、小名浜にある私どもの基地に1回送って、そこからうちに持ってくるのに、線量が上がっているので持ってこられない」と述べて、放射線量が高くなった福島第一原発に直接、運び込むことができなかったと指摘しています。
そのうえで「輸送手段だとか、そこまで考えてくれないで、物だけここに持ってこられても困ってしまう。それから、いろんなものを送ってくるものですから、使えるか、使えないか、仕分けをしないといけない。非常にまいったなと思ったのはそこですね。物を取りに行くのに、うちの人間を出さなければいけない。忙しいときにやめてくれよと、ジャスト合うものをここまで持ってきてよというのが、私どもの強い要望だったんです」と述べて、混乱する現場に物資を支援する際には、輸送手段の確保や仕様の確認をしておくことが重要だという認識を示しています。
「汚染水の処理は」
福島第一原発の廃炉作業で深刻な問題になっている汚染水について、吉田元所長が、早い段階で危機感を抱いていたことも分かります。
吉田元所長は、事故から16日後の3月27日に、当時の海江田・経済産業大臣や細野・総理大臣補佐官などと会談したことを明かしたうえで、「これから水の処理が最も重要だと、これをしっかりやらなければプラントは安定化できないと明確に伝えました」と述べています。
さらに、吉田元所長は「高濃度汚染水の水位がこれからどんどん上がっていって、それをそのまま流し続けるのかと、そう思いました。そこの悩みが、保安院や本店のメンバーに共有されていないことが、非常に腹立たしく思いました。原子炉に水を入れ続けているわけですから、それがどこかから出てくるので、それを処理しなければならないのは当然であるのに、そういったいらだちがずっとありました。流出を止めろと言われていたわけですが、水の処理をどうするか、どこに貯めるか、そういう提案が一切ないにも関わらず、現場として頑張れと言われていたわけです」と述べ、増え続ける汚染水への危機感を、政府や東京電力と共有できず、悩んでいたことを明らかにしています。
「責任者としての覚悟や思い」
吉田元所長は、原発事故対応の指揮を執った、現場責任者としての覚悟や思いも証言しています。
聞き取りの記録によりますと、3月14日、3号機の格納容器内部で圧力が高まり、吉田元所長はいったん退避命令を出しましたが、それを解除して作業を再開した直後、3号機が水素爆発しました。
このときのことについて、吉田元所長は「最初、現場から上がってきたのは、40何人行方不明という話が入ってきた。爆発直後、最初の報告ですけれども、私、そのとき死のうと思いました。それが本当で、40何人亡くなっているんだとすると、そこで腹切ろうと思っていました」と述べています。
この爆発でけが人は出たものの、亡くなった人はいなかったことについて、吉田元所長は「胸をなで下ろしておりますが、これも不幸中の幸いです。がれきが吹っ飛んでくるなかで、現場にいて1人も死んでいない。私は仏様のおかげとしか思えないんです」と振り返っています。
また、事故翌日の3月12日、吉田元所長は、避難を余儀なくされた地元の住民への対応を進めるよう、テレビ会議の席で東京電力本店に求めていて、その際の心境について「避難されている方の不平不満というか、全然状況が分からないと言っていますよ、という話があったんで、これはいかんなと思って」と述べています。
さらに、「官庁だとか、連絡だとか、それでこんなになっている状態で、とても出て行って地域住民に説明するような状況にないということがあって、これは発電所でできないから誰かにやってもらうしかないんで、そこは本店頼みますよと、そういうことをお願いしている」と話し、事故対応の現場ではとても地元の人たちへの対応はできず、東京電力本店にしっかり対応してほしかったと述べています。
「地震・津波想定」
吉田元所長は、平成19年4月から3年間、東京電力本店で原発の安全対策などを担当する原子力設備管理部の部長を務めました。
吉田元所長は、部長就任から3か月後に発生した新潟県中越沖地震に触れ、「想定を上回るような地震が来る可能性は、オールジャパンどこでも、もう一度見直さないといけない」、「地震・津波については、ものすごい大きな関心事だった」と述べ、地震・津波対策に重点を置き、福島第一原発と第二原発への津波の影響評価を土木学会に依頼したことを明らかにしています。
これについて、吉田元所長は「10(メートル)だと言われれば10でもいいし、13なら13でもいいんですけれども、こういう津波が来るよという具体的なモデルと波の形をもらえなければ、何の設計もできないわけです」「そこを決めてもらうために、土木学会をお願いしているんであって、土木学会がこうだとおっしゃるんだったら、例えば15メートルと言われれば、至急それに対応した対策を、当然うちはするということは間違いなくそう思っていました」と述べ、しかるべき根拠が示されれば、津波への対策を取っていたはずだという考えを示しています。
一方、政府の事故調査・検証委員会によりますと、東京電力は、平成20年に明治三陸地震と同様の規模の地震が福島県沖で発生したと想定すると、福島第一原発周辺では津波の高さが最大10メートルを超えるとする試算をまとめました。
この結果は、当時の東京電力の副社長と吉田元所長に伝えられましたが、根拠が十分でない仮定の試算だとして、実際にはこうした津波は来ないと考え、津波の想定や具体的な対策の見直しにはつながらなかったということです。
こうしたいきさつについて、吉田元所長は「福島県沖の波源というのは、今までもなかったですから、そこをいきなり考慮してやるということは、仮想的にはできますけれども、原子力ですから費用対効果もあります。お金を投資するときに、根拠となるものがないですね。何の根拠もないことで対策はできません」と述べ、具体的な根拠が示されないなか、巨額の費用がかかる津波対策をとることはできなかったと釈明しています。
そのうえで、「貞観津波を起こした地震のマグニチュードよりももっと大きなものが来たわけですから、マグニチュード9が来た。日本の地震学者、津波学者の誰が、あそこにマグニチュード9が来ると言うことを事前に言っていたんですか。貞観津波を考えた先生たちも、マグニチュード9は考えていないです。それを言い始めると、結果論の話になりますと言いたいです」と述べ、津波対策が十分でなかったと、原発事故のあとになって批判されることへの不満を漏らしています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140825/k10014075991000.html
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