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溝口 敦
ノンフィクション作家
まるで三文役者の猿芝居
集団的自衛権の行使容認に関する自公協議で、あたかも創価学会・公明党が反戦平和の最後の砦といった論調が目につく。
公明党の態度如何で集団的自衛権行使の推進、中止が決まるのなら、護憲を旗印にした戦後民主主義がそこま
で後退してしまったことを意味する。
つまり創価学会・公明党が自民党に票を回し、安倍内閣の安定多数を現出した結果が「集団的自衛権の行使容認」なのだ。
みずから平和と民主主義を蚕食しながら、最後の詰めの段階で「平和の党」として考えあぐねている振りは三文役者の演技だろう。
創価学会は5月16日、朝日新聞の質問に対し、次の見解を文書で回答した。
「私どもの集団的自衛権に関する基本的な考え方は、『保持するが行使できない』という、これまで積み上げられてきた憲法第九条に
ついての政府見解を支持しております。
したがって、集団的自衛権を限定的にせよ行使するという場合には、その重大性に鑑み、本来の手続きは、一内閣の閣僚だけによる
決定ではなく、憲法改正手続きを経るべきであると思っております。
集団的自衛権の問題に関しては、今後、国民を交えた、慎重の上にも慎重を期した議論によって、
歴史の評価に耐えうる賢明な結論を出されることを望みます」創価学会はここで手続きだけを問題にしている。
憲法を改正し、集団的自衛権を行使できるよう条文が改められれば、行使に反対ではない。
日本を再び「戦争する国」にしないという強い意志はなく、憲法を改正するような世論の変化があるなら、
創価学会もそれに従うと言っているに等しい。
公明党もかつては「絶対平和主義」を掲げ、「すべての国際紛争は、絶対に武力によらず外交手段で解決すべきだ」などと唱えていた。
日米安保条約や自衛隊さえ容認しない時期があったのだ。
その後、ジリジリと後退し、92年にはPKO協力法を自民、公明、民社で成立させた。
99年には朝鮮半島での有事を想定、米軍を支援する周辺事態法に賛成した。
03年には自衛隊のイラク派遣を認めたイラク特措法に賛成した。
公明党はなにより自公政権からの離脱を恐れ、自民党と組み続けるためには「平和主義」の装いさえかなぐり捨ててきた。
これらの推移は創価学会を置いてきぼりにした公明党の変節ではない。
創価学会と公明党はどこまでいっても一体不二の関係にあり、池田大作が率いる創価学会が時の権力=自民党に寄り添うことを
望んできた結果である。
池田創価学会には95年、宗教法人法の改正で自民党から加えられた恫喝(政教分離の徹底など) が効き、
自民党の「ゲタの雪」にならなければ、自民党に何をされるか分からないという恐怖感がある。
現に5月18日、自民党の石破茂幹事長が創価学会の前記「見解」に触れ、「政教分離だ。公明党の判断に主体性がなくなったとか、
支持母体の言うがままだということはない」と述べたのは、いうまでもなく創価学会=公明党への小出しにした恫喝である。
公明党が創価学会の見解に従うなら、従うこと自体が政教一体そのものだ、政教分離原則を盾に再び押しまくるぞという脅しである。
よって公明党が集団的自衛権の行使で創価学会の「見解」(閣議決定による解釈改憲不可)を鵜呑みにすることはない。
かといって安倍内閣の解釈改憲に乗れば、創価学会=公明党支持層のごく一部と「良識的メディア」の離反を招く。
そのため当分の間、自民党に細かく質問を繰り返し、結論を先送りにした上、最後は自民党に同調する算段だろう。
それが一応恰好をつけただけの創価学会の本音にも適っているはずだ。
創価学会=公明党に「平和主義」などの誤った幻想を抱くことは許されない。
彼らにはもともとこの世に対する理想や経綸はなく、あるのは彼らにとって有利な状況の維持、拡大だけなのだ。
それこそ「わがなき後に洪水よ来たれ」であり、この世がどうなろうと彼らの知ったことではないのだ。
付け焼き刃の「平和主義」
初代会長の牧口常三郎は戦争に反対して獄死したと創価学会は長らく喧伝してきたが、実際は反戦が理由の死だったのではない。
牧口は邪教排撃の教義により、皇大神宮の神札を受けず、燃やしたにすぎず、せいぜい戦争に勝つため、
神道を奉じている政府の誤りを諌めるという立場を固執したにすぎなかった。
その証拠に牧口は獄中で、一人だけ残った息子の洋三の戦死を知らされたが、その嫁に次のような返事をしたためている。
「ビックリシタヨ。ガッカリモシタヨ。……病死ニアラズ、君国ノタメノ戦死ダケ(だから)名誉トアキラメルコト。
唯ダ、冥福ヲ祈ル」「君国のための戦死」、「名誉」といった言葉に反戦の思想はうかがえない。
二代会長の戸田城聖も当時を回顧して次のように語っている。
「戦争では勝ちたかった。負けるとは思っていなかった。
私の今もっている信念は、当時はなかった。(略)
初代会長は勝つといっていた」(小口偉一『宗教と信仰の心理学』)
戦争で勝ちたいという願望は、戦争反対や平和主義と相容れるものではなかろう。
戸田にあったのもせいぜいが床屋政談並みの政治感覚だけだった。
三代会長の池田大作は代作者の手になる『人間革命』で。
「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」と冒頭に記した。
池田も東京大空襲を体験したものとしてこの言葉に気持ちの偽りはないだろうが、
とはいえ、反戦平和を思想として保持しているわけではない。
本誌の主筆・乙骨正生か本誌03年4月15日号で次のように指摘している。
〈今回のイラクに対する武力行使は、武力行使の許容条件となっている国連安保理決議を経ない大義なき戦争となることが確実だった。
当然、「平和の指導者」を自負する池田氏とすれば、「戦争回避」のための何らかの行動をとるべきだったろう。
だが、池田氏は、今回のイラク戦争については、なんら「戦争回避」の発言・行動をせず、むしろ一月二十六日の「SGI の日」
を記念しての提言では、「軍事力を全否定するということは、一個の人間の『心情倫理』としてならまだしも、
政治の場でのオプションとしては、必ずしも現実的とはいえない」
「武力を伴った緊急対応も必要とされるかもしれない。
そうした毅然たる姿勢がテロヘの抑止効果をもたらすという側面を全く否定するつもりはない」 と、
イラクに対する武力行使を容認するような姿勢すら見せていたのである。〉
イラクにはもともと大量破壊兵器が存在しなかった。が、米大統領ジョージーブッシュはイラクを「悪の枢軸」、
「テロ国家」呼ばわりして愚かな戦争に踏み切ったわけだが、池田はブッシュ並みに好戦的なバカであることをみずから証明した。
空襲の被害者から出発しながら、いつの間にか偉くなり、戦争を仕掛ける側の戦争観を持つに至ったのだ。
日頃いっぱしの思想家ぶって反戦平和のご託を並べたところで、肝心なところで付け焼き刃が露呈する。
創価学会=公明党の「平和主義」とはこの程度のレベルなのだ。
創価学会には戦争を体験した世代がまだ多数生き残り、身をもって平和の尊さを知った信者がいるはずだが、
残念ながら彼らの声が創価学会=公明党を動かすことはない。
彼らが公明党を支持し、自民党の候補に票を投じることが集団的自衛権の行使容認に行き着くのは分かりきった話だが、
彼らの選挙活動と選挙運動には宗教活動という縛りが掛かっているため、
選挙と投票が「再び戦争する国」への変質に結びつくことが理解できない。
合理的思考を喪失した宗教的呪縛である。
もちろん冒頭に記したように、公明党を平和の最後の砦と見ることは誤りであると同時に、
戦後民主主義に立つ側の目を覆う後退を語っている。
ついに安倍内閣の戦前回帰路線をここまで許してしまった。が、少なくとも安倍に与する側に期待する愚は犯してはなるまい。
創価学会=公明党は彼ら自身に降りかかる災厄に留まらず、その災厄を日本国民全体に押し及ぼす存在なのだから。
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