http://www.asyura2.com/14/senkyo170/msg/249.html
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「対米従属は天皇制の帷握上奏制度の焼き直しという指摘に「おおお」とのけぞりました:内田樹氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/15043.html
2014/8/21 晴耕雨読
https://twitter.com/levinassien
そして、白井聡、永江朗さんとのお仕事のために今年37回目の新幹線で東京に向うなう。
往路の旅のお供は白井さんと笠井潔さんの『日本劣化論』。
泥縄の予習と言う勿れ、お会いする直前に読んだところに触発されて脳内に浮かんだアイディアから対談は弾むものなので「とっておいた」のです。
でも『日本劣化論』(ちくま新書)めちゃめちゃ面白いなあ。
敗戦責任と天皇制の問題について文字通り「歯に衣着せず」におふたりでばんばん語り合っております。
対米従属は天皇制の帷握上奏制度の焼き直しという指摘に「おおお」とのけぞりました。
「君側の奸」たちがアメリカ=天皇を「ブラックボックス」にして、「畏れ多くも・・・におかれては」と代弁することで腹話術師のようにうごめいているという情景は戦前も戦後も少しも変わっていない。
天皇主権制度がアメリカ主権制度に入れ替わっただけなんです。
ほんとに、そう思います。
*帷幄上奏(wiki):帷幄上奏(いあくじょうそう)とは、君主制国家において、帷幄機関である軍部が軍事に関する事項を君主に対して上奏すること。帷幄とは「帷をめぐらせた場所」のこと。
ドイツ帝国およびその影響を受けた日本(大日本帝国)において制度化された。本
概要
1889年(明治22年)制定の大日本帝国憲法によって一般統治権と軍の統帥権の分離が明記されたが、同年の内閣官制第7条によりこれが制度化され[1]、軍の統帥権は内閣総理大臣の国務上の輔弼事項の例外とされた。
本来、国務大臣は憲法上、帝国議会に対してその責任を負うが、権力分立の外側にあった統帥部(帷幄機関)はその責任がなかった。また、帷幄上奏が認められていたのは、軍事のうちの軍機・軍令に関する問題のみであり、残る軍政に関しては陸軍大臣・海軍大臣が国務大臣の一員として内閣総理大臣を通じて上奏すべき問題とされていた。
ところが、純粋たる帷幄機関の代表である参謀総長や軍令部総長のみならず、国務大臣である陸軍大臣・海軍大臣までもが、本来は内閣の管轄である軍政一般に関する問題までを統帥権の一部と位置づけて帷幄上奏を行った事や、両大臣が軍部大臣現役武官制によって現職の大将・中将に限定されていた事から、軍部が政府・議会を軽視する風潮を生み、結果的に軍部の暴走を招く一因となったといわれる。
1909年(明治42年)9月12日制定の「軍令に関する件」は「統帥権の独立」を明確に規定し、更に元帥や軍事参議官にも帷幄上奏権を認めた。こうした軍令と帷幄上奏のあり方については、立憲主義の精神に反し憲法上許されないとする違憲論も存在した。1912年(大正元年)の陸軍大臣による帷幄上奏による二個師団増設が認可され、これを権限の逸脱であるとして拒否した第2次西園寺内閣が軍部によって倒されると、国民の反発が高まり、第1次護憲運動の原因となった。これを機に再び違憲論が高まり、吉野作造が「帷幄上奏廃止論」を唱えた[2]。
第一次世界大戦後の総力戦の時代に入ると、単に軍事力のみでの戦争遂行は不可能となり、統帥権干犯問題をめぐる争い[3]の中で、この帷幄上奏を用いて軍事以外の事項も天皇に上奏を行ってその支持を求めるようになるが、これが満州事変以後の昭和天皇と軍部の間に隙を生む事になった。
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