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「集団的自衛権の行使を閣議決定で決め、無益で無慈悲で無意味な戦争に頭から突っ込んでゆく。:岩上安身氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/15002.html
2014/8/18 晴耕雨読
https://twitter.com/iwakamiyasumi
主要メディアがほとんど伝えない辺野古のいま。
IWJは微力ながら、現場からの中継を行っています。https://t.co/UqGll4Zlpl
辺野古では、沖縄の意思を無視して、基地建設のための埋めたてが強行されようとしている。
反対の声を上げようとカヌーなどで海上に漕ぎ出した人々を取り囲む、海上保安庁の巡視艇などの数々。
ガザでは日本製の部品が使われているイスラエル軍の兵器で、連日、子どもを含む一般市民が犠牲に。
ウクライナでは、米国の後押しを受けた、ネオナチの暴力集団を含む売国的オリガルヒ(新興財閥)の面々が、クーデターで政権を取ると、東部のロシア系の自国民への武力攻撃を加え始めた。
死者はすでに2千人を超え、国境を越えてロシアへ避難した者は十万人以上のオーダーになる。
キエフ政権のやっていることは、イスラエルのシオニストとなんら変わらない。
民族浄化そのものである。
ところが、クーデター以前からウクライナのネオナチをそそのかしてきた米国は、キエフ政権をたしなめるどころか、悪いのはロシアだ、マレーシア機が墜落したのもロシアのせいだ、などと、いまだに何の証拠も示さぬまま、プーチンの「悪魔化」キャンペーンを張り続け、国際社会にロシアへの経済制裁を強要し、戦争につながりかねない緊張を高めている。
その時は、米露間の核の均衡が崩れ、ブッシュドクトリンの、米国による核の先制攻撃が現実味を帯びる時だ。
ネオコンたちの巣窟だったPNACのような組織が目指した米国一国による完全支配、フルスペクトルドミナンスへの野望がむき出しとなる。
当然、ロシアはわが身を守ろうと身構える。
米国によるプーチンの「悪魔化」キャンペーンに道理はない。
日本が付和雷同することは、理だけでなく、利もない。
にもかかわらず、米国に押し切られて日本政府はロシアへの制裁に同調。
その返礼が北方領土でのロシア軍演習である。
東ウクライナは日本から随分遠い。
そう思っている日本人は少なくない。
しかし、ロシアの西部、ユーラシアの真ん中でのこの内戦がロシアとNATOとの戦争に飛び火し、欧州戦線が戦端を開けば、東アジアでも戦端が切られる。
集団的自衛権を理由に、自動的に参戦を余儀なくされる。
シリア、イラクに至っては、炎のぬかるみとも言うべき状態にある。
国家の液状化に、突如現れたISことイスラム国の手当たり次第の破壊と殺戮が拍車をかける。
イランはすぐ隣であり、ISとは対立。
中東全域がカオスで、ここにまた米国は空爆を敢行、武力介入の気配濃厚である。
そして、我が日本の安倍政権は、米国のCSISのアーミテージレポートに書かれた「指令」の言いなりに集団的自衛権の行使を閣議決定で決め、米国が世界中で現にやらかしていて、これからもやらかすであろう無益で無慈悲で無意味な戦争に頭から突っ込んでゆく。
大義も国益もない消耗戦に。
そうなれば、日本は豊かな国富も、国民の安全で平穏な暮らしも、かけがえのない命も、数々失うことになるだろう。
そんな懸念が目の前にぶら下がる2014年の8月15日。
靖国神社にお参りする人も多かろう。
靖国は、生きて帰ってこなかった人の御霊が祀られているという。
他方、命からがらであれ、生きて五体満足で復員してきた、私の父のような幸運な元兵士もいた。
だが、死して「英霊」になることもできず、五体満足で復員することもできなかった、第三の存在である元兵士が、膨大な数にのぼったことも忘れてはならない。
傷痍軍人たちの存在である。
1959(昭和34)年生まれ、もうすぐ55歳になる私の世代は、物心ついた時に高度成長が始まっていた典型的な戦後っ子世代だ。
すでに「もはや戦後ではない」というスローガンが語られてもいた。
そんな世代でも、子どもの時には、街中で傷痍軍人の姿をいくらでも目にした。
東京中の駅や盛り場には、白い装束で同じく白の軍帽のような帽子をかぶり、アコーディオンを弾き、ハーモニカを吹く傷痍軍人が、道端のそこかしこに座っていたものだ。
物乞いをしているのである。
座っている傷痍軍人の足もとをひょいと見ると、両足がない。
足がないから、立てないのだ。
僕の育った池袋では、今も残る北口の薄暗いガード下のトンネルに、東西の出入り口の端から端まで、両脇に傷痍軍人が並んでいたものだ。
片腕がない、片目が潰れている、立ってはいるが、松葉杖で、欠損した片足を支えている。
そんな人が物哀しいメロディの軍歌を、演奏して流している。
時に旗かのぼりを立てている人もいる。
手書きで、自分たちは傷痍軍人であり、戦争のためにこんな体になってしまった、ただの乞食ではないのだ、といったような訴えが書かれていたのを、見た覚えがある。
街頭に出て物乞いをしていた人は、傷痍軍人の中のほんのごく一部だろう。
家にこもり、みじめな姿を晒したくないと思っていた人の方が多数だったに違いない。
あるいは障害を抱えながらも懸命に働き続け、自活した人たちも少なくなかっただろう。
戦争で片腕を失いながら、紙芝居作家からついには漫画家として大成功をおさめた水木しげるさんは、その筆頭である。
だが、水木さんのような素晴らしい成功者はやはり稀で、障害を負った傷痍軍人の多くは、仕事をする上でも、生活をしていく上でも、相当な苦労をしたに違いない。
今のようなバリアフリーの社会ではない。
障害者への視線にも差別が含まれていた時代だ。
国の命令で、赤紙一枚で、戦地へ行かされたのに、生きて帰ってきたら邪険にされた、という話は山ほどあった。
戦死の報せが届いていたので、妻は残った兄弟の嫁になっていた、という話もある。
なんで生きて帰ってきた、戦友は死んだのにと、人から言われ、自分でも自責する人が大勢いた。
戦後の焼け跡の中、猛烈なインフレに見舞われ、国へのご奉公と言われて買わされた戦時国債は紙クズとなって財産を失い、物資が極端に欠乏し、都市部の住民は飢えに飢えて、闇市で何とか食べ物を調達しなくてはならない日々、体の一部を欠損した傷痍軍人は、どれほど肩身が狭かったろう。
何しろ、障害者に優しい社会ではない。
僕の子供のころでも、足のない人を「いざり」と蔑む言葉がまだまかり通っていた。
そんな中、水木しげるさんのようになバリバリ働けず、もはや働けないほどの重い障害を負った人は、どうやって暮らしていたのか。
道端に座れない人もいたはずだ。
道端にいる以外の、もっと重度の障害の傷痍軍人の人は、どこにいて、どう暮らしているのだろう。
子供心にも、引っかかっていた疑問だった。
そんな時、床屋においてあった漫画雑誌で、とんでもない漫画を見てしまった。
戦争で両手両足を失い、耳も聞こなくなり、声も出せなくなった元軍人。
江戸川乱歩の小説「芋虫」を、漫画化した作品である。
誰が作画していたかは、忘れた。
むごたらしいほどリアルな筆致で描かれていた作品だった。
おぞましく、グロテスクで、しかもエロティックだった。
当初、手足を失った夫を妻はかいがいしく介護し、支える。
新幹線の中、移動中に連投していたが、新大阪に到着したので、この続きはまた。
これから、従軍慰安婦問題について、哲学者の能川元一氏にインタビューします。
ch1で。
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