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サイパンは観光地ではない、グアムも
満州っ子 平和をうたう
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夏休みがやってきた。日本人の多くはお盆休みをかねて観光や海水浴のためにサイパンやグアムを選ぶ向きが多いようだ。しかし、今から70年前そこで何があったのか念頭に入れてお出掛けいただきたい。両島で民間人を含めて、米軍も併せて7万余の人間が、死に追いやられたことを。
▼サイパン島「バンザイ・クリフ」であきひと天皇
以下は2005年6月25日付けの「朝鮮日報」の社説である。題して「天皇サイパンへ」。「戦争の加害国である自分を忘れていく日本」。そこで何があったのか詳しく教えてくれる。
太平洋戦争で米国お日本が対決した際、米軍をもっとも苦しめた一つに、日本軍の無条件降伏主義がある。通常、戦争では戦死者が全兵力の3分の1になれば、抵抗を放棄し、降伏するのが一般的だ。日本軍はそうではなかった。北部のミヤンマー戦闘では、1万7166人が死亡したが、捕虜はわずか142人に過ぎなかった。日本軍はいくら絶望的な状況とはいえ、手りゅう弾一つを手に敵陣に駆け込み、
集団自決を選んだ。
1944年7月、米海兵隊2個師団が太平洋の日本植民地であるサイパンに進撃してきた。日本軍の守備隊は必死に抵抗したが、力不足だった。軍と民間人合計6万人余りが死亡した。7月8日、残りの兵士と民間人がサイパン島北部の高さ80メートルある絶壁に集まった。彼らは米軍の捕虜になるより、名誉と忠誠を守るため命を捧げることにした。子どもを携えた家族たちが「天皇陛下万歳」を叫びながら、絶壁の下に身を投げた。
米国はサイパン陥落後、ここにB−29の発信基地を建設し、同年11月、東京大空襲で日本本土を焦土化した。広島と長崎に投下した原爆もサイパンから出発した。
その後、日本人は、悲惨な敗戦の歴史の証人であるこの絶壁をバンザイクリフ(Banzai Cliff )と呼んだ。現地の旅行ガイドたちは、日本の修学旅行団に「祖先たちが血で守った地」と説明もした。
「バンザイクリフ」の犠牲者のなかでは、多数の韓国人もいた。日本軍部隊施設の工事のために強制徴用されたり、「高賃金」の約束にだまされてサトウキビ農場に売られ、人間以下の待遇をを受けた韓国人労働者たちは、日本軍の銃に追われ絶壁から飛び降りるしかなかった。当時サイパンで流行った歌には「1等国民日本人、2等国民沖縄人、3等国民ブタ・チャモロ(サイパン先住民)、4等国民朝鮮人」という歌詞があった。
明人(あきひと)天皇が一昨日と昨日、サイパンを訪問し、「バンザイクリフ」や、その近くに位置する韓国人追悼の「平和の塔」を訪れた。天皇が以前日本の植民地だったところに、日本人戦没者を慰霊する目的で赴いたのは戦後初めてのことだ。
太平洋戦争を起こした天皇の息子が、「天皇万歳」を叫びながら自殺した日本人を慰霊するとして海外に出かける様子に、戦争の加害国である自分を忘れていく日本が垣間見える。
天皇がサイパンで得るべき教訓は、60年前に起きた日本人の集団自決の根本には日本の軍国主義の狂気があったという点だ。
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