http://www.asyura2.com/14/senkyo169/msg/538.html
Tweet |
最初に私のコメント、次に記事本文を記載します。
[コメント]
>そもそも慰安婦問題が日韓の外交問題になったのは、1991年8月、元慰安婦が「挺身隊の名目で連行され従軍慰安婦にさせられた」と名乗り出たことだった。
そして12月、日本政府に対し損害賠償訴訟が起こされるのだが、そこに弁護士として参加したのが政治家になる前の福島氏だった。
日本の活動家が慰安婦問題に目をつけ、韓国の慰安婦団体を焚き付けた。人権派の高木健一弁護士らがこれに乗り、福島氏も訴状に名前を連ねたのです」(政治部記者)。この問題は、朝日も同年8月11日付で大々的に報じ、大騒ぎとなる。後に報道はウソだったことが判明するが、それはしばらく経ってからの話。時の宮澤政権は追い込まれ、翌年1月の訪韓では盧泰愚大統領の前で8回も謝罪させられた。
火をつけた福島瑞穂、デマ報道で煽った朝日新聞。
だいたい挺身隊と慰安婦はまったくの別物であり、最初の段階からして捏造だらけだったわけです。
見事売名に成功した福島瑞穂は、下記のようにさらに人の道を外れていきます。
>。「お揃いの白いチマチョゴリを着た女性が4〜5人いて、日本人と韓国人のスタッフが『ああ言いなさい!』『こう言いなさい』と一生懸命、振り付けをしているのです。本番の会議でも彼女たちが登壇し、言われた通りに悲劇的な体験と、日本政府に対する怒りを切々と述べているではないですか」。元慰安婦たちは操られている。舘氏はそう直感したという。
>ところが、台湾人の元慰安婦の番になると「日本の兵隊さんは私たちに優しくしてくれました」などと言い出し、ステージの下に控えていた福島氏や松井氏が大慌て。「『それ止めて! 止めて!』と遮り、それでも止めないとマイクや照明を切ったりして発言を封じ込むのです。タイの女性も『日本の軍隊ばかり叩くな!』『イギリス兵はもっと悪いことをした』と反発していましたが、福島さんや松井さんが抑え込んでしまいました」(同)。
一体福島瑞穂は何のためにこのように日本に汚名を着せる行為を繰り返すのでしょうか?
いくら売名のためとはいえ、私を含めたごくふつうの日本人にはとても理解できません。
>報告書が公表された日も、彼女はツイッターでそのことは触れなかった。一体、どうしたのだろう。慰安婦問題に詳しいジャーナリストが言うのだ。「聞き取り調査の対象となった16人の元慰安婦のなかには、慰安婦訴訟の原告が5人も含まれていました。その中には金学順さんのように、訴状と聞き取り調査では違う証言をしている人もいる。当然、弁護士の彼女はそのことに気づいていたはずで、批判されるのを恐れているのかも知れません」。
「訴状と聞き取り調査では違う証言」
だが当事者の福島瑞穂はこの件でダンマリを決め込み、批判から逃げたわけです。
このような人間が国会議員でいいのか?
大いに疑問です。
[記事本文]
<< Hatena Diary >>
元慰安婦の証言は裏付けもなく、聞き取りはセレモニーでしかなかった。先頃公表された『河野談話』の検証報告ではそんな驚きの事実が明らかになったが、その偽りの“儀式”を演出した人こそ、福島瑞穂氏(58)だ。彼女が日韓の間に残した傷はあまりにも深い。
それにしても、『河野談話』のお陰で日本人はどれほど貶められて来たことだろうか。何しろ、世界中で繰り広げられる反日キャンペーンは、この談話をもってして“日本政府も慰安婦の強制連行を認めているではないか”と正当化されてきたのである。『慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯〜河野談話作成からアジア女性基金まで〜』――そう銘打たれた21ページの報告書が公表されたのは6月20日のこと。いわゆる従軍慰安婦の強制性を認めたとされる『河野談話』の作成過程が、政府の検証チームによってようやく明らかにされたのだ。「検証チームのメンバーは元検事総長の但木敬一氏を含めた5人ですが、立場の違う元アジア女性基金理事の有馬真喜子氏と現代史家の秦郁彦氏を入れるなど、バランスを取っているのが分かります」(政治部記者)。全文が公開されているので詳細は割愛するが、報告書は、慰安婦問題が外交問題となった1990年代初頭から、元慰安婦への聞き取り調査、河野談話の発表、そして“アジア女性基金”の設立と、その失敗までを追跡している。
報告書を読んだ拓殖大学の藤岡信勝客員教授が言う。「報告書のポイントは2つあります。ひとつは慰安婦の強制連行がなかったことがより明白になった点です。すなわち、元慰安婦への聞き取りが単なるセレモニーだったということ。2つ目は強制連行がなかったという認識を、当時の政府が持っていたということです」。この報告書の公開で事実が白日の下に晒されてはならじと思ったのか、韓国が竹島近海で射撃訓練を行うなどの威嚇に及んだのは御存知のとおり。また、朝日新聞も21日に《もう談話に疑義をはさむのはやめるべきだ》と逆ギレ調の社説を掲載、河野洋平元官房長官も同日の講演で「強制性はあった」と主張するなど、報告書の公開で立場が悪くなった面々から一斉に反発が起きたのだ。ところが、そんな中で、なぜか黙ったままの当事者がいる。慰安婦問題に火をつけ、『談話』にも深く関わった社民党前党首の福島瑞穂氏である。
そもそも慰安婦問題が日韓の外交問題になったのは、1991年8月、元慰安婦が「挺身隊の名目で連行され従軍慰安婦にさせられた」と名乗り出たことだった。そして12月、日本政府に対し損害賠償訴訟が起こされるのだが、そこに弁護士として参加したのが政治家になる前の福島氏だった。「日本の活動家が慰安婦問題に目をつけ、韓国の慰安婦団体を焚き付けた。人権派の高木健一弁護士らがこれに乗り、福島氏も訴状に名前を連ねたのです」(政治部記者)。この問題は、朝日も同年8月11日付で大々的に報じ、大騒ぎとなる。後に報道はウソだったことが判明するが、それはしばらく経ってからの話。時の宮澤政権は追い込まれ、翌年1月の訪韓では盧泰愚大統領の前で8回も謝罪させられた。さらに1992年7月、加藤紘一官房長官が元慰安婦に向けて、「改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい」と談話を発表する。だが、それでも一向に収まる気配がない。福島氏らが日韓をまたいで“付け火”して回ったからだ。彼女はNHKなどに元慰安婦のインタビューを売り込む一方、韓国でも騒ぎまくった。
だが、その手法は真実を求めるというよりはプロパガンダそのもの。長年、市民運動や女性の人権擁護に関わってきたフリージャーナリストの舘雅子氏が振り返る。「私は1992年8月にソウルのYMCA会館で開かれた“アジア連帯会議”に出席しましたが、それを仕切っていたのが福島さんと元朝日新聞編集委員の松井やよりさん(故人)でした。当日、私は会場内で迷って、ある小部屋に立ち入ってしまったのです」。そこで舘氏は仰天の光景を目撃する。「お揃いの白いチマチョゴリを着た女性が4〜5人いて、日本人と韓国人のスタッフが『ああ言いなさい!』『こう言いなさい』と一生懸命、振り付けをしているのです。本番の会議でも彼女たちが登壇し、言われた通りに悲劇的な体験と、日本政府に対する怒りを切々と述べているではないですか」。元慰安婦たちは操られている。舘氏はそう直感したという。
ところが、台湾人の元慰安婦の番になると「日本の兵隊さんは私たちに優しくしてくれました」などと言い出し、ステージの下に控えていた福島氏や松井氏が大慌て。「『それ止めて! 止めて!』と遮り、それでも止めないとマイクや照明を切ったりして発言を封じ込むのです。タイの女性も『日本の軍隊ばかり叩くな!』『イギリス兵はもっと悪いことをした』と反発していましたが、福島さんや松井さんが抑え込んでしまいました」(同)。ハプニング続出にもかかわらず、会議は日本政府に強制連行の認定と謝罪と補償を求める決議を採択して終わる。そして、具体的なアクションも決められた。「日本政府への働きかけは2班に分けられ、私たち外部の団体は内閣外政審議室(当時)に対して行い、福島さんや松井さんたちは『河野(洋平)さんのところに持ってゆく!』とはっきり言っていました」(同)
宮澤改造内閣の立役者として、河野氏が内閣官房長官に就任したのはこの年の12月。そして、翌1993年7月、政府による元慰安婦の聞き取り調査が開始される。その内容は、昨年10月、産経新聞のスクープで極めて杜撰なものであったことが明らかになっているが、「聞き取り調査は、ソウル市龍山区にある太平洋戦争犠牲者遺族会の事務所で7月26日から30日まで行なわれました。日本からは内閣外政審議室の審議官らが4人、外務省から1人、そして民間からも全国人権擁護委員連合会の弁護士と元慰安婦の国家補償を求める訴訟原告団の弁護士も同席したのです」(元ソウル特派員)。その、同席した原告団弁護士がこれまた福島氏だった。遺族会からの要請だったと言われている。聞き取り調査は1人あたり約3時間ずつ、1日3〜4人というペースで行なわれたが、非公開のため詳細は明らかでない。
だが、真相を究明しようというものでなかったことは明白だった。慰安婦問題を取材してきた産経新聞編集委員の阿比留瑠比氏が言う。「聞き取りの前に、日本大使館の大使館員が打ち合わせのため遺族会の代表と会ったときのことです。そこで大使館員が『日本側の目的は真相解明です』と言うと、代表が激怒し『歴史を明らかにして何になるの。罪の意識はないのか!』と怒鳴って、謝罪と補償を求めたそうです」。『河野談話』の検証チームのメンバーである秦郁彦氏も、当時の様子を明かす。「聞き取りの現場では、もの凄い罵声や怒号が日本のスタッフに浴びせられたそうです。ヒアリングはそういう中で行なうしかなかったのです」
当時、朝日新聞(1993年7月29日夕刊)が福島氏から聞いた話として報じたところによると、聞き取りのスタッフは、最初に必ず「日本は、やってはいけないことをした。真相究明のために来ました」と言い、最後に「つらい話を聞かせていただき、ありがとうございました」「日本政府として、誠実に対応したいと思います」などとお詫びをしなければならなかった。これだけでも、聞き取りが形だけのものでしかなかったことは明らかだが、今回の報告書にはこう書かれている。《河野談話との関係については、聞き取り調査が行われる前から追加調査結果もほぼまとまっており、聞き取り調査終了前に既に談話の原案が作成されていた》。1993年8月4日、談話が発表されると前出の舘氏は、それを見て驚き、そして合点がいったという。「私たちが連帯会議の決議を外政審議室に持ち込んだときは、慰安婦の話は全く信憑性がなく身元も不明と門前払いでしたが、“河野談話”には決議そっくりの内容が盛り込まれていたのです。福島・松井チームは官邸に働きかけて主要部分を談話に入れることに成功していたんだ、と改めて感心したものです」
河野談話で実績をあげた福島氏は、知名度を買われ、1998年の参院選で国政に進出。あれよあれよという間に、社民党党首にまで上り詰めたのは御存知のとおり。だが、慰安婦問題がヒートアップするのとは対照的に、彼女の慰安婦に関する発言はなぜか減っていった、ここ1年を見ても、橋下徹大阪市長が慰安婦で失言した際に批判したぐらいで、ほとんど言及がない。そして報告書が公表された日も、彼女はツイッターでそのことは触れなかった。一体、どうしたのだろう。慰安婦問題に詳しいジャーナリストが言うのだ。「聞き取り調査の対象となった16人の元慰安婦のなかには、慰安婦訴訟の原告が5人も含まれていました。その中には金学順さんのように、訴状と聞き取り調査では違う証言をしている人もいる。当然、弁護士の彼女はそのことに気づいていたはずで、批判されるのを恐れているのかも知れません」。そこで福島氏の事務所に問い合わせてみたが、「ただいま中国に出張中で連絡が取れません」と答えるばかり。当時、内閣官房副長官を務めた石原信雄氏が振り返る。「日本政府としては、韓国の要望も踏まえてヒアリングをやったわけです。談話は金泳三大統領も評価してくれました。(韓国が再び謝罪と補償を持ち出すのは)当時の関係者として非常に残念です。誠に遺憾ですよ」
法律を都合よく振り回して事実を捻じ曲げてしまうことを“法匪”と言う。慰安婦問題を捻じ曲げてしまった彼女は何と呼ぶべきなのだろうか。
≡週刊新潮 2014年7月3日号掲載≡
http://d.hatena.ne.jp/xcl_23/20140703/1404395727
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK169掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。