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広島原爆が投下された日に(1945年8月6日 8時15分)
一度、広島上空を通過した爆撃機は、ふたたび引き返して原爆を投下。
これは、最初の空襲警報が解除になって安心して出てきた大量の市民に被害を与える
軍事的に「ターゲット・エスカレーション」という方法らしい。
ただでさえ、食料難だった大都市広島に、多くの学徒動員兵を集め、西日本中から陸軍第二総軍の高級将校を招集したその時刻に原爆が炸裂。このくだりは鬼塚さんの本が多くを語っております。
以前にも、紹介したことがありますが、化学者でもある藤永茂博士のブログを原爆投下の日なので投稿しときます。
広島原爆のウラン鉱石は、第二次大戦が始まる直前の1939年には、アメリカはニューヨークの港湾倉庫にすでに運び込まれて、そのときが来るのをまっていたのだそうな。
藤永茂さんのブログや、原発関連で広瀬さんの本なども以前から読んでいたが
311の福島原発事故後、あらためて世界的な核開発の利権構造に驚愕いたしました。
当時の欧米の巨大銀行家や諜報機関の高官やらが名をつらねております。
「世の中には「知らないままの方が良かった」と思われる事実が沢山あるようです。』と、藤永さんも
おっしゃっております。
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藤永茂さんのブログより 転載します
2007/11/21
カタンガのウランが広島の空に (藤永茂ブログ「私の闇の奥の闇」)
前回に紹介しましたChristine Meuris という著者の『SCRAMBLE FOR KATANGA』という本(ダウンロード可能)は色々の意味で大変面白い内容です。まず、第一の点は、私のベルギー国王レオポルド二世に対する批判がベルギー側に対して公平さに欠けていたかも知れないということです。これはこの数ヶ月考え続けていたことですが、上掲の本を読んで要訂正の思いを強くしています。その内に取り上げます。第二の点は、小説『闇の奥』の現代の読者が心に抱きそうな「原始の暗黒」大陸アフリカのイメージのアナクロニズムの滑稽さをはっきり知らされるということです。この数十頁の長さの文献がネット上に提供されている背景は知りませんが、その中核的な目的が例の国際的ベストセラー『レオポルド王の亡霊』(ホックシールド著、1998年)に対するベルギー側からの反論にあることは明らかで、その性格上、反論のための反論、強引な我田引水も見かけられ、眉に唾をつけて読む必要もありましょうが、一方、私が前から知りたいと思っていたコンゴのカタンガ地方のウラン資源にまつわる重要な知識への糸口が含まれている有用さも否めません。とりわけ、カタンガ地方を伝統的に支配してきたユニオン・ミニエールという簡略名で現在も世界に知られる大怪物会社と広島に投下された原爆との関係は色々のことを我々に考えさせてくれます。
拙著『「闇の奥」の奥』の(223〜4頁)に次のように書きました。:
■ 広島・長崎の原爆に使われたウラン原料の大部分がコンゴのカタンガ地方から運ばれた事情は一般にはよく知られていない。ベルギーの首都ブリュッセルでは、1911年以来3年ごとに、通称「ソルベイ会議」で知られる物理学と化学の国際会議(招待者オンリー)が開かれている。その初期の数回は歴史的に最も誉れ高い国際会議シリーズとなった。なかでも第5回のソルベイ会議は有名で、綺羅星のごとき29名の参加者の記念写真の前列中央にアインシュタインが座っている。アインシュタインは、ソルベイ会議出席の回を重ねるうちに音楽愛好が機縁となって、ベルギー王室のエリザベス女王と親しくなった。ヨーロッパ時代アインシュタインの弟子の一人であったハンガリー出身の物理学者レオ・シラードは、ヒトラー・ドイツが原子爆弾を製造する可能性を危惧し、コンゴのカタンガ地方のウランがヒトラーの手に落ちることを阻止する必要ありと考え、アインシュタインとベルギー王室との関係を利用することを思い付いた。これが、結局、アインシュタインが原爆製造をルーズベルト大統領に進言する有名なアインシュタイン書簡を生むのである。その最初の書簡(1939年8月2日付)に「アメリカ合衆国にはごく低品質のウラン鉱石が少しあるだけです。カナダとかつてのチェコスロバキアには良質の鉱石が多少ありますが、ウランの最も重要な産地はベルギー領コンゴです。」と書かれている。シラードが起草した文章である。ところが、ここに奇態な事実がある。アインシュタイン書簡が準備されつつあったその時に、その場所から程近いニューヨーク湾内のスタテン島の倉庫内に大量のウラン精鉱が既に貯蔵されていたのだ。その倉庫はコンゴのカタンガの採鉱を支配していたベルギーの会社ユニオン・ミニエール(6-5参照)に属していた。シンコロブエのウラン鉱山もこの会社が所有していたのである。1942年夏、原爆開発の「マンハッタン計画」が発足した直後、スタテン島に眠っていたコンゴ産のウラン精鉱はアメリカ陸軍によって接収された。■
これを書いた時点で、上の「奇態な事実」についての調査が極めて不十分であったことをため、上の記述に時間的な勇み足を犯していたことをお詫びしなければなりません。しかし、この知識の足りなさは私に限られたことではなく、アインシュタイン書簡を書いた当のシラードも知らなかったことだった筈です。今では話の辻褄が大体合うようになりましたので報告します。
1932年、英国のチャドウィックが電荷を持たない素粒子である中性子を発見、1934年、イタリアのフェルミは中性子を多数の元素に当てて人工放射性元素を作ることを始めました。フェルミの一番の狙いは、天然に存在する最大の原子番号(Z=92)を持つウランの原子核に中性子を当てて、天然には存在しないZ=93,94 の新元素を人間の手で作ることにあったのですが、お目当ての新元素が出来た証拠は一向に見付からない。1935年から1938年にかけて、ドイツのハーン、マイトナー、ストラスマンのチームも同じ試みを辛抱強く続けたのですが、超ウラン元素が出来た確証は得られませんでした。それもその筈、ウラン原子核は遅い中性子を吸収して、大きな運動エネルギーを持つ二つの中型の原子核に分裂していたのです。1939年1月になって、スエーデンでマイトナーとフリッシュによって、やっと核分裂の事実が確認されると、革新的なエネルギー源としてウランを使う可能性が、世界中の原子核物理学者の頭の中で閃きます。中性子の当ったウランが勢いよく二つに分裂して、その際にまた2個以上の中性子がこぼれ出ることになると、その中性子が別のウランを分裂させ、連鎖的な分裂反応の進行が期待されます。この中性子の放出が実際の起っていることを確かめる実験は、フランスのパリでジョリオ、ハルバン、コワルスキーのチーム、アメリカのコロンビア大学でフェルミとシラードのチームによって競争的に行われました。フランスのチームは実に手回しがよく、実験成功の翌月の1939年5月の1日と4日には、ウラン核分裂のエネルギーをゆっくりと取り出す方法(今で言えば原子炉)と爆発的に放出させる方法(核爆弾)についての二つの特許を申請しました。しかも、5月8日には、ジョリオはベルギーの首都ブリュッセルに足を運んで例のユニオン・ミニエール社(UMHK)の幹部たちに今後のウラン鉱石の重要性を説明し、その買い付けを申し出ました。その時のユニオン・ミニエール社の社長(ディレクター)が問題の男エドガー・サンジエー(Edgar Sengier)だったのです。
1915年、コンゴのカタンガ地方の南部のシンコロブエで優良なウラン鉱石が発見されましたが、1934年、ジョリオが奥さんのイレーヌ・キュリーと協同で始めて人工放射性元素を作るまでは、イレーヌのお母さんが発見したラヂウムの方が天然放射性元素として人気を独占し、ラヂウムを抽出した後のウラン鉱石は、そのまま放置されていたのでした。1939年当時のシンコロブエのウラン鉱山には膨大な量のそうした残渣としてのウラン鉱石が堆積していたのです。それが,突然、重大な戦略物資となる可能性をジョリオ博士の話から嗅ぎ付けた、文字通りの「山師」エドガー・サンジエーは一生一代の大ギャンブルに出ます。1939年といえば第二次世界大戦勃発の年、ジョリオの訪問を受けた直後、つまり、大戦勃発の直前に、ベルギー人エドガー・サンジエーはシンコロブエに堆積していたウラン鉱石の半分に当る約1200トンを秘密裏にニューヨークに送り、スタテン島のユニオン・ミニエール社所属の倉庫に隠蔽貯蔵したのでした。戦争が始まると、サンジエー本人もニューヨークに移住しウォール街にオフィスを開いて、そこからユニオン・ミニエール社の事業を指揮することを始めました。
アメリカの原子爆弾製造計画「マンハッタン・プロジェクト」は、レスリー・グローブ将軍の総指揮の下で1942年初夏具体的に動き出しますが、その9月、グローブの副官ニコルズ大佐はグローブに命じられてウォール街のエドガー・サンジエーのオフィスに行きました。ニコルズ大佐の任務は原子爆弾製造に必要なウラン資源を確保することにあり、最も有望視される供給源としてのカタンガのシンコロブエ・ウラン鉱山を所有するユニオン・ミニエール社がどの程度素早くウランを提供できるかを チェックするのが目的でしたが、グローブもニコルズもウランの早期確保が容易ではないとばかり考えていました。ところがニコルズをにこやかに迎えたサンジエーは“You can have the ore now. It is in New York, a thousand tons of it. I was waiting for your visit.” と言ってニコルズの度肝を抜いたのでした。将にその通り、グローブ将軍の鼻の下、ニューヨーク湾内のスタテン島の倉庫に1200トンのウラン鉱石が,高値を付けるその日を待って、秘密裏に2年間も寝かされていたのです。ウラン鉱石は直ちにアメリカ陸軍の管理下に移され、また、陸軍の工兵軍団がコンゴに派遣され、ウラン持ち出しのための飛行場が エリザベトビル(今のルブンバシ)とレオポルドビル(今のキンシャサ)に整備され、コンゴ河のマタディ(マーロウ/コンラッドが上陸した!)に輸出港が建設されました。このルートを通って、1942年から1944年にわたって、約3万トンのウラン鉱石がエドガー・サンジエーのユニオン・ミニエール社によってアメリカ陸軍に売り渡されたとされています。このカタンガ生れのウランが、1945年8月6日午前8時16分、広島を壊滅させたのでした。1946年、アメリカ政府はエドガー・サンジエーの「連合国の勝利に目覚ましく貢献した功績」に対して『功労勲章(Medal for Merit)』を授けます。サンジエーは、米国市民ではない人間として、この勲章の初めての受賞者になりました。
拙著『「闇の奥」の奥』の224〜5頁に「1943年8月ルーズベルト大統領は英国首相チャーチルとカナダのケベックで協定を結び、アメリカはコンゴ産出ウランの二分の一の所有権を確保し、1944年3月に英米両国はコンゴ産のすべてのウラン買い付けの権利をベルギー政府に承認させた。銀行強盗が事前に山分けの相談をするのと何の変わりもない。ウランの産地シンコロブエは当時の英領ローデシア北部(現ザンビア)とベルギー領コンゴの国境のすぐ近くに位置する。英米のカタンガのウラン資源の一方的独占収奪はコンゴ共和国独立後の数多のトラブルの震源地をシンボリックに予告するものであった。」と書きました。ウラン資源をめぐるこの英・米・ベルギーの「契約」は東西冷戦の時代まで続いたことを思えば、青年首相ルムンバにカタンガ地方の支配を委ねるというのは、反ソ陣営としては絶対に受け入れられないことであったことが、よく分かります。
世の中には「知らないままの方が良かった」と思われる事実が沢山あるようです。コンラッドが小説『闇の奥』の構想を温めていた丁度その頃、ベルギー王レオポルド二世はコンゴ河流域の黒人たちを酷使して、密林に自生するゴムの樹の樹液(ゴム原料)を、気が狂ったように収集して世界に売りさばき、巨利を得ていましたが、実は、その金はカタンガ地方の制覇と開拓に是非とも必要だったのでした。多数の黒人原住民を死に追いやって稼いだ資金が、回り回って、ヒロシマ・ナガサキの原爆を生んだという事実を知れば、日本人ならば誰しも全くやりきれない気持に追い込まれます。
藤永 茂 (2007年11月21日)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上、転載おわり
参考に見てほしい原爆関連サイト
グローブスの語るサンジエー・エピソード
lhttp://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2007/11/post_393a.html
チャールズ・ハンブロー:原爆産業の黒幕工作員 by 鬼塚英昭
http://satehate.exblog.jp/9467115/
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