01. 2014年8月04日 12:28:30
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昔の縁かhttp://jbpress.ismedia.jp/articles/print/41389 ソ連の宣戦布告から69年、日本と戦ったモンゴル シベリア抑留とは別の悲惨なストーリーと新たなる交流 2014年08月04日(Mon) 荒井 幸康 また、この季節がやってくる。 1945年8月9日、ソ連が突如として日本に宣戦布告し、満州、樺太、千島列島などに攻め入ってから69年目の夏である。 ソ連の対日宣戦布告に合わせて攻め入ったモンゴル軍兵士 『1945年解放戦争の英雄たち』表紙 同じ日、モンゴル人民共和国の兵士たちも、国境を越え、日本が支配する中国側へと攻め入っている。
モンゴルでは「解放戦争」と呼ばれるこの戦争に参加したソ連・モンゴル連合部隊の人員は4万2000人。モンゴル兵士のみの数は残念ながら分からなかった。 日本側でノモンハン事件、モンゴル側でハルハ河戦争と呼ばれた1939年の戦いに参加したモンゴル兵士の数は8775人(当時の全兵力の半数以上)であり、その後増加し、1945年7月には臨時に召集された兵士を含め総人員は4万1000人に上った。 やはり半数を振り分けたとしても多く見積もってもこの数の5割に満たない程度である。実際はもっと少なかったであろう。 この戦争、日本から見れば、ソ連が不可侵条約を破って始めた不正義な戦争であるが、この戦争に参加するモンゴル人たちから見れば別の形にこの戦いが見えていた。日本の支配下にあるモンゴル人同胞の解放である。 『ロシア・モンゴル間の軍事協力(1911−1946)』(モスクワ・ウランウデ、2008)なる本によれば、ソ連・モンゴル連合軍の作戦準備の命令は6月28日に出されている。 8月1日にはソ連から司令官としてプリエフ大将が派遣され、8月5日には、作戦に関わる部隊が国境近くで配置につかせるよう指令されている。8月7日には国境への配備が完了し、8月9日0時(ザバイカル地域での時間、モスクワでは8月8日18時)に作戦開始との命令が伝えられた。 (公文書によれば、モンゴル人民共和国の戦線布告は8月10日である。もともとの作戦計画ではモンゴル軍のいる部隊は、ソ連の作戦開始2日後に行動開始となっていたために布告が遅れたようである) モンゴル人が多く参戦した地域は、満州国南部や蒙疆自治政府のあった地域である。2010年、この戦争から65年目を記念してウランバートルで出版された『1945年解放戦争の英雄たち』には、司令官や将校たちだけでなく、この戦いで数々の軍功を立てた人々や、戦いで倒れた人々の回想が寄せられている。 多くが、社会主義時代に採られた記録であるからか、軍国主義日本に関する紋切り型の表現もあり、実際に相対したのは装備も経験もままならない日本人兵士であったが、「抑圧者たる日本兵を蹴散らし、いかに勇敢に進んだか」が描かれている。 なにぶん人の記憶を基にした回想でもあるので、脚色されている部分もあるのかもしれないが、部隊によっては2週間で840キロも進んだものもあったと作戦の報告書には記載されている。 あらかじめ決められていた外モンゴルだけの独立 『1945年解放戦争の英雄たち』裏表紙、太く赤い矢印がソ連・モンゴル連合軍の進撃経路 満州国にいたモンゴル人たちにとっても、モンゴル人民共和国から兵士がやって来ることは嬉しい知らせであったようである。
元満州国軍の将校のシャーリーブー氏は、60年経った2005年にインタビューしたとき、「これでモンゴル(人民共和国)と一緒になれると思った」と、この当時の思いを語ってくれた。 8月19日の報告で、モンゴルとの併合を望むのでソ連・モンゴル軍とともに戦うことを申し出た蒙疆自治政府の人々がいたという報告も公文書に残っている。 一部の政府高官を除いてモンゴル人には知らされていなかったが、すでに、ロシアの対日参戦を求める大国間の取引において、外モンゴルと言われた地域だけが、独立を許されることがこのときには決まっていた。 内モンゴルに住むモンゴル人たちは、モンゴル人民共和国への併合を希望したが果たせず、国民党と共産党の間で揺れ動き、結局は共産党の元に下り、1947年に内モンゴル自治政府を成立される。 そのプロセスに関してはボルジギン・フスレ氏の『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策 1945〜49年 民族主義運動と国家建設の相克』(風響社 2011)に詳しい。時代に翻弄された内モンゴルのモンゴル人の無念がさまざまな場面を通して描かれている。 なお、先ほどのシャーリーブー氏は、彼の帰属するバルガのモンゴル人たちが住むホロンバイルが、独立したモンゴルに併合されないと知ったとき、他のバルガの人々とともに国境を越えモンゴルに入っていった。 なお、この後、彼は満州国軍の軍人であった過去などが災いし、モンゴルで苦難の道のりを歩み、モンゴルと日本の国交が回復したときには大学での最初の日本語教師となるなど波乱万丈の人生を送ることになるのだが、そのお話は別の機会にしたい。 8月22日までの2週間で作戦は終了した。大規模な戦争はほとんどなく、死者57人、負傷者137人程度であったが、2週間で8979人の捕虜を得たと記録されている。 8月28日、モンゴル、ソ連領政府の国家元首は勝利を祝う祝電を送り合った。 ただ、戦争は英雄の話のきれいごとでは終わらないのは常である。 ロシア人兵士が、日本人から時計や多くの金品を奪い、女性への暴力を振るった話や多くの悲劇的な話が記録されているが、そこに住む他の民族にとっても、被害は同じようにあったようである。 日本、ドイツから略奪の限りを尽くしたソ連軍 モンゴル・ソ連の連合軍は、内モンゴルで良馬を奪い、寺院の物品を強奪したということもあったそうだ。この解放戦争をテーマに執筆をしていることを告げたとき、ある内モンゴル出身の研究者がそのようなことを教えてくれた。 その後、奪われたものがどう処理されたかを研究したら面白いだろうとも言われたが、追跡調査はなかなか難しいかもしれない。 ソ連は、先に戦って勝利した対ドイツ戦の後も、ドイツの占領地域からごっそり「戦利品」として工業用の機械などを持ち去っていったが、満州でも同様のことが行われたらしい。 米濱泰英氏の 『ソ連はなぜ八月九日に参戦したか 満州をめぐる中ソ米の外交戦』(オーラル・ヒストリー出版 2012)などによれば、日本人だけでなく、満州国にて日本に協力した中国人の企業家も同罪として、やはり機械類がごっそり持ち去られたりもしているようである。 このようなことを耳にした国民党政府がとソ連占領地域に進駐しようとしたが妨害され、足止めを食ったことが上記の本にも記載されている。 9月15日にはモンゴル軍の撤兵が開始され、モンゴル軍の作戦は終了する。回想録にも同様の記述がみられる。ソ連軍は1946年3月まで駐留した。 ごっそり持っていかれたのは、何も物品ばかりではないことはご存知であろう。 モンゴルにも日本人捕虜は連れて行かれている。 シベリアの場合は、鉄道でであったが、モンゴルに連れていたれた人々はなんと徒歩だったそうである。 少し長くなるが、残りは、ある友人(女性)が祖父から聞いたその当時のモンゴル人から見た日本人についてお話したいと思う。 この戦争に兵士として参加した彼は、戦争の終了後、規模は分からないが、日本人捕虜をモンゴルへ連れてくる役をおおせつかっていたという。連れてくる人々の中には将校とそのご婦人と思わしき人もいたそうである(細川呉港『草原のラーゲリ』文藝春秋、2007にも同様の記述あり)。 食べ物をほとんど与えられなかった日本人 敵ではあるが、皆に食事を与えなくてはならない。・・・が、女性はなかなか食べてくれない。自殺するつもりなのか、けっして、食べないばかりか、茶碗を手渡しすると、逆切れし、彼の腕を噛んだことがあったとのこと。 逆に男どもはひもじくしていて、男たちは弱くて、食べ物を与えた瞬間一気に飲み込む状態。見ていてとてもかわいそうぐらいだった。 あまりにかわいそうで、屠ったものの水がなくて洗えず汚くて食べられない羊の内臓を与えてしまった。争うように食べていたそうだが、他のモンゴル兵にばれ、一週間懲罰で牢に入れられてしまったとのこと。 こうやってモンゴルにやってきた日本人捕虜は1万人を超える。 お爺さんはノモンハンの時には18歳で、戦争には参加しなかったが、兵士たちの食事作りので手伝いをしていたそうである。また、捕虜を護送した後も、彼は捕虜の労働監督にも関わった。 1999、孫である彼女は日本語を学びたくて、祖父に許可を願い出た。日本軍を相手にしていたことは聞いていたので嫌がるかなと思っていたら逆に、「日本人も人間なんだ、君にいいことをしてくれる人にいいことをしてあげなさい」と言われ拍子抜けしたそうである。 さらに、爺さんは「いや、日本人の命を惜しまないことには驚いたよ、勇気があると言うか、何と言うか」とも、「敵とはいえども皆同じ人間だな、我らと同じく国の命令で戦地に向かったのだろう。親も、恋人も、子供も国で待ってるだろうに・・・」とかわそうに思ったと言っていたそうである。 ノモンハン事件あるいはハルハ河戦争は1939年に起こったモンゴル人民共和国と、満州国の間に起こった国境紛争が火種となって大規模な戦争として展開されたものであったが、あれはソ連と日本の戦争だったという声がある。 確かに、モンゴル軍は規模として小さかった。とはいえ、戦場となったのは彼らの土地であり、またもし、ソ連とモンゴルの連合軍側が負けていれば、今の彼らの独立はなかったことにも思い及べば、モンゴル人にとっては民族存亡の戦いであったことは想像に難くないだろう。 田中克彦氏の『ノモンハン戦争』(岩波書店、2009)は、そのような戦争の背景にあるモンゴル民族の戦いを中心に描いたものであったが、戦史家からすると、題名にだまされたと感じた人もいるようである。 当時の人口約80万人からすれば参加した兵士の数8000人は、社会にインパクトを与えるのに十分な数字である。このときにあったその他の様々交流の話は、やはり別の機会にお話できればと思う。 1945年8月9日から1か月余りではあるが、日本人と干戈を交え、国境を挟んで両側のモンゴル人が出会った出来事は、これら以外にも多くのエピソードを生んだはずである。 祖父に日本語を学ぶことを許された友人は、その後、日本人男性と知り合い、家庭を持った。 彼女の祖父は93歳でまだご健在である。とはいえ、ノモンハン「戦争」からは75年、解放戦争からは69年が経ち、このとき活躍した人々は、もうほとんど残っていない。 旧い交流がだんだんと消えて行き、新しい交流が生まれている。
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