23. JohnMung 2014年8月05日 00:03:10
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現在を生きる日本人(国民)は、後世・子々孫々のためにも、戸塚悦朗と高木健一及び此奴らに連なる奸賊・売国奴どもを断じて赦すべきではありません。 ”「従軍慰安婦」で日本の名誉を売った二人の弁護士〜慰安婦問題のデマの製造者・設計者はほとんどが日本人であり、その意味で「メイド・イン・ジャパン」の謀略なのである。|荒んでいく世界” http://nippon-end.jugem.jp/?eid=4259 慰安婦問題をでっち上げ、世界にその嘘をばらまいて国際的な大問題に仕立て上げた二人の弁護士がいる。 慰安婦問題のデマの製造者・設計者はほとんどが日本人であり、その意味で「メイド・イン・ジャパン」の謀略なのである。 拓殖大学客員教授・藤岡信勝氏 藤岡信勝さんのこの記事、とにかく、たくさんの人に読んでほしいと思った次第です。 以下、月刊WiLL 9月号 より一部抜粋 「従軍慰安婦」で日本の名誉を売った二人の弁護士 拓殖大学客員教授・藤岡信勝 ■「sex slave」の役割 5月13日の橋下徹大阪市長の発言以後、「日本はこの問題で反論しないほうがいい」という議論が盛んに行われている。たとえば、哲学者の萱野稔人は「『国家による組織的な強制連行はなかったのだから日本だけが非難されるのはおかしい』と主張することそのものが、日本は言い逃れをしているととられ、そのことでさらに日本だけが非難される状況をまねいてしまっているのである」と言い、「だったらはじめから何も発言しないほうがいい」として、特に政治家の発言を戒める(『新潮45』7月号)。 日本が反論してもかえって逆効果になるという現象自体は当たっているが、萱野の議論には「なぜそうなるのか」という点の分析が100%欠けている。これでは哲学者の看板が泣く。 橋下発言について、5月14日配信のAP通信の記事は、驚くべきことに、「Japanese mayor.Wartime sex slaves were necwssary」という見出しをつけて報じた。他の外電も同工異曲(どうこういきょく)である。これは「翻訳上の間違い」などという生易しい種類の問題ではなく、明白な捏造報道というべきである。なぜなら橋下市長の発言は、慰安婦が国家によって強制連行されたという資料は存在しないという趣旨であり、したがって「性奴隷」などと言われるような存在ではないことを主張したものであった。 それを「戦時性奴隷は必要だった」と書かれたのだから、橋下市長は本人の主張と180度正反対の内容を世界中に報道されたことになる。だから、橋下市長は直ちにAP通信などを虚偽報道で訴えれば、ことの本質を世界に向かって明らかにするのに役立っただろう。 そして、AP通信などの報道に接した世界中の人々が「性奴隷が必要だった」とは日本は何という酷い国だ、と思ったとしても当然である。「反論してもかえって逆効果」という事情は、メディアの謀略というべき、こういうカラクリで起こったことなのである。 では、そもそも「慰安婦」を「性奴隷」 と規定し、両者を同義として扱うような流れをつくり出したのは誰か。それは外国人ではない。ほかならぬ日本人の戸塚悦朗弁護士が、国連の人権委員会に持ちだしたことに始まるのである。 そして、元慰安婦の老婆を日本国を相手取った訴訟に引っ張り出すことによって、捏造されたストーリーに「裏付け」を与えたのが高木健一弁護士であった。以下、順に二人の弁護士の行状を検証する。 ■「sex slave」の発案者 戸塚悦朗は1942年、静岡県生まれ。1964年、立教大学理学部物理学科を卒業後、同大学文学研究科修士課程(心理学専攻)を中退して同大学法学部に学士編入し、1970年卒業。1973年から81年までスモン訴訟原告代理人となり、84年以降、国連人権NGO代表として活動してきた。 2000年から神戸大学大学院助教授、2003年から龍谷大学法学部教授。専攻は国際人権法。なお、2000年に戸塚は弁護士を廃業している。 【写真】※この人が、「慰安婦=性奴隷」という国際謀略の発案者である戸塚悦朗弁護士です http://blog-imgs-44.fc2.com/h/e/t/hetare1004/20120827120417085.jpg 出典:ヘタレ戦士の独り言 http://hetare1004.blog69.fc2.com/blog-entry-1905.html すでに述べたとおり、戸塚は国連人権委員会に「sex slave」という言葉を持ち込んだ張本人である。それ以後、国連機関が「慰安婦」を「性奴隷」と定義するようになったのである。それについてまず、本人の語るところを聞こう。戸塚悦朗著『日本が知らない戦争責任−日本軍「慰安婦」問題の真の解決へ向けて』(2009年、現代人文社。ただし初版は1999年刊)の280ページで、戸塚は次のように書いている(引用にあたり、括弧内の文献注記は省略した)。 ≪筆者は、92年2月、国連人権委員会で「慰安婦」を「性奴隷」(sex slave)と表現した。以後NGOは、国連で「性奴隷」を「慰安婦」の代名詞として使用してきた。93年6月、ウィーン世界人権会議で、日本政府は、戦時性暴力への対応を「現在」の侵害だけに限定すべきだと主張したが、会議は過去を含む「すべての」侵害に対応すべきだと決めた。95年9月、北京(第4回)国連世界女性会議でも、国連は、「性奴隷」を「慰安婦」の代名詞として使用した。日本軍の「慰安婦」という言葉が被害実態にそぐわないので、クマラスワミ報告書が「軍性奴隷」という言葉を提唱し、国連用語として定着した≫。 ここでクマラスワミ報告書と言われているのは、1996年2月6日に、「女性のための暴力特別報告者」に指名されたスリランカの女性活動家(弁護士)のラディカ・クマラスワミ女史が、日本の慰安婦問題について行った報告書を指している。「軍性奴隷」は英文では「military sexusal slavery」となっている。「軍用性奴隷制」とも訳すことができよう。その内容についてはのちに触れる。 ■金学順の提訴で決断 戸塚はなぜ、このような活動に及んだのか。前掲書の「まえがき」で戸塚は、「筆者が国連に日本軍『慰安婦』問題を持ちだした動機を尋ねられることがある」として、それに答える形で次のような説明をしている。 人権擁護に携わる国連の政治機関である人権委員会には、国連の政治機関である人権委員会には、国連との協議資格を持つNGO代表でなければ出席できない。そこで、「日本の象徴的な重大人権問題を国際的人権擁護の政治的手続きを使って提起することが、この分野でボランティア活動に携わる筆者の責任でもあるのではないかと考えるようになった」という。慰安婦問題に取り組むキッカケになった直接の動機については、次のように書いている。 ≪91年暮れには、金学順さんなど韓国の日本軍性奴隷被害者が民事訴訟を提起した。92年初頭には吉見義明中大教授によって、この問題への日本軍関与を証明する資料が公表された。その直後韓国を訪問した宮沢首相(当時)が、日本軍の関与を認めて、あいまいながらも謝罪するという事態になっていた。だから、この問題も国連に報告するべき時期だと判断したのである。問題提起の直接の動機はこのようなところにあった≫ こうした経過のなかで特に、「勇気を奮って名乗り出た被害者とそれを支援する内外の多くの女性・市民連動の声」に動かされたとも書いている。金学順らの訴訟戦術は、国連で活動をしていた戸塚を動かし、局面を大きく変えたのである。そして、その訴訟の主任弁護士こそ、もう一人のこの運動の立役者・高木健一なのである。 ただし、戸塚と高木の間には興味深い視点の違いがある。戸塚の説明によれば、93年10月24日から30日まで開催された規約人権委員会という名称の会議に、「戦後補償」問題に長年取り組んできた自由人権協会から詳しい報告書が提出された。そのなかの「慰安婦に関する報告」は高木が執筆したものであった。 そのなかで高木は、慰安婦の取り扱いが人道に対する罪を構成すると主張してはいるが補償問題を論ずるに至ると、一転して法的には旧「軍属」として扱っているという。戸塚は、これは恩給などの支給をめざす「法技術的主張」であろうとしつつも、慰安婦の被害実態から見て、慰安婦は日本帝国軍のために働いた軍属」とするよりもその「性奴隷」とするほうが適当だろう、と述べている。 ■クマラスワミ報告書の嘘話 戸塚の文章を読むと、彼は弁護士として証拠の扱いについては慎重であるべきなのに。慰安婦の証言を丸ごと信じているかのようである。93年11月7日・8日、北朝鮮の平壌で開催された国際会議で慰安婦3名の「証言」を聞かされた戸塚は、次のように書く。(前掲書13ページ) ≪「慰安婦」に対する加害行為の凄惨さは、筆舌に尽くしがたいものがある。ピョンヤン国際会議での被害者の証言を聴けば、当時の日本の刑事法に照らしても、数えきれないほどの殺人、誘拐、強姦、監禁、強要、暴行傷害、その他の犯罪が行われたことが誰の目にも明らかだ。加害者の行為は、世界中どの国の当時の法に照らしても、重罪として裁かれる犯罪とされるはずだ≫ では、戸塚が工作し、全面的にバックアップしたと思われる前出のクマラスワミ報告書は、どのようなものだったのだろうか。その中身を見てみると、何とそのなかには日本では完全に嘘話であることが確定した吉田清治の著書を引用し、報告書の第29項で、吉田清治は「1000人もの女性を『慰安婦』として連行した奴隷狩りに加わっていたことを告白している」と書かれている。 また、3つの国で16人の元慰安婦の証言を聞いたとして、その内容を紹介している。そのなかには、チョン・オクスンという北朝鮮出身の元慰安婦の証言として次のような記述がある。 ≪中隊長ヤマモトは彼女に対して剣で打つことを命じました。私たちが見ている中、彼らは彼女の衣服を剥ぎ、足や手を縛り、釘のうち出た板の上を釘が彼女の血や肉片で覆われるまで転がしました。そして最後に、彼らは彼女の首を切り落としました≫ 別のヤマモトという日本人は、「こいつら朝鮮人女は空腹ゆえわめいているのだから、この人肉を煮て、食べさせてやれ」と言ったことになっている。 これは普通の日本人が読めば、ほとんど一笑に付すような馬鹿話にすぎない。むしろ、証言者の「民族性」が色濃く反映している。しかし恐ろしいことに、このような程度の悪い作り話が、国連の名を冠して英語圏で堂々と流通しているのである。「sex slave」という偽造語には、こうしたイメージの「裏付け」が用意されていたのである。 ここで読者は、2007年のアメリカ下院の対日慰安婦非難決議の冒頭部分を思い出していただきたい。そこには、日本の「慰安婦」システムが「その残忍さと規模において前例を見ない強姦、強制中絶、凌辱、性的暴力を含み、その結果、手足の切断、死亡または自殺にまで至らしめたもので、20世紀における最大の人身売買事例の一つだったのである」と書かれていた。 内容の当否以前に、「手足の切断」(英語ではmutiation)とは何だろうと疑問に思った読者も多いだろう。日本にはそういう文化はないからだ。中国には皇帝の愛人の四肢を切断して便所に放り込んだ皇后の話があり、英語圏には当然、言葉に対応する事実があったのだろう。決議文の筆者が、クマラスワミ報告書などに洗脳されていることは疑いない。 ■情報ロンダリングのカラクリ 秦郁彦は、クマラスワミ報告書の出来映えを「欧米における一流大学の学生レポートなら、落第点をつけざるをえないレベルのお粗末な作品」と評価した(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮選書、1999年、265ページ)。以下、同書によって、クマラスワミ報告書の作成事情について手短かにまとめてみる。 報告書はクマラスワミ本人が書いたのではなく、某日本人運動家によって書かれたという風評があるという。いずれにせよ、その内容は酷いもので、先の吉田清治の本や慰安婦の作り話、それとオーストラリア人のジャーナリスト、ジョージ・ヒックスが1995年に刊行した『The comfort women』という本(日本語訳は『性の奴隷 従軍慰安婦』三一書房刊、1995年)からの引用で埋められている。 そのヒックスは日本語が読めないので、東大のある教授に在日韓国人の女性を紹介してもらい、彼女が日本の女性運動家たちから資料を集め、(おそらく英訳もして)送ったものを材料にして書いたのである。 そのヒックスの本は何に基いているかというと、金一勉の1976年の著書『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(三一書房)という本の引き写しである。その金の著書は、戦前の日本の統治が全て朝鮮民族を滅亡させるものであったという妄想の上に立ち、先の元慰安婦の嘘話を集めたような、まともに相手にするのもばかばかしい種類のシロモノなのである。 ところが、この金の本がヒックスの英語の本に移しかえられると、何かまともな文献であるかのような体裁を取る。金→ヒックス→クマラスワミと、日本語から英語に書き写される過程で、マネー・ロンダリングならぬ情報ロンダリングとも言うべき事態がおこり、日本では破綻したデマが英語圏で堂々とまかり通る、というカラクリになっているのである。そしてその過程では、多数の日本人や外国人がこのネットワークのなかに組み込まれて働いている。 戸塚は、国連人権会議では「NGOの貢献が70%を占める」とも言われるほどだと言い、被害者が継続的に情報提供すれば相当の効果がある、と書いている(前掲書、282ページ)。それは自らの6年間にわたる「日本軍性奴隷」の国連運動の成果が証明している、と豪語する。そして、最低5年は国連人権活動を継続しなければ成果はあがらないという。 戸塚は、たしかに6年間で人脈をつくり、情報を絶えず流してロビー活動を行い、世界のNGOとネットワークをつくって、「慰安婦」を「性奴隷」にでっち上げることに成功した。それも、ほとんど一人の力によってである。その有能さは、日本を性犯罪国家に仕立て上げるために十分に発揮され、本人も驚くほどの速さで広がりをもたらして。昭和戦前期に活躍したコミンテルンのスパイ、ゾルゲにも匹敵する反日活動の「業績」である。 ■新しい運動モデルの開発 日本を貶める慰安婦問題を、これほど拡大することに大きな「功績」のあったもう一人の弁護士の話に移りたい。 高木健一は1944年、中国・鞍山市生まれ。1970年、東大法学部卒業。1973年、弁護士を開業。サハリン残留朝鮮人問題、在韓被曝者問題など、アジアに対する戦後責任問題に取り組んだ。高木は現在も東京第二弁護士会所属の弁護士として開業している。 慰安婦問題を使った反日運動で独創的な点は、相手国の「被害者」を探し出し、原告に仕立て上げて日本国家に対して訴訟を起こさせる、という運動モデルを開発したことである。 それは、日本国内の公害や薬害の犠牲者を原告とする訴訟のパターンの延長上にあるともいえるが、国内の訴訟は少なくともある程度の実際の被害を受けた当事者が主体となっているのに対し、この運動モデルでは、日本帝国主義・軍国主義の「被害者」を地の果てまでも出かけて探し出し、何ら訴訟など考えもしなかった当事者に、原告になるように依頼・説得し、訴訟を通じて「事実」をつくり出すという点にある。 被害者がいて、それを支える運動がおこるのではなく、反日運動のため被害者を見つけ出して利用するというところに、この運動モデルの特異性があるのである。 高木の弁護士としてのキャリアのなかで、そのモデルをつくり出した最初のテーマは、サハリン残留朝鮮民主党政権で官房長官を務めた仙谷由人も同僚であった。 【写真】※この人が、高木健一弁護士です。民主党の仙谷由人が、最も尊敬する弁護士だとか・・・ http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E9%AB%98%E6%9C%A8%E5%81%A5%E4%B8%80#mode%3Ddetail%26index%3D2%26st%3D0 出典:高木健一 | Seesaa 検索 ←ぜひクリックして「高木健一」関連サイトを見てください! http://search.seesaa.jp/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E5%81%A5%E4%B8%80/index.html#blog 面白いことに、のちに慰安婦強制連行の詐話師として勇名を馳せることになる吉田清治が、サハリン訴訟の証人として早くも登場している。高木がサハリン残留韓国・朝鮮人の帰還請求裁判を東京地裁に提起したのは、1975年だった。吉田の法廷証言は、1982年9月30日と11月30日の2回にわたって行われた。 吉田証言を高木は次のように紹介する。 ≪軍の命令のままに多くの朝鮮人労働者を朝鮮総督府の機関や警察官、村役場の職員の協力によって木刀で追い回しトラックに乗せたと、強制連行の実態を生々しく証言したのだった。そしてそれらの証言のなかで女性の連行もおこなったという証言が飛び出して、これが以下に引用する従軍慰安婦の強制連行の証言となったのである≫(高木健一『従軍慰安婦と戦後補償 日本の戦後責任』三一新書、1992年、15ページ)。 吉田清治の『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』は1983年の発行だから、この法廷証言当時は、著書を執筆している最中だったと思われる。高木前掲書には、法廷での高木と吉田の問答が速記録のような形で長々と収録されている。 「朝鮮半島から何人くらいの婦女子を徴用されたのでしょうか」という高木の質問に、吉田はもっともらしく、「全部で私が労務報国会動員部長中に950人、これは間違いないと思うのは、私は非常にこれは深刻でございますし、当時の部下たちと数年前から時々山口県に行った時に会ってその話で大体皆の意見も950人と言っておりました」と答えている。 詐話師の面目躍如である。というのは、秦郁彦は93年3月、吉田に電話で「裏付けをとりたいので旧部下の誰かを紹介してくれ」と依頼したところ「絶対に教えられない」と断られた、と言っている。それで秦は済州島の調査に向かったのであった。また、上杉千年は吉田の講演会のあと、楽屋を訪ねて元の部下の紹介を依頼したところ、吉田は脱兎(だっと)のごとく逃げ去ったと書いている(『検証「従軍慰安婦」』全貎社)。 秦と吉田の先の電話のやりとりのなかで、吉田が最後に「私を支持するNGOも多いので、近く国連に持ち込んで大問題にさせます」と話している。高木−吉田−国連−戸塚といった形で、水面下では早くから地下茎のごとく、人脈が繋がっていたらしいことが次第に見えてくる。 ■慰安婦を反日運動に利用 さて、1991年12月6日、金学順ら慰安婦3人を含む原告35人(慰安婦のほかに軍人軍属16人、遺族16人)が、東京地裁に提訴した。日本国に謝罪と賠償を求めるという内容だった。 朝鮮人慰安婦を名乗り出させて訴訟の原告にするという案は、もともとは大分市の主婦・青柳敦子が初めて実行したものであった。青柳は1989年、韓国にでかけて鉦(かね)や太鼓で原告探しをした。初めは反応がなかったが、翌年、韓国側に遺族の組織ができ、提訴の段階となった。 ところが、韓国側の団体が青柳のグループと手を切り、高木弁護士のグループに接近した。こうして、東京地裁への提訴は高木が主任弁護人を務めることになったのである。 ところで、原告のなかの元慰安婦だった金学順は、訴状には14歳の時から3年間、養父に連れられて中国に渡り、性的サービスをさせられるようになったことなどが書かれていた。しかしこれでは、どこに日本政府の責任があるのかさっぱりわからない。このことについて、秦は次のようなエピソードを紹介している(前掲書、180ページ)。 ≪私がその頃、高木弁護士へ「もう少し説得力のある慰安婦はいないのか」と聞くと、「実は私もそう思って韓国へ探しに行ってきた。追加分[あとで原告に加えられた元慰安婦を指す−引用者]はよいのばかりですよ」と言われたので訴状で検分したが、似たりよったりなので失望したことがある≫(傍点・引用者) 要するに、高木らは自らの反日運動のために、韓国の元慰安婦の老婆を利用したのである。 私は、本稿で取り上げた二人の弁護士のうち戸塚とは面識がないが、高木は一度だけ会ったことがある。それは、テレビ朝日が放映した「朝まで生テレビ」という番組で共演者となった時のことである。しかし、その話に行く前に、事の起こりから順に話を進めることにしよう。 ■テレビ番組の情報操作を暴露 1996年9月29日深夜、日本テレビ系列で「IANFU インドネシアの場合には」というドキュメンタリー番組が全国放送された。これは、名古屋の中京テレビというローカル局が制作したものであった。竹中直人のナレーションで、インドネシアの元慰安婦たちがやっと声を上げ始めたというストーリーである。 番組に登場するインドネシアの女性が、日本兵に強制連行されたかのような話をしている。これには作為が施されていると私は直感した。放送の前日に、日本共産党の機関誌「しんぶん赤旗」だけが内容の予告をしていたのも大いに怪しい。組織的に仕組まれているのは間違いない。 そこで、いまは故人となったアセアンセンターの中島慎三郎に相談し、番組のビデオをみんなで視聴して番組の嘘を突き止める公開検討会を開催することにした。中島は福田赳夫総理大臣のインドネシア語の専属通訳を務めており、インドネシア語にも現地の事情にも精通している。 検討会は、ビデオを再生して、登場する女性のインドネシア語の発言と字幕の日本語のずれをチェックするという方法で行った。予想どおり、女性の証言をねじ曲げて訳した箇所が次々と判明した。2つだけ例を出そう。 ▽元慰安婦とされる女性の証言の字幕は、「買い物から帰る途中で無理矢理連れ去られました。日本兵に車に乗せられたのです」となっている。ところが、実際にビデオで彼女の発言を聞くと、そのようなことは言っていない。「買い物から帰る途中で無理矢理連れ去られました。オランダの車、いや、日本の車に乗せられたのです」と言っているのである。字幕にある「日本兵」という言葉は、どこにも出てこない。番組が勝手に書き加えたのである。悪質な偽造である。 ▽元慰安婦とされる別の女性の証言の字幕は、「戦争が終わると日本人は誰もいなくなっちゃったんです。私たちは無一文で置き去りにされたんです。手元に残ったのはお金じゃなくキップ(軍票?)だけだった。キップというただの紙キレだけ」となっている。 実際の発言は、「はい、いま私が一番つらい事はこうなんです。私は体を悪くしているのでゆっくりしゃべります。(戦争が終わって)散り散りになって帰るとき・・・あの朝鮮人は誰だったろう。全員いなくなってしまったんです。一銭も手元に残されませんでした。キップが遺されただけでした。紙キレのお金、それをキップと言っていました」となる。 「あの朝鮮人」とは、慰安婦の経営者のことであるのは間違いない。番組は経営者が朝鮮人だったということを隠し、わざと「日本人」という言葉を挿入して、あたかも日本人が慰安所を経営して、彼女たちを置き去りにしたという話に仕立て上げた。 テレビ・メディアを使った悪質な情報操作である。この検討会の内容は産経新聞で報道され、反響を呼んだ。 ■インドネシアに火をつけた そこで私はこの際、インドネシアに出かけて、ことの真相をつきとめようと考えた。産経新聞も独自の取材を計画し、いまは政治部の花形記者となっている阿比留瑠比記者と同道することにした。案内役・通訳として中島翁にご足労願った。 調べていくと、驚くべきことが判明した。インドネシアの慰安婦問題に火を付けたのは高木健一だった。 高木はインドネシアを訪問し、地元紙に「補償のために日本からやってきた。元慰安婦は名乗り出て欲しい」という広告を出した。このことが、「慰安婦は名乗り出れば200万円の補償金がもらえる」という話として伝わった。 インドネシアで200万円といえば日本円で2億円に相当し、数世帯が一生遊んで暮らせる額である。当然ながら、希望者が殺到してパニックとなった。実に2万2千234人の人々が「慰安婦被害者だ」と名乗りを上げたのである。戦時中、インドネシアに駐留していた日本兵は2万人である。これが、中京テレビのナレーションが言う「アジアの女たちが声を上げ始めた」ということの実態なのである。 中京テレビの取材の状況も判明した。たとえば、証言者の映像の背景に若い女性(戦時中の慰安婦ではありえない)がたくさん映っているのは、日本のテレビ局が来るというので近郊から見物に来た娘たちだった。しかし、テレビを見ていると何となく慰安婦だと錯覚してしまう。テレビ番組がどれほどいい加減なものか、改めてイヤというほど感じた。 インドネシアでは英字紙「インドネシア・タイムス」のジャマル・アリ会長にも面会した。アリ会長は中京テレビの番組を見て、次のように語った(中島慎三郎「日本人が捏造したインドネシア慰安婦」『祖国と青年』1996年12月号より引用)。 ≪ばかばかしい。針小棒大である。一人の兵隊に一人の慰安婦がいたというのか。どうしてインドネシアのよいところを映さない。こんな番組、両国の友好に何の役にも立たない。我々には、日本罵倒体質の韓国や中国と違って歴史とプライドがある。「お金をくれ」などとは360年間、わが国を支配したオランダにだって要求しない≫ 村山内閣は「アジア女性基金」の寄付金の配分を打診していた。これに対するインドネシア政府の対応も、まことに立派で完璧なものであった。96年11月14日、スエノ社会大臣が記者会見し、次のような発表をした。 (1)インドネシア政府は、この問題で補償を要求したことはない。 (2)しかし、日本政府(村山首相)が元慰安婦にお詫びをしてお金を払いたいというのでいただくが、元慰安婦個人には渡さず、女性の福祉や保健事業のために使う。 (3)日本との補償問題は1958年の協定により、完結している。 ■「朝生」で高木の行状を追及 名乗り出た慰安婦の登録実務を行ったのは、インドネシアの兵補協会であることが分かった。そこで、ジャカルタ郊外にあるその事務所を訪ねることになった。兵補とは、旧日本軍の雑用をする仕事に携わった現地の人々のことである。 事務所までは、埃っぽい道を激しく振動する車に揺られて1時間以上も走ってやっと辿りついた。民家の2階の事務所に招き入れられて、インドネシアの兵補中央協議会元会長のタスリップ・ラハルジョと面会した。 ラハルジョは、「東京の高木弁護士の指示を受けて慰安婦の募集を始めた。『早く進めろ』と催促も受けた」と語った。ラハルジョ会長は、高木が日本語で手書きした慰安婦登録用書式を見せてくれた。 96年11月30日、テレビ朝日で「朝まで生テレビ」が放映された。タイトルは、「元日本帝国軍人50人の戦争と平和」というもので、50人の元軍人をスタジオに招いて、その前で慰安婦問題について討論するという趣向だった。出演者は秦郁彦、小林よしのり、高木健一、海老名香葉子、それに私という顔ぶれだった。 このなかで高木は、アジアの女性たちが声を上げ始めた、という類の発言をした。そこで私は、兵補協会の事務所で撮影した高木の手書きの慰安婦登録用紙を拡大写真で見せて、その実体を暴露した。アジアの女性が自発的に立ち上がっているかのような話は嘘で、自作自演、火のない所に煙を立てて回っているのは他ならぬあなたではないか、と私は高木を追及した。 この放送にはその後、ちょっとしたトラブルがあった。「朝生」は普段は文字どおり生放送なのだが、この日は元軍人50人をスタジオに招いたため、ご高齢で深夜の出演は無理だった。そこでこの日だけ、例外として午後5時からの録画撮りとなった。 収録後、日下プロデューサーから電話がかかってきた。高木が「自分の言い分を字幕で入れよ。そうでなければ放送することを認めない」とごねているとのことである。そこで私は、テロップを入れることにやむなく同意した。テロップは私の発言の場面にかぶせて、「この論争のなかで藤岡氏の発言の一部に事実を歪曲したものがあり名誉を傷づけられたとの抗議が高木氏からありました」というもの。論争のなかで反論すべきなのに、こういうやり方はアンフェアである。生番組にどうしてテロップが出るのかと不思議に思った人もいることだろうと思うが、以上のような事情があったのである。なお、このテレビ討論の私の発言部分を YouTube でいまも見ることができる。 金で釣って慰安婦に名乗り出させて運動に利用する反日活動家の醜い姿。それによってアジア各地に「反日産業」を扶植(ふしょく)していく恐ろしさ。彼等こそ、日本国の獅子身中の虫である。 ■「首の皮一枚」だった日本 最後に、戸塚悦朗の一文を引用して本稿を締めくくりたい。戸塚は2008年に前掲の『日本が知らない戦争責任』という著書の改訂増補版を出したが、それはちょうど2007年の参議員選挙で民主党が勝ち、参議員の与野党逆転が起こって政権交代の可能性が言われ出した時期であった。 そこで戸塚は増補版の前書きに、「政権交代を実現することができれば、『解決不能』と言われていた日本軍性奴隷問題の立法解決が可能となり、それをきっかけにアジアとの和解のプロセスが始まるというヴィジョンがはっきりと見えてきました」と書いていた。 幸い、その民主党政権は3年3か月で終わったので戸塚の期待は実現していないが、日本は首の皮一枚で救われたのである。 |