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(上)にある「問題の本質は、憲法の修正や追加を扱う適正な制度やルールが整備されていないこと」という指摘は現理論的には間違っていないが、“日本の統治制度における問題の本質は、憲法や内閣を含む統治機構に超越するものとして“外国の意思”が存在すること」だと思う。
世界を股に掛け自分の戦略を追求する国家の最強の軍隊が国内に駐留しているのでは、建前はどうであれ、肝も据わった利口な政治家が国会で多数を占める状況にならなければ、従米的政治は払拭できないと思う。
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問われる政策決定
(上)突破型政治にもろさ 機能しない国会、元凶 本来の議院内閣制の姿に
野中尚人 学習院大学教授
アベノミクスに加え、賛否を巻き込みながら強烈な外交安全保障政策を押し出したことは、いわば「突破型」の安倍晋三政権の姿勢をあますところなく示している。「決められない政治」は過去のものとなり、「決めすぎる政治」とさえいわれている。ただし、集団的自衛権を巡る解釈改憲の問題と、昨年末の特定秘密保護法の制定については、よく考えておく必要がある。
内閣が持つのは行政権で、現実に対応する裁量権をもつ一方、法律の枠組み、さらには憲法の規定・精神に従わねばならない。従って、憲法の基本的な運用、特に国民の権利・義務に重大な影響を及ぼす可能性のある変更は、首相の権能でも内閣の権能でもない。まして内閣の補佐機関にすぎない内閣法制局が重要な憲法判断をして歯止めをかける方式にも大きな無理があった。
問題の本質は、憲法の修正や追加を扱う適正な制度やルールが整備されていないことにある。その結果、変化する環境のなかで現実とのギャップが限界を超えたとき、それが突然の破壊的な変更へとなだれを打つ危険性を生んでいる。他の先進国が憲法院か国家元首(特に大統領)に裁定者の役割を担わせ、国民関与の仕組みを充実させてきたのとは大きな違いである。
もう1つの問題は国会の形骸化である。国家・社会が守るべき重大なルールは、合議制の国民代表機関たる国会が熟慮し適切な手続きを経て決定する。それが法律であり、民主主義の基本中の基本である。それなのに国会は何の役割も果たしていないではないか、という疑義である。
筆者の言葉でいえば、日本の国会の最大の特徴は「外向けに強すぎる国会」と「極端に形骸化して内実を失った国会」との組み合わせである。英仏などと比べた場合、10倍を超える長時間の首相の国会拘束問題は、強すぎる国会を象徴している。他方で、1年間でわずか60時間程度という本会議の審議時間は、主要国の20分の1程度という驚くべき貧弱さに陥っている。
これが、1955年の保守合同以来の55年体制のもとでガラパゴス化した日本の国会システムが抱え込んだ深刻なパラドックスである。しかも、長らく政府・与党の決定を追認するだけの「ラバースタンプ(ゴム印)」と揶揄(やゆ)され続けた参議院が、実は政府と衆議院の多数派をマヒさせかねないほどの潜在的な権限を持つこととも連動しつつ、日本の政治に破壊的な悪影響を与えてきたのである。
戦後の混乱とイデオロギー対立を乗り越えた後の日本は、経済成長を基礎に、追いつき型の合意と強力な官僚機構にも支えられ、成功を収めてきた。問題は、内外の様々な偶然が重なったいわば「幸せな戦後」に対して過剰に適応し、異常なガラパゴス状態に立ち至ったことにある。
前述のパラドックスを解く鍵として、ここでは与党による事前審査制の問題を考えてみよう。他国ではこの仕組みはほぼ絶無だということを、まず想起してほしい。
結論からいえば、与党事前審査は外向けに強すぎる国会と国会内部での合意主義がもたらした。戦後国会は、国権の最高機関として政府からの介入を一切排除する仕組みを獲得した。逆に政府の側からみると、議会との緊密な連携を重要な柱とするはずの議院内閣制にもかかわらず、政府はその基本的な道具立てを徹底的に奪われたのである。
しかも国会の内部では、合意重視の慣行が積み上がり、「多数派=与党」の主導権には大きな制約がかかってきた。これらの条件のもとでは、立法作業を進めたい政府官僚は深刻な困難に直面する。
さらに、後に族議員と呼ばれるようになる自民党議員の自己主張が強まってくると、政府が国会での立法活動を全く制御できなくなるのは当然の帰結であった。早くも60年代の初頭、いくつかの重要な政府法案が自民党の反対で廃案となったとき、これは現実の悪夢となったのである。
国会という自らにとって極めて不利な土俵から「逃げ出したい」官僚と、説明責任を避けつつ与党のうまみを独占し続けたい自民党は、こうして実質的な政策・利害の調整を与党での事前審査へと移したのである。必然的に、国会での審議・討論は野党による政府批判・追及という面に偏ることとなった。本来の意味での与党の役割が事実上国会から消滅したからである。
こうして政府立法や予算が国会前の与党審査段階で実質的な作業を終えた後、衆議院段階では専ら野党の反対をいかに乗り切るのかという駆け引きが展開され、それも終わった参議院では、形式的な審査だけが残されることになった。参議院のラバースタンプ化は、政官が癒着ともいうべき変則的な関係を作り上げる過程で、国会システム全体が大きく歪められたことの論理的な帰結だったのである。
しかし、憲法上の参議院の地位と権能は実は極めて強大で、法律の制定・修正をブロックできるだけでなく、政府の予算執行を事実上マヒさせることができる。そのため、自民党による衆参両院の多数支配が崩れると、一瞬にして今度は決められない「ねじれ」問題が発生した。90年代以降の自民党が、衆議院での多数を握っているときでさえほぼ常に連立政権を余儀なくされてきた理由はここにある。
結局、重要ルールの審議・決定という立法活動の実質を失い形骸化してきた国会は、両院の多数をほぼ回復した安倍自民党が過去の合意政治のルールを捨てて「突破」することを決意したとき、本来のあるべき対応を採ることはできなかった。特定秘密保護法をめぐる立法過程、特に参議院審議の哀れなほどの貧弱さはその端的な現れである。
55年体制の政治は新しい環境に対応できなくなってしまった。突破型の安倍政治はその反動でもあるが、十分な制度基盤を持ってはいない。課題はまさに山積しているが、例えば、党首討論の定期的な実施と首相の国会拘束緩和をセットで進めるなど、まずはできることを少しでも実行すべきだ。そのうえで、完全に時代遅れとなった統治の全体的骨組みを作り直すための検討が不可欠である。
最も重要な根幹は議院内閣制の適正な機能の骨格を回復させることであり、誤った三権分立の考え方に基づく国会からの極端な政府排除を是正するとともに、国会内部での本来の活力とバランスを取り戻さねばならない。
当然、現在のような形での事前審査制はやめ、大半の機能を刷新された国会の内部に取り込む必要がある。他方で、民主政治のためのマニフェストの検証・改善の仕組みを一層充実させるとともに、競争的で透明性の高い政治の担い手としての政党の自己統治と機能の強化も是非必要だ。
今や我々にも伊藤博文が全身全霊で取り組んだ憲法調査に匹敵するような努力が求められている。政府と国会との関係は次々回の総選挙後、参議院改革は20年後でもよい。しかし、超党派の有力OB政治家と最高度の実務家・有識者が結集する組織を今すぐにでも立ち上げるべきである。
○「適正に決められぬ政治」が現政権の実態
○国会は強大な権限を持つが内実は形骸化
○事前審査を廃し議院内閣制の機能回復を
のなか・なおと 58年生まれ。東大文卒、東大博士(学術)。専門は比較政治学
[日経新聞7月28日朝刊P.19]
(中)地方議会 政党軸に再生を
砂原庸介 大阪大学准教授
1990年代の衆議院の選挙制度改革は、いわゆる中選挙区制のもとでは政党ではなく候補者個人間の競争が激しく、その結果として特定の団体や集団の意向が政治家に過剰な影響を与えてしまうことを問題視したものだった。
小選挙区制への変更は政党の執行部が政策に責任を持つ形で政党間の競争を促すことが企図されていたとされる。国政で「どのように民意を吸収するか」という問題意識からの改革であり、自民党に対抗する勢力が民主党に結集することを促し、2009年には政権交代を実現させた。
他方、地方議会では「どのように民意を吸収するか」という問題意識から選挙制度が検討されたことはない。そこでは依然として個人間の競争が中心で、この競争のあり方が地方政治だけでなく、国政での有権者の選択に弊害をもたらしていると考えられる。以下では現行制度の問題点を示したうえで、改革の方向性について検討を加えたい。
ここでの地方議会の選挙制度の問題とは、議会の多数派形成の基礎として、決定に責任を持つような政党を、有権者が選べないことである。
選ばれた議員たちが政党という単位で意思を統一し、議会の過半数を目指して競争すれば、有権者にも決定の責任の所在がわかりやすい。1つかせめて少数の政党が過半数を握り、議会での決定がなされれば、有権者はその決定に対する評価をもとに次の選挙で投票できる。政党を通じて民意を反映するのである。
しかし日本の地方議会の選挙制度では、選挙を通じて少数の政党で多数を制することは極めて難しい。なぜなら政党のなかでの競争が激しくなり、支持者の少ない候補者が乱立するという事態が起きるからだ。特に市町村など定数の大きい選挙区では、この傾向が激しくなる(表参照)。
たとえば、定数5の選挙区で過半数を制するためには同じ政党から少なくとも3人の候補者が必要だ。しかし有権者が持つのは1票であり、分割したり、候補者間で融通したりすることはできない。仮に政党が有権者の過半数から支持されていても、その支持を3人の候補にうまく分割できないと、過半数の議席は取れない。1人が大量票を獲得すると、残り2人が当選できないことも考えられる。
候補者の側からみると、この制度で政党に所属するメリットは薄い。政党の公認があっても複数の候補者がいれば自分は埋没しかねない。有権者に個人としてアピールすることが肝心であり、政党の決定に従うのは二の次となる。
また、政党の公認がなくても、個人として一定の支持団体を持っていたり、強くアピールできる材料があったりすれば、十分に当選できる。ある地域に公共施設や道路などのインフラを誘致する、というのはまだよい方で、口利きや違反のもみ消しなどで有権
者の「役に立つ」ことをアピールする候補者が出てきても不思議ではない。
現行制度では、個々の議員が限られた有権者へのアピールに熱心になっても、多くの有権者が望む政策を実現するためにまとまる努力は生まれにくい。そして二元代表制の名のもとに、知事や市町村長が多くの有権者の意をくんで行う提案を承認するにとどまりがちとなる。議会で多数派を作らなくても、知事や市町村長と個別に交渉し、自分を支持する有権者にアピールできる成果が上がればそれでよいとなる。
最近メディアを騒がせた東京都議会のヤジ問題を思い出すとわかりやすい。ヤジで謝罪した議員は定数8の選挙区で1位当選しているが、投票したのは有権者の6%程度にすぎない。6%程度がヤジを問題視せずにもう一度投票したら、次も余裕で当選できるだろう。これでは有権者の5割を占める女性が怒っても、全く圧力にならないのだ。
投票が政党単位ではなく個人単位だと、都道府県や政令指定都市のように選挙区を分割している議会では異なる選挙区の議員に有権者が与える圧力もほとんどない。議員個人が落選や引退で議員を辞めれば、有権者はそれ以上の責任追及もできない。議員の問題行動の責任を問うのが難しい議会に、有権者が失望し離れていくのは当然だ。
もし投票が政党単位であれば、議員たちには政党のブランドが死活的に重要になる。選挙区を超えてブランドを維持するため、議員たちは、問題行動を起こした同僚議員を公認しなくなる。議員個人が辞めても、有権者は一度公認した政党の責任を追及することができるので、問題を起こしそうな候補者は、公認の段階で厳しい選別にさらされる。
選挙区という空間や任期という時間を超えて有権者が政治の責任を追及するためには、政党というまとまりが必要なのだ。議員に問題行動があれば、次の選挙に向けて評判を気にする政党が厳しく罰し、自浄作用を発揮すべきなのである。しかし、現在の地方議会の選挙制度では、当選した議員たちが有権者の多数派を気にかける必要性は乏しく、しかも有権者はそんな議員を個人単位でコントロールできないのである。
以上のような問題点を踏まえると、地方議員が個人として活動するのではなく、地方での政党の存在感を高める方向で選挙制度を改革すべきだと思われる。関心の近い議員同士が議会で多数派を形成する努力を促すとともに、有権者が政党を通じて議員をコントロールしやすくするのだ。
考えられる方策は、まず比例代表制の導入だろう。ただし、現実として政党の存在感が薄いなかで、現行制度との接続を考えれば、有権者が候補者を個別に選択し、候補者が政党内で得票を共有する非拘束名簿式がより妥当といえる。この制度なら、似たような候補者間での過当な競争がなくなり、政党という議会のなかでの多数派形成の基盤が作られる可能性がある。
1人1票ではなく複数票を許すしくみも考えられる。候補者は当選のために今より多くの得票が必要になるし、似たような候補者の間で過当な競争が起こるという問題もある程度回避できる。似たような政策志向を持つ候補者が協調的な行動をとることを促すことが可能になり、議会での政党の存在感を高めることにつながると考えられる。
地方議会で政党の存在感を高めることは、国政での政党間競争を安定させる効果もある。12年の総選挙で大敗した民主党や、みんなの党などの新しい政党は地方議会での基盤が非常に弱く、地方から国政への要望を吸収できず、分離と統合を繰り返している。
地方で政党のまとまりが強まれば、地方議員たちにとっても政党のブランドが重要になり、国政での安易な離合集散を許さなくなっていくだろう。国政では政党をみて投票している有権者が、地方選挙ではいちいち候補者について考えなくてはいけないという複雑さも多少は解消される。
一般に選挙制度を議員に委ねると、自分たちの地位を守ろうとする動機が先に来て、必要な改革がなかなか実施されない。しかも改革のためには、投票方法や集計方法の変更だけでなく、政党についての規定の整備や、選挙区割りのやり直しなどの困難が非常に大きいことも予想される。さらに国の選挙制度との整合性も問われるだろう。
しかし、数多くの不祥事が発生し、コントロールが難しい地方議会への不信は、かつてないほど高まっているように思われる。重要なのは、よりよい代表を選び出したいと考える世論である。地方分権が叫ばれているからといって、信頼回復を地方議会の小手先の議会改革に委ねるのでは足りない。よりよい代表を選ぶため、国民的に地方議会のあり方を検討し、選挙制度を考えなおす必要がある。
<ポイント>
○地方は政党内競争が激しく候補者が乱立
○選挙制度の改革で政党の存在感を高めよ
○国政での安易な「離合集散」を防ぐ公算も
すなはら・ようすけ 78年生まれ。東大教養卒、博士(学術)。専門は行政学、地方自治
[日経新聞7月29日朝刊P.25]
(下)「多数者の専制」に危うさ
石川健治 東京大学教授
近ごろ急に、立憲主義について一般向けに説明してほしい、という注文を頻繁に受けるようになった。立憲主義という言葉が浮上してきたのは、それだけ現政権の反立憲主義的性格が際立っているからにほかならない。尋ねられれば、やむなく後発の近代国家として国際社会に乗り出した日本特有の歴史的文脈を指摘するとともに、それに沿った説明を提供することになる。しかし実は、それほどたやすい話ではない。
そこでいう憲法(constitution)は、政治社会の構造(constitution)そのものにかかわるが、そもそも政治社会の形が、歴史的な経緯に応じて多様だからである。
たとえば憲法学者、美濃部達吉も、一口に立憲政体といっても、実際にはスイス型「直接民政主義の立憲政体」、米国型「権力分立主義の立憲政体」、主流をなす「議院主義の立憲政体」、ドイツ型「官僚主義の立憲政体」があることを指摘していた(1921年「日本憲法第一巻」)。
そのうえで最大公約数としての立憲主義を「国民自治」(国民的議会と国民的政府)と「自由主義」(権利保障と権力分立)という座標軸に沿って説明しようと試みた。時々の権力者が専制主義化しないよう「その暴走を防ぐのにふさわしい仕組み」を憲法に組み込み、「憲法に準拠した政治」を内在化させたのが立憲政体だというわけである。
ただし、美濃部における立憲主義は、国家主権と表裏一体の関係にある。
ここで主権とは、絶対者の形容であり、あらゆる主権論は絶対的な支配者を想定している。君主主権とは、絶対王政(絶対君主政)を裏返した表現である。国民主権も絶対民主政の意であり、多数決主義を採る場合、これは「多数者の専制」に等しい。
これに対して、中央集権的な国家の形成と近代化をめざす明治国家にとって、国家の主権性の樹立こそが、第一課題であった。
けれども、これは国家法を自在に破る資格が、主権者たる国家以外の、あらゆる存在から剥奪されることをも意味した。そこから反転し、立憲主義の思考回路を樹立するのが「国家法人説」と呼ばれる法学的な国家論である。
美濃部はそれを踏まえ、憲法は「国家法人」の定款にほかならないと考えた。「定款=憲法」に準拠した権限を行使する「機関」も、憲法の定めによる。機関はそれぞれに国家全体を体現するが、個々の機関どうしが対立した場合、定款に定められた「最高機関」の意思が国家全体の意思とみなされる。帝国憲法が定める最高機関は天皇以外ではあり得ない(天皇機関説)。
そうである以上、君主であれ国民であれ、国家法を自在に破れる主権者の資格をもたない。他方、憲法に準拠しない実力行使は、暴力団と同様の単なる裸の暴力であって正統化されない。ならば、国家法人の「機関」の地位に納まり、憲法という国家法人の定款に準拠した権限を行使しようということになる。かくして、すべての政治勢力が憲法の中に吸い込まれ、立憲主義が実現することになる。
それは、もともと絶対君主政にも絶対民主政にも敵対的な立場であったが、明治末年段階での争点は、バタ臭い西欧風絶対君主としての天皇像をもち込もうとする、天皇主権との対抗であった。「絶対君主政」対「立憲君主政」という争点(図のA)において美濃部説は天皇主権説との対抗上、相対的に民主化のベクトル(図の下向き)をもち大正デモクラシーを演出した。
ところが、戦後の憲法制定時は、争点が図のAからBに移動する。美濃部説では、立憲君主政であろうが立憲民主政であろうがどちらでもよく、じじつ美濃部は、大正期に時計の針を戻すだけで十分と、帝国憲法の改正不要説を強調した。戦中戦後を通じて一切節をまげることがなかったのは見事であったが、時流に投じることのないその頑固さが、結果的にはGHQ(連合国軍総司令部)の介入を招くことになった。
そして明治憲法の改正手続きを借りながら、実際には全く新しく制定されたのが、日本国憲法である。この憲法を理解するには、旧憲法と連続する欽定憲法なのか、新たに制定された民定憲法なのかをはっきりさせる必要がある。
美濃部の後継者、宮沢俊義ら次世代の憲法学者は、欽定憲法ではなく民定憲法であることの論証に力を入れ、図のBを争点化できる「憲法制定権力」という概念を導入した。「憲法制定権者としての国民」による、新憲法の制定という枠組みの下に、占領下に行われた既存の法秩序への大規模な介入を、正当化しようとしたのである。
この日本国憲法は、君主政から民主政への革命的な移行を含んでいるため、おのずから民主主義のシンボルがおどり、民主的な統治権力を構成した側面ばかりがクローズアップされてきた。学説レベルでは、こつこつ立憲主義の議論が続けられてきたものの、図のBが示すように、立憲主義は争点化されず、世論も喚起されなかったのである。
しかし、ここへきて、冒頭に述べた通り、立憲主義が再び争点化されたのだとすれば、それは、争点が図のCに移動したことを意味している。
まずは地方政治において、橋下徹大阪市長による新たな民主政のスタイルが波紋を呼び、遅れて中央政治においても、個人人気を背景とする安倍晋三首相の暴走気味の統治スタイルが問題視されるに至った。選挙区ごとの多数決である小選挙区制を背景に、選挙時点での「民意」を絶対化する彼らのスタイルは、ある種の国民主権の具現化であるが、それは「多数者」の専制にほかならない。そうしたなかで、争点Cを突き破るように行われたのが、集団的自衛権の憲法解釈をめぐる、7月1日の閣議決定であった。
こうした状況下であればこそ、日本国憲法が、より十全な立憲政体に向けて、従来の統治システムに大改革を加えた側面に光をあてる必要がある。憲法は、新しい統治権力を構成する一方で、「その暴走を防ぐのにふさわしい仕組み」を組み込んだのである。
そして戦後日本の立憲主義がひとまず及第点には達してきた以上、「その暴走を防ぐのにふさわしい仕組み」として機能したのは何であったのか、という自問自答を、あくまで日本固有の文脈に即して繰り返さなくてはならない。その自問自答のなかで憲法9条の存在や、そのもとで追求されてきた政府解釈の道筋も、捉え直されるはずである。
一見「国民自治」とも「自由主義」とも関係がなさそうでありながら、それらが戦後日本の立憲主義の要石であったことは、間違いがない。
疑う者があれば、1930〜40年代の新聞を原紙で読んでみればよい。「極東の平和」を実現すべく、スピード感のある政治的決定を確保するために行われた「政治革新」と、岸信介ら「革新官僚」たちの暗躍。「高度国防国家」と果てしない軍拡路線。ドイツ・イタリアとの「同盟」政策。そのなかで皮膚呼吸を止めるように奪われる「精神的自由」。そうした名状し難い息苦しさをもつ世の中から、戦後の日本を解放した「仕組み」が何であったかを、再考する必要がある。
もちろん、21世紀の国内外の環境変化をうけて、いつの日か統治システムの大胆な構造改革が必要になるであろう。巨視的にみて、7月1日の閣議決定が、そうした改革の一里塚であった可能性を、排除することはできない。しかし、そうした改革局面においてこそ、急激な変革をソフトランディング(軟着陸)させるために、常に効果的なブレーキを内蔵させる立憲主義の発想が重要になる。議論の本番はこれからである。
<ポイント>
○現政権には反立憲主義的な性格が際立つ
○選挙時点の「民意」の絶対化は多数者専制
○新たな統治システム巡る議論はこれから
いしかわ・けんじ 62年生まれ。東京大法卒。専門は憲法
[日経新聞7月30日朝刊P.29]
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