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2014.07.24 公明党は集団的自衛権の行使容認によって名実ともに保守与党になった、自公連立政権の成立から今年で15年、公明党は果たして保守政党として生き残れるか(その1)
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2014.07.24 リベラル21
〜関西から(144)〜
広原盛明(都市計画・まちづくり研究者)
公明党は今年で結党50年を迎えるのだという。公明党の結成大会が開催されたのは1964年11月17日、その3年前の1961年11月27日には前身の「公明政治連盟」が結成されているので、政党の歴史は半世紀余にも及ぶ。昨今の諸政党が1年も経たないうちに泡(あぶく)のように消えていく文字通りの「泡沫政党」であることを思えば、いまや公明党は押しも押されぬ中堅政党だと言えるのかもしれない。安倍首相が「責任野党」と持ち上げながら、維新・結い・みんななどの「泡沫政党」との連携になかなか踏み切らないのは、公明党の組織基盤が安定しており、自民党を支える「下駄の鼻緒」(集票集団)としての役割にそれなりに満足しているからだろう。
公明党(公明政治連盟を含む)の半世紀余りの歴史を政権に対する立ち位置(与党、野党)からたどってみると、「表向き野党」→「責任野党」→「補完与党」→「責任与党」の4段階を経て現在に至ったことがわかる。「表向き野党」とは、政権与党に近づきたいとの「与党願望」を持ちながら、相手にされないために「表向き野党」の体を装い、常に「与党入り」の機会をうかがっている野党のことだ。つまり政権与党に対決する政策を基本的に掲げることなく、また掲げたとしても上辺だけのことで本気で実行する意思がなく、その時々の政局に応じてカメレオンの如く政策を変更する野党のことである。その意味で公明党は誕生の瞬間から「非革新・反革新」の体質を持った与党志向の政党であり、「表向き野党」は世を忍ぶ仮の姿だったと言える。
公明政治連盟の発足当時、その基本政策は「核兵器反対」、「憲法改悪反対」、「公明選挙」、「参議院の自主性確立」の4つであり、なかでも「核兵器反対」と「憲法改悪反対」は基本政策の第1項目、第2項目に掲げられていた。そこには「核兵器反対。いかなる理由を問わず、核兵器の製造・実験・使用に反対する」、「憲法改悪反対。主権在民を基本的な精神とし、戦争の放棄を規定する『日本国憲法』を擁護し、日本国民の平和のために公正独自の立場で改悪に反対する」と、憲法と平和を守る理念が声を大にして謳われていた。
この基本政策は公明党の結党理念としても受け継がれ、池田会長の言う「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」という「庶民の党」の立党精神とともに、公明党が「平和の党」としてイメージアップされるうえで多大の効果を発揮した。「庶民の党」と「平和の党」はいわば公明党の立党精神・結党理念を象徴する2本柱の政治スローガンとなり、これが大々的にキャンペーンされることで、公明党が「表向き野党」との認識が広まることになったからである。
ところが、創価学会が自分たちに批判的な著作に圧力をかけて出版を妨害するという「言論出版妨害事件」(1969年)が発生し、竹入公明党委員長が田中角栄自民党幹事長に事件の「揉み消し」を依頼するという事態に発展した。そしてそのことと引き換えに、公明党は自民党の意に即して動く「責任野党」に立ち位置を変え、翌年1970年の京都知事選では田中幹事長の要求に応えて自公民統一候補を擁立し、蜷川京都府政を打倒することで革新自治体ブームを阻止しようとした。選挙戦は自公民候補の大敗に終わったが、公明党は結成から僅か10年も経たないうちに「平和の党」と「庶民の党」との表看板の下で、早くも「反革新の党」としての実体をあらわしたのである。
だが公明党は一筋縄では行かない政党だった。一方では、依然として「表向き野党=社公民路線=非自民非共産」を掲げて社会党に接近し、自民党とは「是々非々」の態度を保つことで中道路線を装った。その極め付きの到達点が、公明党が要となった締結した「公民合意」(1979年)と「社公合意」(1980年)である。この2つの合意は、70年代の革新自治体の発展を支えてきた社会・共産の革新統一戦線を破棄し、共産を政権協議の対象から排除することを前提としていた。社共を中心とする革新勢力の統一戦線は、「革新3目標」といわれる協定にもとづき、「安保条約に反対し、平和・中立の日本を実現する」、「憲法改悪に反対し、民主主義を守る」、「増税・福祉切捨てに反対し、国民生活を守る」の3目標を掲げていたが、公民・社公合意は共産を排除して「革新3目標」を破棄し、日米安保条約を堅持して自衛隊を容認する姿勢を示すなど、革新政党としての社会党の基本政策を根本から大転換させるものだったのである(当時、社会党は社公合意の締結で「ルビコン川を渡った」と評された)。
これ以降、社共間での話し合いや共闘は行われなくなり、国政においては「共産を除く」国会運営が常態化し、地方では革新自治体が次々と覆され、共産以外の「オール与党」体制が広がった。かくて「社公民路線」はいつの間にか「自社公民路線」となり、「自公民路線」との区別がつかなくなった。こうして公民・社公合意で「責任野党」の役割を果たした公明党は、80年代に入ると「平和の党」の根幹である安保政策についても大きく舵を切った。結党以来「違憲の疑いがある」としてきた自衛隊を合憲と認め、日米安保体制を維持する政策を確認し(1981年)、さらに90年代には自衛隊の海外派遣を認める「国際連合平和維持活動等に関する協力に関する法律」(PKО協力法)の制定に賛成した(1992年)。
90年代末の宮澤内閣不信任可決による総辞職解散後、小沢自民党幹事長の離脱と新政党の結成などによる一連の政変劇が起こり、公明党ははじめて「(非自民)連立与党」の細川内閣の一翼となり、以降「補完与党」としての道を歩むことになった。しかし長年の「責任野党」時代に磨いた得意のマヌーバー戦術によって、公明党は「水を得た魚」のように与党の中を泳ぎまわり、社会党、新政党、公明党、日本新党など非自民8党の寄せ集め集団である細川政権を実質的に仕切ることに成功した。こうして公明党は細川連立内閣ではじめて入閣を果たし(1993年)、羽田連立内閣にも入閣するなど(1994年)、「補完与党」の位置を確かなものにしていった。
そして「自社さ連立政権」の村山内閣の成立(1994年)によって一時下野したものの、1996年総選挙で社会党が壊滅的大敗を喫した以降は、もはや利用価値のなくなった社会党を見捨てて自民党保守政権との本格的な連立を目指すようになった。閣外に去った社会党を尻目に、公明党はそれ以降「自自公連立政権」の小渕内閣(1999年)、「自公保連立政権」の森内閣(2000年)、小泉内閣(2001年)に連続入閣して保守政権の一角を不動のものにし、保守党が解散(2003年)してからというものは、ついに待望の「自公連立政権」に到達したのである。
思えば、20世紀における公明党の最大の「功績」は、保革対決時代の自民党の対抗勢力であった社会党を「社公合意」に巻き込んで壊滅させ、社共共闘を分断して共産党を孤立させた「革新潰し=反革新の党」としての役割であろう。公明党は自民党の「責任野党=トロイの木馬」として、保革対決時代には自民党が到底なし得なかった革新勢力の分断と弱体化を図り、自公連立保守政権の樹立に成功したのである。(つづく)
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