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最初に私のコメント、次に記事本文を記載します。
[コメント]
■日本国憲法の歴史は 解釈改憲の繰り返しの歴史でもある 矛盾のかたまりの解釈改憲反対派は撃沈
>日本国憲法は昭和21年11月の公布以来一度も改正されていない。ただ、それでは実際問題としていろいろ不都合が生じて、柔軟な解釈が幾度も加えられた。
>吉田茂首相は当初、憲法が自衛権を直接には否定していないが、その発動はほぼ不可能かのような答弁を残した。鳩山一郎政権は「憲法は、自衛権を否定していない。…憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない」との見解を示した。60年日米安保論争では、岸信介政権が集団的自衛権の制限的保有論を唱えた。
その通りです。
憲法が発布された当初は、自衛権の発動は不可能と解釈されていました。
それが個別自衛権ならば発動はできると解釈改憲された。
その結果、自衛のための部隊である自衛隊が発足したわけです。
さらに日米安保論争時には、集団的自衛権の制限的保有はできるとさらに解釈は変更された。
このように、日本国憲法の歴史は解釈改憲の歴史とも言えるものです。
解釈改憲がダメだというのなら、自衛隊は即刻廃止・個別的自衛権の発動もなしとしなければ理屈に合いません。
ところが解釈改憲反対派がそのような主張をすることはありません。
(ごく一部のいっちゃっている人たちは別ですが‥。)
何のことはない。
解釈改憲反対派は、これまで繰り返されてきた解釈改憲はOKとしているのです。
にこかかわらず、今回は解釈改憲はダメだと言う。
矛盾もいいところですよね。
重要なのは解釈改憲は一律にダメということではなく、その解釈改憲が憲法の倫理、世界情勢や世界常識等から考えて妥当か否かなのです。
すなわち、何とかの一つ覚えで解釈改憲反対!と喚く人たちは、「解釈改憲反対」を論拠としたスタート時点で既に撃沈しているわけです。
[記事本文]
先日、所用で総理官邸向かいの国会記者会館を訪ねた。夕刻の3時間ほど、外で拡声器がスローガンをがなり立てていた。「解釈改憲反対!!」「憲法9条を守れ!!」
1日に集団的自衛権の限定的行使容認を含む閣議決定が出たことへの抗議デモだ。所用のあと、外に出ると、地下鉄の入り口が分からなくなるほどのデモ参加者はいた。が、60年安保騒動当時にこの界隈(かいわい)を埋め尽くした大群衆の記憶鮮明な私は「たったこれだけ?」とつぶやいた。しかし、人数だけが問題なのではない。
≪いくつもの前例になぜ沈黙≫
問題は解釈改憲反対なるスローガンだ。この言葉は、安倍晋三政権が集団的自衛権の憲法解釈を見直す意欲を示し始めた7年前から頻繁に登場するようになった。以前にはほとんど出番がなかった。
日本国憲法は昭和21年11月の公布以来一度も改正されていない。ただ、それでは実際問題としていろいろ不都合が生じて、柔軟な解釈が幾度も加えられた。だからこの憲法は長命化したともいえる。
安全保障関連でもそうだった。吉田茂首相は当初、憲法が自衛権を直接には否定していないが、その発動はほぼ不可能かのような答弁を残した。鳩山一郎政権は「憲法は、自衛権を否定していない。…憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない」との見解を示した。60年日米安保論争では、岸信介政権が集団的自衛権の制限的保有論を唱えた。
今回閣議決定では、1972年政府「資料」が限定的行使容認の論拠となっている。だが、9年後の81年政府答弁書では、わが国は国際法上は集団的自衛権を保有するが、憲法上その行使は許されない、とされた。右往左往である。
これらはすべて解釈改憲ではないか。が、解釈改憲反対論者たちは安倍政権以前の右の諸説をその都度の解釈改憲だとは見ていないらしい。一部のマスメディア、知識人とデモ参加者たちは、過去のいくつもの解釈改憲になぜ沈黙するのか。身勝手が過ぎる。それほど安倍政権だけが憎いか。
≪国連も憲章の解釈で若返り≫
目を転じて国連憲章を見よう。憲章は74年までに3回改正された。最重要なのは安保理非常任理事国数の増加だ。が、それは国連加盟国数の著増の影響である。憲章の基本的骨格に関わる規定は一貫して不変だ。憲章改正が至難だからである。しかし、国際社会も時代によって変化する。その変化に対応するためには、やがて古希を迎える憲章の解釈を柔軟化するほかない。憲章の若返り策だ。
今回の閣議決定では、国連の集団安全保障分野も大きく扱った。当然である。関連するPKO(平和維持活動)、PKF(平和維持軍)などはいずれも憲章若返り策にほかならない。いってみれば、それは国連的「解釈改憲(章)」である。それなくして今日の国連はない。日本の解釈改憲反対論者はこの現実をどう見るのか。
彼らがやっているのは「井の中の蛙(かわず)」の一点凝視にすぎない。大海を知らない。「解釈改憲」非難しか念頭にない。それは幼児性、駄々っ子性の表れである。幼児はいずれ分別の年齢に達するが、解釈改憲反対派に精神的成長を期待するのは多分、無理だろう。
やらせておくしかあるまい。
われわれに必要なのは、解釈という人間的営為の意味を改めて考えてみることだろう。私見では解釈は人間だけがやる。判断は動植物もやる。解釈と判断は違う。人間の特技たる解釈は広がりも深まりもする。しかも止まることがない。そのことに気付かせてくれるのはなかんずく宗教典の解釈である。私は信仰心の薄い人間だが、教典解釈が不断の営みであることにはしばしば頭(こうべ)を垂れてきた。
≪法制局見解の欠陥是正が先≫
仏教にせよキリスト教にせよイスラム教にせよヒンズー教にせよ、いずれも原教典と目されるものがあった。だが解釈が始まる。その解釈は一色(ひといろ)ではなく、多様化した。結果、分派が生まれた。すると争いが生じる。他宗派との間で。また同一宗教の異宗派間で。その根にあるのは神の解釈、教典の解釈の不一致である。不一致が原因で宗教戦争が幾度も起きた。
解釈とは、ある意味でそれほど厄介な人間的営為だ。そして変化してこその解釈でもある。変化は解釈の生命なのだろう。だから日本国憲法9条の解釈が変遷してきたのは、当たり前のことだ。それを咎(とが)めるのは間違いである。
巷間(こうかん)、集団的自衛権行使容認は正々堂々と改憲をもってなされるべきだとの声がある。一見、もっとも臭い。が、この手順論はよく考えるとおかしい。なぜか。集団的自衛権は「憲法上行使不可」とした従来の内閣法制局見解が欠陥品だからである。欠陥は変更ではなく、是正こそが必要なのだ。
是正をしないまま改憲で集団的自衛権の行使は可とすれば、論理的には、現行憲法下での内閣法制局見解は間違っていなかったことになる。これはおかしい。その旨を私は本欄でも著書でも繰り返し述べてきた。この考えはいまなお不変である。(させ まさもり)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140710/plc14071003080003-n1.htm
- コメントに回答しましょう。 コメントが増えたので第二弾です。 真相の道 2014/7/11 10:36:00
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- コメントに 回答しましょう。 やはり「解釈改憲だからダメ!」という主張は 論理破綻。 真相の道 2014/7/10 18:36:26
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