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「日本の官僚制度はなぜ残ったのか」(EJ第3827号)
http://electronic-journal.seesaa.net/article/401114241.html
2014年07月07日 Electronic Journal
戦前の日本社会における主要な構成要素を上げると、次の3つ
になります。
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1.軍 部
2.財 閥
3.官僚制
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このうち「軍部」の解体はもちろんのこと、財閥も解体された
のですが、官僚制──とくに経済官僚については、ほとんど手つ
かずに残ったのです。これは、戦後改革における大きな謎といわ
れています。
しかし、当時「官庁中の官庁」といわれ、地方行政・警察・土
木・衛生などの国内行政を担っていた内務省は、強引ともいえる
解体が行われ、1947年12月31日に消滅したのです。
日本の官僚組織は、終戦が決まるや、自らの生き残り策を練り
占領軍に対して巧妙に立ちまわったのです。その典型は軍需省で
す。終戦当時の軍需省次官は椎名悦三郎ですが、その前任者は岸
信介です。
椎名は、終戦の10日後に、一晩のうちに軍需省を解体し、商
工省を復活させているのです。おそらく、岸信介のアドバイスが
あったものと思われます。軍需省の文官たちは、占領軍による免
職や逮捕を免れるため、あらかじめ、商工省出身者と軍人を区別
して準備していたのです。その結果、商工省はほとんど無傷で存
続できています。
それでは、内務省はどうして徹底的に解体されてしまったので
しょうか。
これについて、野口悠紀雄氏の本に、当時の内務省文書課長で
あった萩田保氏の証言が掲載されています。
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われわれ自身、八つ裂きにされようとは夢にも思っていなかっ
た。これほどまでに解体された理由は二つある。ひとつは、内
務官僚の中に英語の達者な人間がいなかったこと。内政ばかり
考えていたから、英語など必要ないという風潮が内務省の中に
あって、これが大蔵省のようにうまく立ち回れなかった最大の
理由だ。第二は、内部の不統一だ。建設省の前身の土木局の連
中は、とにかく内務省から独立して省になることを願っていた
し、警察庁の前身の警保局は、自分のところの「特高」がどう
なるかと足下ばかり見ていた。これではズタズタにされてもあ
たり前だった。 ──野口悠紀雄著
「『新版』1940年体制/さらば戦時体制」東洋経済新報社
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戦前の日本の官僚制がほとんど無傷で残ったのには、次の理由
があります。
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1.占領軍が間接統治方式をとったこと
2.占領軍の改革プランが不十分なこと
3.日本についての研究が不十分なこと
4.日本の官僚側の準備がよかったこと
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第1の理由は「占領軍が間接統治方式をとったこと」です。
日本にとって何よりも幸運だったことは、進駐した占領軍が日
本政府を介して間接統治方式をとったことです。ドイツの場合は
ナチスに憎悪を抱くユダヤ人のグループの影響力によって中央政
府の解体が行われ、国土の分割占領が行われています。しかし、
日本を戦略上の重要な拠点と考えていた米国は、あまり過激な統
治をするつもりは最初からなかったのです。
第2の理由は「占領軍の改革プランが不十分なこと」です。
日本占領の目的は、武装を解除し、日本が再び米国を脅かす存
在にならないようにすることにあり、旧体制の破壊も、資本主義
体制そのものの変革を目的としていなかったのです。したがって
日本の経済システムはそのまま残されたのです。
第3の理由は「日本についての研究が不十分なこと」です。
第2次世界大戦が突然終わったので、米国は日本についての研
究が不十分なまま占領することになり、日本改革の具体的なプラ
ンを作る時間的余裕がなかったし、そのための人員も大幅に不足
していたのです。とくに日本の官僚制度に関しては、十分な知識
がなく、官僚制の処遇や処置については皆目見当がつかない状態
だったのです。
第4の理由は「日本の官僚側の準備がよかったこと」です。
こういう占領軍側に対して、日本の官僚側の対応は非常に迅速
で、的確なものであったのです。焦点になったのは「国家公務員
法」の改革です。日本側は改革案をGHQに提出したのですが、
ブレイン・フーバーを団長とする顧問団は、職階制の確立と人事
院の新設、公務員の労働権の制限などを取りまとめ、時の片山内
閣に、無修正で数週間以内に立法化せよと命令して、フーバーは
米国に一時帰国したのです。1947年6月のことです。
ここからが日本の官僚のうでの見せ所です。このフーバー勧告
を換骨奪胎し、日本化してしまったのです。こういう作業は日本
の官僚の得意とするところです。この報告は、同年7月31日に
GHQに提出され、了承されています。このフーバーのいない間
の作業は、「鬼の居ぬ間の洗濯」といわれています。
こういう経緯で、「国家公務員法」が1947年10月に成立
しているのです。かくして、日本の官僚制の存続は決まり、官僚
は「天皇の官僚」から「国民の公僕」へと姿を変えたものの、実
質的にほとんど戦前のまま生き残ったのです。そして、現在に至
るまで日本では官僚主導による政治統治が行われているのです。
ちなみにフーバーはこの経緯に納得せず、マッカーサー書簡と
いうかたちで巻き返し、主として労働権の制限などを含む改正案
が1948年11月に可決されています。これは「回れ右」改正
といわれています。 ──[新自由主義の正体/41]
≪画像および関連情報≫
●国家公務員法附則第9条の試験と人事院の改廃/坂本勝氏
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戦後、日本の官僚制はさまざまな改革を迫られ、その改革の
評価は、戦前と戦後の制度が「連続する」か「連続しない」
かという基準などで論議されてきた。官吏制度から公務員制
度への転換過程で注目すべきは、現行公務員制度に戦前の官
吏制度との「連続性」が認められるという点である。国家公
務員の「幹部職」への任用状況を見ると、依然として東大出
身者・法律職・事務系の優位といったバイアスが戦前の高文
試験の場合と同様に認められ、また、戦前からの早期退職の
慣行に基づく上級公務員の天下り人事も、官の優位現象を示
すものとして存続している。しかも、この官優位の象徴とし
て戦後廃止された叙位叙勲制度も昭和38年の池田内閣の下
で復活し、内閣府賞勲局(戦前は内務省賞勲局)を中心にし
た官の基準による叙勲者の内示システムが現在まで存続して
いる。こうした戦前と戦後の官僚人事システムの「連続性」
は、現行公務員制度の「幹部職」人事が固定化し、入口選別
以外の者を排除する閉鎖的な人事システムが存続しているこ
とを示唆している。その意味で、戦後改革の過程で、人事院
が高級官僚の適格審査を兼ねて一般国民をも対象に実施した
課長級以上の公開競争試験(「S−1」試験)は、官職の特
権性を除去し、官職を広く国民に開放するための初めての試
みとして評価できる。 http://bit.ly/1qx8493
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