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2014年6月29日
東京都議会で塩村文夏(あやか)議員が女性蔑視のセクハラ・ヤジを浴びせられた問題が二重の意味で批判を巻き起こしている。毎日新聞には、「都議会:ヤジは鈴木章浩・自民都議 認めて会派を離脱へ」という記事が載っている。
http://mainichi.jp/select/news/20140623k0000e040241000c.html
この件については、自民党の石場茂幹事長や野田聖子総務会長が、野次主体が仮に自民党員であれば問題だと批判的に言及しているが、複数のセクハラ野次発言者を明らかにするべきでは?
この件が二重の意味で批判の的になっているという意味は、一つは議会という公共言論の府でセクハラ・野次発言が出ていること自体への批判。もう一つは、複数の野次確信犯がいることが分かっているのに、鈴木章浩・自民都議一人を人身御供にして、この一件をうやむやにしていいのかという話である。
鈴木章浩議員一人が人身御供になったと書いたが、彼自身はもう都の民意を代表する政治家としては無理というか、議員や人間として重すぎる負のクレジットを背負ってしまった。
なぜなら、民意を負託された政治家は男性と女性の意志を政治的に肩代わりしているわけで、その中で女性蔑視発言をやるということは、女性側の信任を自らつぶしてしまったことに等しいからだ。
女性蔑視の本音を言語化するということは、女性という人類の半数を占めている人間存在を敵に回したことになり、それを自ら引き受けて行くということでもある。素直に思うがよくそんなことができるもんだなぁというか、その想像力の欠如には呆れかえってしまう。差別意識の露呈もさることながら、頭が悪すぎて議員には向かないことを自ら白状したようなものである。
議会という公共空間で堂々とセクハラ発言をするということが、どれほど重い意味をもつのか分かっていない人が多い。この件にかんして、前大田区議会議員の奈須りえさんの記事を読んでみたが、女性の民間識者であり、10年の議員歴を持つ奈須りえさんの意見は重く、的を射ていると思った。
http://ameblo.jp/nasurie/entry-11884387394.html
奈須りえさんは大田区議会にいた者として、この問題は単なるヤジに止まらず、議会が支配する特殊な空気感にあると指摘された。その上で、その背景には次の4つの要因があると述べ、それぞれに鋭い見解を披歴されている。
@女性蔑視
A人権侵害
B大会派主義、或いは、与党体質など、
C議会軽視
神州の泉は議会における臨場的な空気を知らないから、経験からこれを理解することはできないのだが、日本人の有識者で「国家戦略特区」の危険に対し、ただ一人突破的に言及した奈須りえさんであるから、上記4つは重く受け止めざるを得ない。
これら4つの中で、日本社会において最も根深いものは@の女性蔑視だろう。日本が明治維新以来、近代化に向かったとは言え、女性の社会進出や政界進出はつい最近のことである。やはり伝統的な男尊女卑感覚による女性差別は、社会に深く根を下ろしたまま今日にいたっていることは大きい。
ここ数十年で大分改善された部分はあるのだが、現実には男性と女性を同じ人間存在、人格的な存在として位置付ける共通社会認識はいまだに形成されていない。性差別というのは、男女の性差的な特徴を価値判断の優位度に置き換えて序列を設けることである。
一般に伝統的な価値観を喪失していることは、現今日本人の大きな問題だが、男尊女卑感覚から来る男社会優位の風潮は悪い伝統である。神州の泉は若いころは、多少そういう感覚もあったが、後年、病気入院をしたりして看護婦さんたちの献身的な看護に助けられたことを思うと、女性の繊細な気配りや女性特有の能力を大いに見直した経験がある。
特に小さなお子さんを育てている女性は、本能的に危険や他者の状態変化を察知する力が異常に強くなる。これが生物学的な種の保存本能から来ているかどうかは分らないが、男性にはない能力や感覚である。
最近よく思うのである。女性特有のこの能力を政治に生かさない手はないと。
グローバリゼ―ションの津波が世界に押しよせている結果、何が起きているのかと言えば、新自由主義が政治に波及した結果、一部の富裕者や大企業、外国資本、それらに連なるステークホルダーたちだけに富や便益性が傾斜し、国民生活はボロボロに困窮するトレンドが根付いてしまっている。
つまり、大企業やグローバル企業だけがわが世の春を謳歌し、その影では搾取された一般国民が毎日泣いているのである。こういう政治トレンドに対して女性は本能的に生存や生活の危機を強く感じている。
これは、まさに女性であることによる本能的な察知能力から来ているように思える。つまり、生活破壊が生物学的な生存状態を大きく損なうということに対して、女性が男性よりも強い感度(センシティビティ)を有していることになる。
新自由主義という、資本強者のロジックを取り込んで日本人の生活を破壊しまくった元凶が、男性議員たちの鈍感さや唯我独尊主義にあり、彼らが強いものに靡いてしまった結果だと言っても決して過言ではない。
頭のいい議員さんや有識者がたくさんいるわけで、その中には当然ながら“国家戦略特区”の危険を百も承知している者たちが大勢いる。ところが多くの政治家や知識人は、これへの言及を故意に避けているどころか、同調してしまっている。
目先の自己保存に走って、人としての責任や感情を押し殺しているのだ。この態度が結局は自分の家族や大事な人々を阿鼻叫喚の地獄に追いやってしまうのだ。そういう想像力を自ら放棄しているのである。怯懦(きょうだ)は人間や社会を不幸のどん底に叩き落とす。
この怯懦の同調圧力下にあって、前大田区議会議員の奈須りえさんが孤軍奮闘状態で国家戦略特区という悪魔の政策に斬りこんでいる。奈須さんが女性だったから不退転の覚悟を持ったという言い方はできないのだが、一般に女性は危ないことを防ぐことに対しては妥協しない面がある。
これが分かっている以上、少なくとも政治の意思決定の場には女性議員を半数以上は加えるべきであるというのが、神州の泉の素直な思いである。これはフェミニズムとか男女同権の文脈とは関係なく、存在論的な政治の在り方としてそういう風に思うのである。
これは原子力発電所で起きた、冷却材喪失による放射能事故についても言えることであり、お母さんたちを含む多くの日本女性は、この事故に対して激しい反応を示している。
今の日本人は、原発でも環境問題でも経済問題でも、生物学的な危機に瀕しているわけであるから、これに対する女性の危機感を政治にフィードバックして、方向性を修正して行くことが喫緊ではないだろうか。
経済に限定していえば、新自由主義に転換されてしまった日本は、新たな形の修正資本主義に“修正”しなければどうにもならない。この動きを軌道に乗せるために女性議員は不可欠になる。ときどき何をやっても手遅れだという気分にとらわれてしまうが、心の片隅にはそういう想いもよぎる。
この観点からも、議会における女性蔑視発言は許しがたい思いがある。女性議員に対するセクハラ発言をやった議員に対しては、有無を言わせず議員資格を剥奪したほうがいい。それが議会運営者の責務だろう。この件は徹底的に追求したほうがいいのでは?
今、ラジオでお笑いのケーシー高峰さんが「子供を生め」「金目(かねめ)」を茶化していたが、これらの発言元は男性議員である。
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