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高見順は、いまでは言及されることも少なくなった小説家だが、彼の戦後の代表作の一つに、「いやな感じ」という長編小説がある。
主人公「俺」は、時代の閉塞(へいそく)感にいらだつ反インテリの労働者。軍部の独善性には反感を抱いている。しかし、それまで反政府思想の中心だったマルクス主義に対しては、帝大生らインテリが担い手だったこともあり、生理的な拒否感を抱く。そこで、無政府主義の信奉者としてテロリズムに身を投じ、自らの生を燃焼させようとする。
しかし満州事変がすべてを一変させた。事変を「危機」と捉える言説が「俺」と日本社会を急速にむしばみ始める。ここがポイントである。
「危機」や「有事」は一時的な例外状態であり、そこを乗り切れば旧に復することが、本来約束されていた。「国防」目的を遂行するために、足かせとなる立憲主義を停止して、分立していた権力を一本化し国民の権利を制限したとしても、それは時限つきのことだった。ところが、長期化必至の、広大な中国との戦争に踏み込んだ結果、対外危機が常態化する、という矛盾した事態になった。
この「常態的対外危機」が、権利保障と権力統制を構成要素とする立憲主義を、日本社会から永続的に奪うことになった。「国防」目的に向けて国家総動員の体制となり、すべての個人の生が国家に吸い上げられ、権力は暴走に歯止めがきかなくなる。そうしたなか、国家権威を打倒するはずだった「俺」は、気がつけば大陸戦線にあって、哀れな中国民衆の首を切り落とし、その官能の頂点において発狂しておわった。
そこに至る節目節目で、「俺」が生理的に示した反応が、「いやな感じ」である。作家の生活実感において、敗戦は、この「いやな感じ」からの解放であった。さらに、「いやな感じ」を封じ込めるのに成功したのが、日本国憲法の最大の貢献であったということも、そこで示唆されているだろう。それが、敗戦によってはじめて成立し得たという事実への、屈折した感覚とともに。
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その「憲法」が、再び「危機」を口実に、「国民」の手から最も遠いところで変えられようとしている。
昨年の今頃は、「憲法改正手続きの改正」論議が花盛りであった。安倍晋三首相は、憲法96条が定める国会の発議要件を緩和するための大義名分として、「民意」に問うこと――憲法改正レファレンダム(国民投票)――の重要性を繰り返し強調した。9条改正が隠された動機であったにせよ、「憲法を国民の手に取り戻す」とぶちあげた首相に喝采を送った国民も少なくはなかった。
けれども、世論調査で96条改正に反対の「民意」が優勢であることがわかると、政府は、反転して、「国民」に背を向けた。考え方の近い識者だけを集めた安保法制懇に出させた報告書をもとに、政府の憲法解釈を変更するだけで集団的自衛権の行使容認は可能だ、といい出したのである。これは、前言を翻して、憲法を国民の手から取り上げた、というにひとしい。「国民」は、結局、だしに使われただけだった。
しかも、集団的自衛権論議では、安全保障の専門家たる防衛官僚OBがしばしば否定的な意見を述べるのに対し、推進派の多くはアマチュアという構図がみられる。殊に推進派の言説に目立つのは、戦後憲法体制に対する怨念に近い敵対感情や、湾岸戦争で多額の戦費を支出しながら評価されなかった外務省人脈のトラウマであるが、これらは現下の「危機」とも安全保障とも直接関係のない「他事考慮」ばかりである。これが一般の行政作用であれば、他事考慮による権限行使は、権限の濫用(らんよう)であり、違法と評価されるところだ。
この構図には既視感がある。イラク戦争当時、軍人のパウエル国務長官が最後まで抑制的だったのに対し、父親のやり残したフセイン政権打倒に拘泥するブッシュ大統領、「ネオコン」で凝り固まったラムズフェルド国防長官らシビリアンたちが、何かにとりつかれたかのように好戦的だった。彼らは、「危機」認識について自分たちの認識枠組み以外の可能性を否定し、他者の意見に聞く耳を一切もたなかった。
証拠がまだ出ていない、なぜそんなに急ぐのか、と最後まで反対する同盟国のフランスとドイツを、「オールド・ヨーロッパ」と軽侮して排除した。証拠のない「大量破壊兵器の保持」を理由に、対テロ戦争とは関係のない他事考慮によって、しゃにむに開戦に突き進んだ。これとよく似た現在の日本政治の姿。それがかもし出す、なんとも「いやな感じ」。これを的確につかまえる言葉を探すことが急務であろう。
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この「いやな感じ」の源泉は複合的であるが、そこに〈個の否定〉と〈他者の不在〉が含まれているのは、間違いない。
たとえば閣議決定目前と伝えられる自衛権発動の新3要件によれば、集団的自衛権を行使すれば、憲法13条後段の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を、従前よりも確実に守れるというのが、国民に対する「売り」になっている。しかし、それが〈個の否定〉とセットになっているため、実際には、おじいちゃん、おばあちゃんら、国民一人一人の「生命、自由及び幸福追求」を守る議論にはなり得ていない。
その証左が、憲法13条前段における〈個〉を抹殺することに、執拗(しつよう)にこだわる自民党の改憲草案である(現「すべて国民は、個人として尊重される」→新「全て国民は、人として尊重される」)。同条後段の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は、これまで個人の自己決定権やプライバシー権を保障するために用いられてきた。それが、いまや〈個〉を否定された上で、密接な国を含む〈全体〉のために援用されようとしているところに、「いやな感じ」がある。
けれども、憲法13条の初志は、もう二度と、〈個〉の生を〈全体〉に吸い上げるような国家にはしない、というところにあったはずである。たとえば朝鮮半島有事の際には韓国のために、われわれ個々人の生が消費されてゆく。そういう文脈で13条が援用されるのは、本末転倒ではなかろうか。この点、高村正彦自民党副総裁のひそみに倣って、「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い」という一節が、最高裁判決にあることを指摘しておこう(昭和23年3月12日大法廷判決)。
この〈個の否定〉は、同時に、〈他者の不在〉ともセットになっている。元来、基本的人権の保障とは、個々人に一人一人違う生き方を保障するために、権力を〈他者〉と捉えた上で、その介入を排除するものである。裏からいえば、〈個〉としての国民が、この政治社会において内なる〈他者〉として生きることを許容するために、国家の側が自分自身をしばることによって成立している。これが立憲主義の標準装備であることの意味を、自民党改憲草案は軽んじているのである。
あるサークルで支配的な価値観は、それと異なる価値観をもつ人には、そもそも共有されることがない。そうした場合に、自我を拡張したり他者を排除したりして、混じり気のない政治社会をつくれば、たしかに、ある範囲の人々には住みやすい社会になるだろう。しかし、それでは、価値観を異にする者どうしでの、内戦になる。そうならないよう、〈他者〉を許容し共存するための基本枠組みを、西欧の政治社会はつくってきた。そうした枠組みをもつ政治社会の特性が、いわゆる立憲主義である。前述の基本的人権の保障に加えて、権力分立制はそのための工夫の代表例である。
たとえば政治社会が中央集権化して「主権国家」というかたちをとる場合には、統治権力が暴走しないよう、政府に対抗できるもうひとつの権力を用意する、という方向で権力分立制が活用される。この文脈で「政府に対するコントロール」が強調される。ここにコントロールとは、コントラ・ロールすなわち〈対抗・役割〉が原義であって、議会なり裁判所なりに、政府に対抗する役割を与えるのが主眼である。つまりこの場合にも、統治権力に内なる〈他者〉を用意することの重要性が強く意識されているわけである。
これに対して、現代の民主国家においては、内なる〈他者〉を否定する方が民主的だ、とする議論もある。「民意」は本来ひとつであるから、「民意」によって選ばれた単一の存在が、少なくとも次の選挙までの間、一元的・集権的な権力をふるうのが筋というものであり、それを阻むコントラ・ロールの存在はむしろ反民主的である、という考え方である。しかし、「国民」の支持を盾にとって〈個の否定〉と〈他者の不在〉を地で行った、ヒトラー、ムソリーニ、スターリンら独裁者の実例に接するに至り、内なる〈他者〉をおく権力分立制の良さが、見直されるようになった。日本国憲法の採用する立憲デモクラシーは、この立場にたつ。この経緯は現在でも重要である。
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安倍政権が改正を企てる憲法9条においては、さらに、外なる〈他者〉からの視線も意識されている。そこで想定される国際秩序は、〈他者〉としての隣国を公式の敵として排除する秩序ではなく、価値観を異にする〈他者〉とも共存をはかる立憲的国際秩序にほかならない(それゆえ国連憲章の旧敵国条項は問題だった)。
これに対し、集団的自衛権は、直接には、サンフランシスコ会議の直前に成立していたアメリカ大陸規模の「同盟」を正当化するため、アメリカが国際連合憲章51条にねじこんできた異物である。系譜的には、公式に敵と味方をつくり攻守同盟を組んでいた、第1次大戦前の国際社会の発想の流れをくんでいる。
この点、個別的自衛権と呼ばれる本来の自衛権は、突然に襲ってきた侵入者(これは「敵」「味方」を区別する問題ではない)に対する正当防衛のためのもので、9条が想定する国際秩序においても許容される可能性があり、政府による解釈の余地を残していた。しかし、集団的自衛権への正式なコミットメントは、年来の「敵」として公式に認定された〈他者〉との戦争を想定しており、旧(ふる)い「同盟」の思想への先祖返りにほかならない。それが理屈にならない理屈で無理押しされようとしている。実に「いやな感じ」がする。
価値観を異にする〈他者〉と共存する道を選ぶか否か。そうした文明論的な選択を含む以上、それは性質上、専門知で正解を出せる問題ではない。したがって、有識者懇談会の答申や与党政治家たちの合意で決めてよい問題ではない。ふさわしい手続きは、やはりレファレンダムであろう。少なくとも、一内閣による閣議決定でないことは自明である。
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いしかわけんじ 62年生まれ。東大教授。4月発足の「立憲デモクラシーの会」呼びかけ人。著書に「自由と特権の距離 カール・シュミット『制度体保障』論・再考」など。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11213574.html
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