http://www.asyura2.com/14/senkyo167/msg/264.html
Tweet |
たなか・かくえい/1918年、新潟県生まれ。第64、65代総理大臣。最終学歴は高等小学校卒業ながら首相にまで登りつめた姿は「今太閤」とも呼ばれた。ロッキード事件で逮捕された後も、政界に大きな影響を及ぼし続ける。'85年に脳梗塞で倒れ、一線を退く。'93年没〔PHOTO〕gettyimages
日本が元気だった時代の象徴田中角栄を語ろう 「金権政治の権化」と呼ばれ、逮捕もされたそれでもオヤジのあの笑顔が忘れられない
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39170
2014年06月21日(土) 週刊現代 :現代ビジネス
もうこんな人は二度と出てこないかもしれない。人懐こい笑顔と清濁併せ呑む器の大きさに、誰もが魅了された。昭和を駆け抜けた大政治家の姿が、いま蘇る。
■目白にあった「秘境」
朝賀 私は'61年から24年間、秘書としてオヤジの側にいたけれど、いまだに「金権政治の権化」とされるなど、バイアスがかかった偶像が世間に伝えられていることがあまりにも多いと感じます。
山本 僕が角さんの密着取材を始めた'83年当時、田中角栄の写真といえば、ロッキード裁判で裁判所から出てきて、「ヨッ」と手を挙げるものばかりでした。それ以外は、「闇将軍」とか「角影内閣」とか、おどろおどろしい言葉を補う説明的な写真しかない。これでは一面的すぎると思い、僕は「猟師」になって、田中角栄という「獲物」を追おうと決意したんです。
後藤 私が担当記者になったのは、山本さんが密着し始めた後ですね。'84年からで、ロッキード裁判の一審判決直後でした。
山本 番記者は自宅の中にも入れるけど、僕らみたいなフリーランスのカメラマンは、普通にやっても角さんに食い込めない。
それまで僕はシベリアやアマゾンなどの秘境を撮ってきたけれど、目白に行くと、屋敷の周囲に3m近い高さの脚立が並び、カメラマンたちがシャッターチャンスを狙っている。まさに目白も「秘境」でしたよ(笑)。
そこで秘書の早坂茂三さんを4ヵ月間口説いて、特別に撮影を許してもらい、3年間密着しました。田中角栄という人間の面白さに魅了されましたね。
朝賀 オヤジのことを「稚気愛すべき人間」だと評した女性詩人がいたけど、もうその答えに尽きます。子ども以上に子ども。「人間大好き」人間ですね。
山本 目白の御殿で行われた'83年の新年会に特別に入れてもらって驚いたのは、角さんは1日で2日分の生活をしていること。
後藤 そうそう。日々の行動からしてそうでした。
山本 朝9時から宴会が始まり、後援会の人たちを相手に徹底して飲んで、午前11時には母屋に帰って寝る。2時間後には起きてきて、入れ替わりで入ってきた別の後援会の人たちと午後4時まで飲む。
後藤 毎朝、新潟から陳情客を大勢乗せた大型バスが来るけれど、大型バスが入る家など、普通はないですよ(笑)。御殿というより城。庭には公衆トイレがあり、毎朝、目白講堂と呼ばれた広間で、後援者や陳情客を前に1時間の長広舌をふるう。
実は私と角さんの間には因縁があり、特別に「お前に特急券をやる」と取材を許可されたんです。というのも、角さんは1943年に今のJR飯田橋駅近くに「田中土建工業」をつくります。その隣が私の実家だったんですよ。角さんは、「ここで永田町の話はするな。飯田町(現・飯田橋)の話をしに来い。毎朝、後援会の演説をやるから、それを見て、俺という人間を判断しろ」と。
■キミ、メシは食ったのか
朝賀 私はオヤジの演説を二十数年聴き続けたけれど、オヤジの演説は面白かったし、心にずしんとくる。たとえば、'62年に初めて大蔵大臣に就任したとき、官僚たちを前にした演説が心に残っています。
「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ。かくいう小生は素人だが、トゲのある門松は、諸君よりはいささか多くくぐってきている。これから一緒に国家のために仕事をしていくことになるが、お互いが信頼し合うことが大切である。思い切り仕事をしてくれ。しかし責任の全てはワシが背負う。以上」
これを聞いて鳥肌が立ちましてね。庶民の感覚とかけ離れたトンチンカンな演説をする政治家とはまったく違いました。
後藤 今の政治家のパーティは資金集めの色合いが濃く、演説が面白くない。でも、角さんをゲストに招いたパーティは、木戸銭を払った価値があると思えるほど、面白い。人への愛情が絶えずあり、庶民に根ざした政治をやろうとする。だから、みんなが慕って集まったんだと思います。
朝賀 よく言ったのは、「結婚式は招待状がなければ行けないが、弔いに招待状はいらない」。人が失意のどん底に沈んでいるときこそ、励ましてやれ、と言うんです。
山本 「敵はつくるな。人間は皆兄弟みたいなもんだ」と言う人ですからね。
朝賀 雪の話もよくしました。'63年(昭和38年)、200名以上が亡くなった「サンパチ豪雪」のとき、大蔵大臣だったオヤジが初めて豪雪に災害救助法を適用させた。それまで役所は、「雪は春にとける」という理屈で、災害と認めなかったんです。
後藤 角さんは日本を土建国家にしたと批判されますが、生活に根ざした発想は絶えずありました。当時は高度経済成長期で国家に潤沢な予算があったから田中政治は可能だったと言われますが、それは違います。役人の発想にはない税源を見つけてきて、それをどう使うかを考えていた。
山本 総理になった後も原点としてあった視点は、「ちゃんとメシが食えているか」だったと思います。密着取材を始めた頃、僕は「路傍の石」扱いで、まったく相手にされなかった。ところが、角さんが地元に帰る列車の中でトイレに行こうとして、たまたま僕の横を通った。そのとき、「おいキミ、メシは食ったのか」と聞くんです。聴衆や政治家に対しても、メシが食えているかと、生活のことを真っ先に気にかける。
朝賀 選挙でオヤジが田中派の応援に行くと、「闇将軍」を撮ろうとカメラマンが殺到するんですが、オヤジはカメラマンを遮るSPたちに、「彼らも商売だから」と言う。そしてカメラマンには「おい、その代わり、いい男に撮れよ」と言っていましたね。
山本 ただ、いつもそうだったわけではないと思います。新潟の西山町の実家で、浴衣姿の角さんが地元の人たちと大笑いしていたときです。僕が撮ろうとすると、ピシャッと「撮るんじゃないよ」と言う。支援者が持っていた小さなカメラで記念写真だけを撮れ、と。
つまり、写真が嫌いなのではなく、撮る側の心を読んでいる。ギラギラした野心でカメラを向けると、そっぽを向く。撮り手への洞察は怖かった。
後藤 私が角栄番になった頃、角さんは若い記者全員を赤坂の料亭に呼んだんです。いつも玄関の外で立って待っているだけのわれわれを料亭の中に入れて、「いいか、日本の政治はこういうところで動いているんだ」と言う。私たちはそこで初めて料亭の間取りや造りを知りました。まずは実地で学べ、というわけです。
そして角さんは「二度目にここに来られるかどうかは、キミたちの才覚次第だ」とも言う。記者たちは角さんに親近感を持つが、そこから先は城壁のように高い壁があり、なかなか情報は取れませんでしたね。
■封印されたスクープ写真
朝賀 相手の心を読むだけではなく、勘や先見の明も特筆すべきものがありました。30年前の演説で、「小選挙区制度が一番いいんだよ。自民党の党是である憲法改正ができるかもしれない。しかし、小選挙区制にしたら、自民党も政権を失うよ」と言って、後にそのとおりになった。オヤジは党内や世論を見て、「小選挙区は利あらず」と判断して、旗を降ろした。もともと改憲と平和主義は別物という考え方でしたから。
後藤 私も心を見抜かれたことがあります。首相候補を田中派から出せないことに焦りを感じていた竹下登さんと金丸信さんが、創政会を旗揚げした直後のことです。事実上、田中派が分裂し、角さんは大荒れに荒れて、朝からオールドパーをあおっていた。私は角さんの機嫌を損ねないように取材をし、握手をしたとき、「キミたちは顔では笑っているけれど、心は竹下だ」と、見抜かれた。
朝賀 たしかに当時、オヤジは心のどこかで、竹下さんが動くのではないかと察していたと思う。ただ、何よりもショックだったのは、子供のように思っていたはずの小沢一郎さん、羽田孜さん、梶山静六さんの3人が竹下さんについていったことだったろう。
山本 僕が角さんの天下獲りへの執念を垣間見たのは、軽井沢の別荘でした。僕は未発表の写真で写真集をつくりたいと思い、角さんの軽井沢の別荘生活を撮りたい、と直訴したことがあります。すると、「せっかくの休みなのに、キミは俺を殺す気か」と断られました。
でも、僕は勝手に軽井沢に行き、別荘のまわりをうろうろしているところを見つかったんです。すると、「キミはどこに泊まっているんだ。ホテルは高いだろうから、うちに来い」と言う。しかし、「仕事はまかりならん」と角さんの撮影は許可されない。僕は悔しかったので、本人のいないときに目に付くものを片っ端から撮っていたら……。
朝賀 それが枕元の写真ですか?
山本 ええ、枕元には必ず国会便覧と10本ほどの赤鉛筆が置いてあり、朝見ると、赤鉛筆がすべて丸くなっている。その写真で、政治家・田中角栄の凄みを表現したんです。
朝賀 オヤジは全国130の選挙区の情報を国会便覧に書き込み、すべて頭に入れていました。
後藤 だから、選挙では誰も角さんに勝てない。
朝賀 敵をつくらない主義で、対立する派閥の議員でも支援をした。だから、「隠れ田中派」という言葉があったくらいです。
山本 カメラのファインダーから覗いていると、面白いことに気づきました。僕は佐藤栄作首相から歴代首相を撮り続けていて、権力を握った人間は例外なく顔が悪相になる。決断を迫られ、重圧に晒され続けると、顔つきがどんどん悪くなるんです。
田中角栄という人は、総理大臣在任中だけでなく、僕が密着している3年間だけでも3回も変わった。だから僕の写真集には、3通りの顔をした角さんがいる。その意味でもいまだ角さんに勝る被写体は出てきていませんね。そもそも竹下さん以降の総理は、あまり顔つきは変わっていません。
後藤 実際、田中角栄を超えるリーダーは出てきていませんからね。
朝賀 そういえば、山本さんはマスコミに売らなかったオヤジの写真を持っていると聞いたけど。
山本 え? なぜその話を知っているんですか?
朝賀 人づてに、セスナ機から撮ったスクープ写真があるけれど、売らなかったと聞きました。
山本 '85年に角さんが脳梗塞で倒れると、多くのカメラマンが、目白で車椅子姿の角さんを撮ろうと、門の前で待ちかまえたり、ビルの屋上から望遠レンズで狙ったりしていました。
その頃、たまたま国会議事堂をセスナ機から空撮する仕事があって、急に思いついて「目白の角さんを空から表敬訪問しよう」となったんです。驚いたことに上空から見下ろすと、庭に車椅子の角さんがいる。僕はセスナの高度を下げてもらってシャッターを切った。角さんは泰然としていましたが、秘書が車椅子を押しながら庭を逃げまどう。
後藤 そんなことがあったんですね。
山本 その晩、現像された36枚の紙焼きを見ていると、僕は逃げる角さんを見たくないと思えてきました。密着した写真集まで出した僕が、「撮った、撮った!」と有頂天になるのは申し訳ない。僕が次に撮るべきなのは、リハビリに取り組む角さんの姿と決めていましたから、車椅子で逃げる姿を発表するのは違うと思った。僕が写真を撮ったと聞きつけた週刊誌が300万円のギャラを提示してきましたが、現像した写真は金庫にしまいました。
朝賀 プロの矜持だね。近頃、僕が意外だと思ったのは、青嵐会で田中批判の急先鋒で、口を開けばオヤジの悪口を言っている石原慎太郎さんですね。
昨年9月、あるテレビ番組で石原さんが、「東日本大震災の被災者のために、つくば新線沿いの関東平野に大規模な居住区域をつくるべき。田中角栄だったら、やってるよ」と言ったんです。心のどこかで、オヤジのことは認めているんだなと驚きました。
山本 被災地を取材すると、「今、こういうときに田中角栄がいたら」という声をよく聞きます。
後藤 竹下さんがこう言っていました。「囲碁将棋に天才がいるとしたら、政治の天才は田中角栄だ」。大きなスケールで発想すると同時に、岩に爪を立てて這い上がる。田中角栄を超えるリーダーが出てくる土壌を、早く日本は模索しないといけませんね。
■田中角栄 この言葉にシビれた
朝賀昭
「雪国と都会では橋やトンネルを作る意味が違う」
孤立した集落では、大雪が降ると病人は直ちに死ぬか生きるかの問題に直面します。メディアは費用対効果の観点から、数十人しかいない集落に何十億も使って橋やトンネルを作る必要があるのかと批判する。けれども、雪はどんな人にも平等に降る。おカネ持ちは雪おろしの人を雇えばいいけど、多くの貧しい人はそれができない。急病で誰かの助けを必要とするときのためにも、橋やトンネルが必要なんだという、オヤジらしい一言だと思います。
後藤謙次
「マムシは懐に入れてもマムシだ」
これは記者である私たちに向けての言葉でした。情けをかけて懐に入れて可愛がっても、あくまで「マムシ」である記者は、最後には必ず自分に毒をもって食いつく、ということを言いたかったのでしょう。それでも面白いことに、角さんはこう続けるんです。「キミたちはいつも俺のことを悪く書く。それはいいんだ。ただし、人生の先輩として教えなきゃいかんことはある。そこだけは理解しろ」と。角さんの人間的な大きさを改めて感じました。
山本皓一
「一国の総理総裁は天が命じなければなれない」
この言葉は、田中派の木曜クラブに所属し、首相の座を狙っていた竹下登さんを意識し言ったものだと思います。角さんは、自分が首相に返り咲きたいがために、田中派から総裁を出さないつもりだと、派閥に属する議員から反発を受けていた。この一言は、そんな批判を受けて、「一国の総理というのは、なろうなろうと思っても簡単になれるものではない、そんなに軽いもんじゃないんだ」という思いを込めて言った、戒めの言葉だったんじゃないかな。
やまもと・こういち/'43年、香川県生まれ。フォト・ジャーナリスト。小学館での写真班員を経てフリーランスに。'83年から田中角栄を密着取材し、写真集『田中角栄全記録』を発表した
ごとう・けんじ/'49年、東京都生まれ。ジャーナリスト。'73年共同通信に入社、政治部で田中角栄を担当。'07年に退社し、独立。著書に『田中角栄に訊け! 決断と実行の名言録』など
あさか・あきら/'43年、東京都生まれ。中央大学法学部卒業後、田中角栄の秘書に。「田中軍団」秘書会を統括した立場からの証言録として、『角栄のお庭番 朝賀昭』(中澤雄大著)がある
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK167掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。