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2014年6月21日
タイトルを見ると、評論家の佐高信(さたか まこと)氏が、フリーランスのジャーナリストで以前はテレビなどで、ニュースや政治をショート・アレンジで解説していた池上彰(いけがみあきら)氏を、“ゾンビ”扱いしたのかと思ってしまうかもしれない。
実はそのとおりなのである。佐高信氏は池上彰氏を“死人”だと断定した。
月刊日本7月号の特集「新聞・テレビは権力に魂を売った」に、佐高信の「なぜ竹中平蔵をパソナの会長と報道しないのか」が載っていた。読み始めたら佐高信氏らしく、昨今日本の大手メディアは新自由主義に迎合してしまったという辛辣な調子で始まっていた。
佐高氏の言うとおり、大手メディアは小泉政権の郵政民営化の旗振りをやって以降、押しなべて新自由主義に靡いてしまっている。それまでも日本のマスコミは権力迎合的だと言われて久しいが、大手報道業界が新自由主義に完全に舵を切ってしまったら、それは権力批判のスタンスを完全に放棄したことになり、もはや報道の矜持やアイデンティティは残影さえも見えない状況だと言っていいだろう。
新聞社もテレビ局も営利企業であり報道媒体でもあるという両面性を持っている。したがって、喰って行かなければならない以上、営業収益に力点を置いて、芸能や商業主義的な特徴を出さざるを得ない面は無論あるだろう。
しかし、それであっても国民がメディアに期待することは、伝えるべき時にはきちんと伝えるという肝心の役割を果たしてもらわないと、新聞・テレビは社会公器の位置づけができなくなる。ところが、2005年の郵政選挙時に国民をペテンにかけてから、大手メディアはその存在意義を完全に失ったまま、惰性で現在に至っている。
言論の自由や国民の知る権利という需要に対して全く応えることができなくなったばかりか、逆にマスメディアは権力の走狗となり、その仕事ぶりは「知らせない」ことと、「国民が本当に知りたいこと」から気をそらす別の報道にせっせと勤しんでいる。
SF的な伝奇作品を多く書いた半村良(1933年〜2002年)の作品に、「闇の中の系図」に始まる「闇の中シリーズ」三部作がある。物語は古代日本に暗躍した嘘つき集団の末裔が登場する。
彼らの祖先は歴史の表舞台には見えないが、巨大で芸術的な嘘を繰り広げ、為政者(支配者)による人民コントロールを強力にバックアップし、常に歴史を誘導してきたという小説の骨格があった。古代の専門職としての嘘つき集団を半村は「嘘部(うそべ)」と名付けている。
これは完全にイマジネーションによる小説なのだが、竹中平蔵が国政に登場してから、日本のマスコミは半村良の「闇の中シリーズ」に出てくる嘘部(うそべ)集団に完全に変質した。2011年の3月に発生した福島第一原発事故に関する報道においては、東電も、テレビも、新聞も、政府スポークスマンも完全に嘘部集団と化していた。
テレビは民放・NHKにかかわらず、完全に嘘吐き集団になって既得権益勢力の防護壁と化していた。新自由主義(フリードマン主義)の侵略は侵略した国々の報道機関を劇的に嘘部体質(うそべたいしつ)に変換してしまうのだ。
つまり権力の意向に沿って国民の目くらましを効果的に行うことだけに日夜精魂を傾けているのが日本の大手メディアなのである。竹中平蔵は国政に新自由主義を全面的に導入し、年次改革要望書のテクストを政策群に露骨に反映させ始めた。国家戦略特区はその総仕上げ的作戦となっている。
以上は神州の泉が感じている小泉政権以降のマスコミの変容なのだが、佐高信氏もこの記事で基本においては同じ文脈で語っている。佐高信氏によれば、竹中平蔵をマスコミが紹介するときは、その肩書きを必ず慶応大学教授にしていて、決して人材派遣会社パソナの会長とは書かないと言う。
言われてみればそのとおりであり、佐高氏によれば、竹中平蔵はパソナグループの会長として1億年の年収をもらっていても、大手メディアが書く竹中の肩書は慶応大教授なのである。普通の感覚では人材派遣会社パソナの会長という肩書を使う方が自然であろう。
佐高氏はこの肩書きの偏頗性については、人材派遣会社の規制緩和を推進している立場上、利益相反の批判をかわすというよりも慶大教授と言った方が上等な印象があるからだろうと言っているが、辛口の佐高氏にしては甘すぎる見解だ。
企業利益至上主義のための規制緩和で成り立つ国家戦略特区を提唱した張本人が、人材派遣会社の会長職だったら、もろに利益相反の図式になっているし、自分が儲けるために規制緩和をやると言われても当然である。竹中は宮内義彦と同様に完全に政商化しているではないか。
佐高信氏は最後のほうでNHKの「公正中立」噛みつき、何の主張も持たない公正中立はもはや生きている状態とは言えないと言っている。佐高氏は人間が存在してある以上、常に何者かであるわけで、いかなる場合でも何らかの立場に立っている。
その立場を頑なに忌避してドグマ的な公正中立に死に物狂いで逃避するのがNHKのスタンスということらしい。池上彰氏の言論スタンスは決して賛成とか反対の立場を取らない。叙述のみがあって人間の判断や立場が全くない。
だから、佐高信氏はNHKや池上彰氏の決して態度表明をしないスタイルを死人と同じだと断定している。つまり、佐高氏はNHKは報道業界のゾンビ(屍人:しびと)、池上彰氏をジャーナリストのゾンビ(屍人:しびと)だと言っているのだ。佐高氏らしい痛快な批判である。
公正中立を金科玉条のように吹聴するNHKが、日曜討論などでは政府側の意向に沿った論客配置を行い、司会者は公正中立とはかけ離れた司会進行に血道を上げる。NHKも民放と同様に、完全に既得権益の広報代理店化となっていて、世界の恥になっている。
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