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最近、「逆境を乗り越える技術」という本を読んだ。
東京地検特捜部に逮捕され、有罪判決を受けた、外交官佐藤優氏と衆議院議員石川知裕氏の対談集だ。ともに長期間の検察の取り調べに毅然として臨み、佐藤氏はその後、作家として大活躍。石川氏は議員辞職し最高裁へ上告中である。
順風満帆だった二人の目の前に突然現れた、とてつもない逆境。今まさにその真っただ中にいる石川氏が、その逆境を乗り越えてきた佐藤氏に生き残るために何が必要なのかを問いかける。今、苦境に陥っている人へのリアルなアドバイスが満載されている。
その中で、戦争を知らない自民党議員が、好戦的な発言をすることに対して、インテリジェンス専門家の佐藤氏が、疑問を呈しているので紹介する。
(以下本文より抜粋)
(石川)最近すごく攻撃的・好戦的な発言をする人たちを見ていて、この人たちは本当に戦争があったらどういうことが起きるのか、想像して発言しているのか疑問に思う。
(佐藤)きっと、戦争が起きたら真っ先に逃げます。逃げる人は顔を見てすぐわかる。
(石川)都知事選で、田母神俊雄さんが得票を集めたのも、多くの人が、体制崩壊によって自分たちの地位を変えていきたいという願望が芽生えているのだと感じる。そして他力本願で戦争を欲しているのではと思う。
かつては戦争を経験した政治家がたくさんいた自民党も、いまや戦争を経験していない世代が占めている。そういう点では怖いですね。
(佐藤)怖いですよ。今の戦争は本当に悲惨ですから。
実際に砲弾が飛んでいる現場にいらしたり、人肉が焼ける匂いを嗅いでいたりするからわかるが、そういう経験が無くても、想像力があったら、いま戦争が起きたらどうなるかわかると思うのですけれどもね。
(以下は感想)
佐藤優氏は、石川知裕氏が陸山会事件で検察に小沢潰しの階段として冤罪を仕掛けられたが、彼の助言を実行した石川さんが結果として小沢さんの無実を証明し、日本の民主主義を官僚の魔の手から救ったことを讃えている。佐藤氏自身も民主主義派である鈴木宗男さんを潰すための検察の階段として冤罪に遭われている被害者である。日本の民主主義を守り抜いたお二人にこの場を借りて最高の敬意を表する。
本書は、様々な社会的立場における人たちへの逆境の切り抜け方が佐藤さんと石川さんにより提供される。
例えば、うつ病とは、実際は抗うつ剤の売買のためにあれこれの名称で病気化される人間の精神の鬱屈状態であり、元々気分は浮き沈みがある。この前提の上で、佐藤さんはうつに関する会社のマニュアルに従わず、自分で信頼できる医者を探しまわり、すぐに薬投与をしたがらない、話を良く聞ける医者を見つけることを薦める。日本は、米国の抗うつ剤業界最大のマーケットであることを忘れてはならない。また、日本の会社は、メンバーシップ型であり、役員でもない外部雇われ労働者が正社員と非正規に差別され社員といわれる正社員文化であるが、労働力は常に代わりのあるもので、使い潰しては代えていくという資本の論理はあくまで貫徹されている。
それは、日本人がうつになればなるほどますます外国の強欲薬品メーカーの金になる構図である。さらに、うつになるものは追い出し部屋行きなど追い出し対象になるのが日本型経営である。そして、キャパ越えをしたら、身を引いて、仕事量を減らして復帰していくのがこの復活の経路である。ここでの、成功の程度と内訳がアメリカンドリームのそれではない点に注意がいる。
また、佐藤氏は、資本主義における協業と分業の区別をマルクスから引用し、がんばれというかけ声も協業、労働者間の共同作業における競争原理の産物で、そこでは、あくまで他人と自分の無関係性が前提になっていることをご指摘される。がんばっては、あくまで他人事、若いうちの勤労が肥やしになるというのは、誰にとってかというと管理労働者たち、他人の肥やしになってしまうことを意味する。アトム化された個人間が競争と成果主義で分化され社会的団結の機能が労働者側から喪失されている。
個人対組織戦においてまず個人は組織に勝てないとした上で、それへの可能な勝利の形態を提示している。彼は言う。「(中略)どこで勝てるのか?それは自分の社会的復権です。だから、公判で、例えば猪瀬直樹さんのように、検察の言うようなことを丸呑みにするようなことはしません。ちゃんと抗って最高裁まで戦います。それで筋を通して、こちらは本を買いて、検察のでっちあげたストーリーと対峙させる。
あとは社会的に判断してもらおうと。こういうやり方しかないわけです。」(本書、P.51)全く正しい個人による闘争の態度である。個人が組織と戦う時は、断固として組織側の論理を排し、個人側の主張を堅持し、最後まであらゆる手段を尽くすことである。この態度、行動自体に価値と救いがある。佐藤さんがご指摘されるように、会社組織というものは基本的に上の味方であり、労働者の側にはつかない。
佐藤氏は、相談以前に、自分で問題を全て思いつく範囲で書き出して対象化し、ノートにまとめて深く理解すること、何が問題なのかを論理を明確化する必要性を提言される。書くということで、問題解決の道筋がつくし、それである程度問題は解決したに等しい。後は、その鉄の論理を貫けば良い。
石川氏と佐藤氏が検察の取り調べに対処する際のあるべき対応策は参考になる。敵である検察に説明をする必要はなく、それは防御の手の内をさらすことになるということである。説明をするべき相手は敵ではないという原則は全く正しい。それは、敵に事の是非の判断を託すに等しいからである。日本人はこのような誤った倫理を支配階級から植え付けられていることを佐藤さんがご指摘してくださっている。
石川氏と佐藤氏は、本当にやりたい事を目指している人は、妄想でなければ、そこに現実的な手続きが入っており、現実的な対応をしている人だけが本当にそれを目指している人だと言う事になるというご指摘も正しい。
マル経に関しても、国家が介入し規定する貨幣論、投資と擬制資本の投機の区別、賃金概念が内包する生活給、労働力の再生産の側面、恐慌を永久に繰り返さないと生存できない資本主義など、佐藤さんのような中道左派の側からのマルクス経済学の再評価も重要である。
佐藤氏も、ネオリベラリズム(経済)とポストモダニズム(文化)が相互補完的な現象であることをここで初めてご指摘されている点が特に印象に残り共感した。そう、前者の上部構造への反映が後者なのである。各構成部分がアトム化し、互いに分裂し合い、反目しあう不確定性が両者の本質である。そこでは、全体としての有機的調和や共同体的正義など実現しない。
佐藤氏曰く:結局、ポストモダン主義は、モダン(近代)の一人一人がバラバラになったアトム(原子)的世界観を強化する機能しか果たしませんでした。一人一人がバラバラにされた社会では「つながっている」という共同体意識など不要になりますから、小説の有効性がなくなってしまう。プロットを立てなくなって、“ポエム”の時代になるわけである。(PP.215-6)
逆境はまず自分で対処しないと誰も自分に代わって対処してくれないことを正しく説いている。経験則からも普遍的に有効な対処法が多く提示されていることを感じた。サラリーパーソンにとっても、自分のライスプランを構築するガイドラインとして、役に立つ内容が書かれている。
まさに、サバイバル人生論の一冊である。
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