http://www.asyura2.com/14/senkyo166/msg/587.html
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ユーロでは、関税自由化。
ドイツの自国民は、外国産の安いリンゴを買わずに
割高な自国、地元産のリンゴを買う。
なぜ?
それは、リンゴ畑、農園、この地域の風景を守るためだ。
地域の風景を守るためなら、少々割高でもカネを払うのは当たり前。
経済的な面から考えると、日本の稲作風景、畑作風景は不要なのか?
最新の栽培技術をもつ、ビル群で育成されたお米や野菜などで良いのか?
モノだけなら、それでよかろう。
いや、もうその考え自体が時代遅れなのか?
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農と自然の研究所の宇根豊さんの論考です。
http://hb7.seikyou.ne.jp/home/N-une/
2013年11月
農本主義者よ目覚めよ
農の原理を抱きしめなおす
この一年間に若い百姓の集まりに四回ほど呼ばれたが、「農本主義」という言葉を知っている青年は一人もいなかった。私たち世代以上には古くさく感じるのに、彼らには「新鮮」に受けとめられるわけだ。
戦後になって農本主義は右翼反動だと決めつけられてしまった。また研究素材になることはあっても、現代に活かそうとする人はいなかった。
かつての農本主義者が身をもってつかんだ世界は決して古びてはいない。これから話すことは、昭和初期の農村恐慌時代だけに通用することではない。私は同じように現代を見ることができると思う。
農本主義者の眼力の鋭さは、次の三点に集約できる。
(1)近代化への根源的な違和感があった。自然に働きかける農は、近代化できないのではないか、資本主義とは、経済成長とは相容れないのではないかと考えたのだ。そして、その原因を本気で探した。
(2)ナショナルな価値を、在所の価値よりも優先されることを嫌悪した。農よりも工業や商業が尊重され、田舎を置き去りにして都市が発展するのは、経済的な国益の偏重だと見抜いていた。パトリオティズム(愛郷心)なしのナショナリズムは根無し草だと主張した。
(3)そしてこれが最も重要なことだが、百姓仕事への没入こそ、天地と一体となる境地であって、もっとも人間らしい仕事だと体でつかんでいた。近代的な賃労働は、労働とカネを同等に見るもので、堕落だと指摘した。
あるとき私は、これは一種の原理主義ではなかったかと気づいた。今日では原理主義者とは偏狭で過激なイメージがあるが、それは一面的な見方でしかない。
経済成長への幻想にとらわれて、生きとし生けるものにとって大切なものを踏みにじるグローバルな圧力にどう対抗したらいいのか。近代化してはならないものを「原理」に仕立てて、人生を賭けて対抗するしかない時代になっている。
しょせん経済成長などは、近代化できないものを犠牲にして、あるいは土台として成功したのではないか。農はその土台を提供してきたために、ぼろぼろになったのだ。こんなに農村の自然と風景が荒れている国家が世界にあるだろうか。 自然の生きものに生産性を求めるのが破廉恥なように、百姓仕事にも経済成長を求めるのは危険思想だ。そう主張する原理主義者がいなくてならない。
ただ、かつての農本主義者たちが気づかなかったことが一つだけある。当時はまだまだ自然は豊かで、タダで提供されていたので、自然の価値を言い立てることがなかったことだ。ここに、もうひとつの新しい原理が現れている。
(4)多くの国民が「自然は大切だ」と言うのなら、これ以上農に生産性を求めてはいけない。百姓仕事が支えてきた「自然と人間の共同体」こそ、社会の共有財産であるからだ。
農本主義を復活させ、農を社会の土台として認知させることは可能だろう。未来のために現世の経済的な欲望を抑えて生きる農本主義者が目覚めていくなら。(宇根豊・日本農業新聞3月31日掲載)
新しい農本主義しかない
原理主義の可能性にかける
ナショナルな価値よりもパトリ(在所)の価値の思想化を
宇根 豊(農と自然の研究所 代表)
1、あたりまえの世界とそれを感じる感覚
今年も畦の彼岸花に、いろいろなアゲハ蝶が集まって舞っています。秋になると、どこでも見られるありふれた、あたりまえの風景です。しばし見とれながら、つい蝶の種名を黄アゲハ、長崎アゲハなどと確認している自分に気づき、「いかんいかん、また外からのまなざしを持ち込もうとしている」と、内からのまなざしである情感の世界に引き返します。
たしかにTPP問題を考えようとすると、外からのまなざしは必要でしょう。環境支払いの政策を構想する場合も同じです。内からのまなざしでは、グローバル化する経済には対抗できないし、政策を立案することもできない、とつい思い込んでしまいがちです。
しかし、外からのまなざしだけでは、たいした価値もありそうにない、あたりまえの世界が見えなくなります。じつはその、あたりまえの世界こそが、この国の「発展・成長」によって、傷つけられ、喪失していこうとしているのです。こういうときに、外からのまなざしだけに頼っていては、何かが足りないのではないでしょうか。
しかし、あたりまえの世界は、内からのまなざしだけでは表現し、理論化することが難しいのです。彼岸花にやってくるアゲハ蝶の種を同定しなければ、彼岸花とアゲハ蝶の関係は客観的に表現できませんし、この世界の価値を誰にでもわかるようには表現できません。だからと言って、科学的な記載にのめり込むと、花のまわりで蝶が舞う喜ばしさは、忘れ去られてしまうのですが。
そもそも、こういう情景を日本の百姓は、意識して語ることがありません。ナショナルな価値として称揚することがないばかりか、在所の価値としても語りません。TPP問題にひきつけていえば、「農家経済が守られるなら、田んぼの生きものも守られる」という百姓も少なくありませんが、そうでしょうか。情愛と経済は、対立する場合が多いのに、それへの覚悟も希薄です。ここには、すでに敗北の兆しが現われています。
かつて、せっせと畦に彼岸花を植えた先人の、田んぼの世界への情愛は危機に瀕しています。それにとどめを刺そうとしているのが経済のグローバル化です。しかし、危機感は経済的な側面、しかもナショナルな単位のそれに対してのみあおられていて、あたりまえの世界、在所の世界には向いていません。
このようなあたりまえの現象と、それをあたりまえと感じる感覚は、いずれもこの国の「農」が生み出したものです。こういった関係が農の「原理」だと自覚することはたいへん困難です。あたりまえとはふつう、認識することの外にあるからです。あたりまえのことを「原理」として意識するには、特別の試みと労苦が必要なのです。それを少しばかりやってみることにします。
2、農の「原理」へのまなざし
百姓をしていて、あるいは農業にかかわる仕事をしていて、時々「今という時代は、何かがおかしい」あるいは「何かが間違っている」と感じませんか。農地や村の荒廃や衰退はたしかに目に見えますが、そういう表面的な様相や損害ではなく、もっと深いところにある農の「原理」そのものが一貫して否定され続けてきたからこそ、こうなったのではないでしょうか。TPP問題だけでなく、この国が明治以降、国民国家となって以来、ずっとたどってきた道そのものが、じつは農の「原理」を切り崩し、切り売りし、他の価値と同等にしか位置づけようとしなかったのではないか、という感覚は私だけのものでしょうか。村の経済が発展すればいいと考えは、根本的なところで間違っていたのではないでしょうか。単に「農政が悪い」というようなことではなく、もっと深いところで、農は誤解され続けています。
それは「近代化とは何か」「農とは何か、農と近代化は折り合えるのか」という根源的な問いを避けてきたツケです。農の「原理」のようなものを守るという発想がなく、農の経済価値を守ることで代替しようとしてきたツケだとも言えます。
じつはこのことに気づいていた少数の百姓たちが、大正時代から昭和初期にいました。彼らは今では「保守反動」「天皇制賛美の軍国主義者」という誤ったレッテルを貼られて、歴史の闇に葬られようとしていますが、再評価の機運は高まっています。彼らは「農本主義者」と呼ばれてました。
3、二段重ねの餅
二段重ねの鏡餅があるとしましょうか。上の餅が小さいなら、下の餅が見えるでしょう。下の餅に支えられていることも意識するでしょう。ところが上の餅のほうが大きいと、下の餅が見えません。見えないばかりか、自分を支えている土台を忘れてしまいます。
上段をナショナルな価値、下段を在所(パトリ)の価値とします。下段の価値には説明がいるのですが、後でくわしく述べることにします。なぜならナショナルな価値に比べて、表出・表明・表現されることの少ない価値だからです。上段をナショナリズム、下段をパトリオティズムと言い換えてもいのですが、どうも「イズム」と言うとそれだけで拒絶してしまう日本人が多いので、しばらくは「価値」と言うことにします。
TPP反対運動の構図は、これまでの農業を守る運動と変わらないように思えます。百姓の大多数が反対しているのに、百姓以外の国民の多数が賛成しているという構図があります。その理由は、次のように語られています。
(1)ほんとうの危機が国民に伝わっていないからだ。百姓はもっと、国民に伝えなくてはならない。
(2)国民の多くが「開国」は時代の趨勢だという常識に染まっている。「国益」としてプラスになるという情報に惑わされている。
(3)農業以外の利益と、農業が被る損失を天秤にかけるときに、損失が過小評価されている。農業の損失は、農業にとどまらず、広範囲に及ぶ。
「ほんとうの危機」とは「ほんとうの価値」の崩壊のことだと思われますが、それは「国益」のことでしょうか。農業の損失は過小評価されているのでしょうか。
ここにはあきれるほどに、TPPに反対する側にも、賛成する側と同じ「国家」の目線からの発想が、あふれています。「日本の農業が壊滅する」という言い方がその典型でしょう。いつの間にか、日本が国民国家であることを無条件で容認しているばかりか、ナショナリストとしての発想になっているのです。べつにナショナリストであることはたいした問題ではないでしょう。ナショナリズムは国家のあり方を問うときには必要なものだからです。
しかし、政府高官のナショナリズムと、百姓の、そして国民のナショナリズムが同じであっていいのでしょうか。政府が考えるナショナルな価値と、百姓が感じて生きてきたナショナルな価値とは同じものでしょうか。それは、じつはちがうものです。ちがうのに同じように感じさせてしまうのはなぜか、と私は問いたいのです。
もう一度、二段重ねの餅のたとえに戻りましょう。上段で相撲をとると、上段の価値観を認めたことになるのではないでしょうか。たまには上段の住人を下段に引きずり下ろして、相撲を取るべきだと言いたいのです。そのためにも、この二段重ねの餅から降りて、外側から見たらどうでしょうか。二段重ねの構造がよく見えるでしょう。この視座こそが、かつて農本主義者たちが獲得したものです。ナショナルな価値の土台には、在所の価値があるということです。
4、経済価値は上段の価値
ところで、案外みんなが気づいていないのは、経済価値で語ろうとすると、その瞬間に上段の土俵に乗ってしまうことです。つまりすべてがナショナルな価値に収斂され、「国益」として経済で計算され、天秤にかけられるのです。
たぶん農家経営だって、経済価値で損得を計算するのだから、国家レベルでも計算しても同じだと考える人が多いでしょう。それは規模の違いであって、個々の損得が国家レベルまで拡大したにすぎないと言い張る人が多いでしょう。しかしここにこそ、上段のナショナリズムの怖さが露呈しています。下段と上段は直結している、一体だと思わせてきたのが、国民国家のナショナリズムの力業なのです。
個々の農家経営と国益は、何よりも計算方法が異なります。TPPによる個々の農家の損得を一軒一軒累積して、日本農業の損失を計算したわけではありません。そうしたのなら、問題はちがった様相を示すに違いないでしょう。ところが、被害額とは、農水省の試算であっても、反対派の学者の試算であっても、最初から個々の農家の経営を無視して、国家レベルの計算式で計算されています。すでにここから、私たちの実感を離れているだけでなく、上段の視点に絡め取られているのです。もちろん日本農学に依拠すると、こうなるのは当然です。そもそも農学は上段の世界で形成されてきたのですから。
そもそも経済価値で表現すること自体が、TPPの論理を認めていることにならないでしょうか。経済価値よりももっと大切なものがあるのに、経済こそが土台だという思想の脅しに、国民国家の構成員となった国民は弱いものです。それはそうでしよう。上段の国家とは、在所に根を張っているように見せかけている体制だからです。
5、上段と下段の戦い
もうひとつさらに重要な視点を提示してみましょう。それはTPP反対論のほとんどが、TPPで問われているのは国家間のナショナルな価値の違いであるとみていることです。しかしそれは見当違いではないでしょうか。たしかに日本政府が、アメリカ政府の言い分に引きずられて、押し切られる恐れは大きいでしょう。ですが問題は、「対外」よりも「対内」ではないでしょうか。気づくべきは、それぞれの国の中でナショナルな価値(ナショナリズム:上段)と、在所の価値(パトリオティズム:下段)が対立していることではないでしょうか。
国益という経済価値によって、生きものや草花や風景といった、在所のささやかなカネにならない価値が滅んでいくことに、ナショナリズムは冷淡すぎます。いま何よりも求められるのは、在所の価値を支える情愛の側からの抵抗でなくてはならないでしょう。
この情愛は、声を上げては来ませんでした。いつもじっと見つめながら、静かに涙を流して見送ったものの膨大な山を背中に負っています。しかし哀悼だけでは、守れません。在所の価値をナショナルな価値に格上げして守ってもらおうという幻想は、いつも挫折してきました。よく言われる「国民の理解が得られるように努力する」ためにも、これまでのやり方では何かが足りないのではないでしょうか。
そこで、思い切って下段を、在所の価値を「原理」に仕立ててみようではありませんか。ここに新しい原理主義が生まれることになります。原理主義は、キリスト教原理主義やイスラム原理主義がそうであったように、外からの近代化、資本主義化への危機感から生まれ落ちるものです。危機の根源は、TPPだけではありません。もっと深いところで進行してきた、この国の近代化に対抗するには、農のカネにならない世界を守ることを第一の原理とした原理主義が生まれるしかないのです。
私はこれを「新しい農本主義」と呼ぶことにします。敵は外国のナショナリズムである前に、日本のナショナリズムなのです。自分たちの生きる母体をないがしろにして恥じないナショナリズムが、ナショナリズムの名に値するわけがないのに、ナショナリズムの顔をして横行していることに、私は異議を唱えるのです。そんなものは国益でも何でもありません。国家単位に膨張した金欲に過ぎないのに、「国益」とは笑わせます。
6、経済成長を拒否する心性
近代化の最大の暴力(成果?)は、農にも成長が可能だと実感させたことでしょう。所得は増やせるし多いほうがいい。労働は軽く、短いほうがいい。物は多く、豊かなほうがいい――このような戦後の近代化思想は、私たち日本人に経済成長への期待を、そして世の中は進歩・発展するという実感と幻想を植えつけてきました。しかしそろそろ、このために犠牲にしたものを、指折り数えてみる時代になったのではないでしょうか。簡単に言うなら、これ以上進歩を求めたらいけない、裕福になってはいけない、いやもっと貧乏になるべきだと考える時が来ているということです。
成長を拒否せねばならない理由は、百姓仕事の相手であり、ともに働いている自然の生きものにとっては、成長(進歩・発展)が不可能だからです。これは、自分自身に成長を求めない以上に難しいことです。だから、みんな避けて通り、見て見ぬふりをしているのです。
ようするに「農は資本主義に合わない」ということです。これはかつての農本主義者が懸命に理論化しようとして、志半ばで終わった論点です。しかしいまならば、それはできるような気がします。資本主義が経済価値で動いている以上、経済価値以外の価値のほうに多くを依存している農は、肩身が狭いだけでなく、次第に息の根を止められていくことに、みんながうすうす気づいてきたからです。
農は経済価値にならないものをいっぱい生み出しているばかりではありません。そのカネにならないものによって、農自体も支えられていることに気づいていないとは言わせません。それを理論化し、思想化し、具体的に、主張するのが、新しい農本主義なのです。そしてその思想化のやり方で手本になるのが「原理主義」なのです。
7、「原理主義」というしかない
TPP反対の論理の核とは、農は自由貿易になじまない、ということでしょう。農が生み出し、農を支えているものが、自由貿易になじまないばかりか、資本主義に合わない、という実感が大切です。合わせようと苦労してきたのが、農業の近代化でしたが、そろそろ気づくべきなのです。農を資本主義に合わせようとすると、農の土台(農の原理)は破壊されるのだと。
そういう意味では、「農業には特別な価値がある」というスローガンは、「農業には特段の保護を必要とする」と言った程度の思想ではなく、資本主義に内部から異を唱え続け、資本主義ではない体制を探していくという原理主義の表明なのです。断るまでもなく、それは社会主義でもなく、だれも体験したこともない理想社会でもありません。かつて、この国のどこの村にもあったものです。
そこで「原理主義」について、確認しておきましょう。原理主義(ファンダメンタリズム)という言葉は新しいものです。私たちがよく耳にするようになったのは、1981年のイスラム革命における「イスラム原理主義」からです。しかし、この言葉が最初に使われたのは、1920年代のアメリカでの「キリスト教原理主義」が最初だったようです。それは一言でいえば、近代化によって失われようとするキリスト教の教えの原理を守れ、という思想でした。
現代では「市場原理主義」という言葉に見られるように、原則主義、教条主義という意味で無原則に拡大されていますが、ここでは原意を大切に扱いたいと思います。「市場原理主義」とは「市場万能主義」と同義で、超近代化主義すが、イスラム原理主義はイスラム万能主義ではありません。近代化を拒否して「原理に戻れ」という主義なのです。
松本健一はこのところをうまく整理しています。
「原理主義というのは、ある『原理』や『原典』に固執することによって、近代主義に抵抗しようとする〈近代〉の超克運動、思潮、精神現象である」(『原理主義』67p)
イスラム原理主義には「コーラン」、キリスト教原理主義には「聖書」という「原典」がありました。それが近代化によって冒涜されていると感じたからこそ、反発と回帰が起こしたのです。たしかに私が言う「新しい農本主義」には「原典」はありませんが、「原理」があります。その原理とは、これまでもそれとなく語ってきましたが、はっきりさせねばなりません。
8、農本主義は可能か
そこで農が在所で成り立ち続いていく「原理」を、表現してみましょう。ここでいう農や在所とは、ごくふつうの農であり在所のことですから、原理主義者には誰でもなれるということでもあります。しかしたとえば、「農業には特別な価値がある」という言い方が、原理主義だとは誰も思ってはいないでしょう。なぜならそれは、資本主義の中で、農業は生産性が低いから、当面の間、「保護してください」というお願いだと思われているからです。しかし「その特例も、そろそろやめてもいいんじゃないか」と言われるようになっています。TPP反対の「関税撤廃の猶予」運動が苦戦しているのもこのためではないでしょうか。
それに、「農業だけが特別だ」という主張は、他の産業からは独善的だと反発されるのは目に見えていますから、「他の分野とも連携して」と言わざるを得ません。こうなるといよいよ原理主義から遠ざかっていきます。たしかにそれでも、「農業は命の源の食料を生産しているから」というのは、「原理」の一部であるように思えますが、その食料だって、日本人の多くはカネで購入しているのが現実です。
残念ながら、私たちはカネがなければ食いはぐれる時代に生きているのです。まして食料の多くを外国から買っている日本国は、カネがなければ大事な食料を輸入できません。「食料も大事だが、それを買うカネはもっと大事だ」というのが国民の実感になっていることを直視すべきでしょう。食料もまた資本主義の中に見事に取り込まれているのです。
「いや、平時はそうかもしれないが、いざというときには…」という論理は、旧農本主義者が寄りかかって、挫折したものです。新米に飛びつく国民と、飛びつかせる百姓にはそういう論理は通用しないでしょう。いざという事態になれば、さらにカネがものを言うという自由貿易論者の論理も、それなりに、一応筋が通っています。それに、なによりも現在は、平時です。これまでも、百姓は「飢饉になればわかる」という言い方をしてきました。こういう言い方を持ち出すこと自体が、すでに思想的に負けている証拠でしょう。「いざという事態」に備えさせる魅力を失っていることへの反省が見られません。
9、食料が「原理」にならない理由
余った食料を足りない地域へ売るのは、国民国家の内部では当然のように考えられていますが、外国へはまったくちがう論理が働きます。余っているかどうかではなく、国内外を問わずに、高く売れる可能性があれば生産し、その地域や国が飢えているかどうかに関係なく、高く買うところに売るのです。
しかし、よく考えてみると、国内でも余った食料を足りない地域に売るのではありません。「食料基地」と呼ばれている九州の農村でも、新潟コシヒカリや北海道のきららが売られているのは、どうしてなのか考えてみてほしいものです。たしかに食料は命の糧には違いありませんが、それは自家で自給する必要もないし、地域で自給する必要もない、その延長として国民国家の単位でも自給する必要はないものに、いつのまにか変化していこうとしています。この変化に気づかないから、経済に対抗できないのです。食料は「自給」からかけ離れた「商品」になってしまったのです。
「産地や安全性や品質へのこだわりは残っている」と反論したい気持ちはわかります。しかし、産地や品質に価値があるのだと言い立てた途端に、食べものがより商品化してしまうことに鈍感であってはなりません。
ここまでくると、やっともう一つのことに気づくことができます。「そうは言っても、食べものには、商品化できない価値も含まれている」という経験であり実感です。経済価値では表現できないが、たしかに自然を支え、在所のくらしを守り、風景を支えている価値が食べものには包含されていることです。
これこそが食べものから見たときの、原理主義としての農本主義の核(原理)なのです。
10、原理主義とナショナリズムの関係
ナショナリズムもまた近代の産物です。民族独立や国家の形成や国民意識の醸成など、西洋近代が生みだしたものはナショナリズムと深い関係にあります。これに対して、原理主義はこうした西洋発の近代主義に異を唱えるのが特徴です。ナショナリズムではなく、パトリオティズムに近いものです。こうしてみると、原理主義もまた、近代が生みだしたものだといえるでしょう。旧農本主義者は、近代国民国家ではなく、むしろ社稷を土台とした天皇制国家に幻想を抱き、革命を志向し、挫折しました。
私たち新しい農本主義者は、資本主義に基づく「国益」を最大限に膨張させていく現代日本の政党政治に幻想を抱くことはありません。しかし、「それならどういう国家を思い描くのですか」と問われるでしょう。理想的な国家という幻想からは決別していますから、今の政党政治でいいでしょう。しかし、農的な原理を資本主義の中に放り込むことだけはやめると国民に約束する、よりましな政府でないと支持できないということになります。そこに至る道すじを描く前に、やらねばならないことが多すぎるので、その道程が鮮やかになっていないことは認めますが。
11、テロや革命との決別
今日、原理主義の評判が悪いのは、「自分たちの主張に固執して、人の言い分を聞かない」ということだけではありません。原理主義を貫くためには、テロも辞さないという雰囲気があるからでしょう。どちらも誤解です。たしかに私たちは「原理」を譲る気持ちはありませんが、それ以外のことなら、相手の言い分によく耳を傾け、譲るところは譲りましょう。その「原理」だって、権力や暴力を使って、押しつけようとは思いません。
テロに至っては、論外です。たしかに、私たちはたぶん多数派になることはないだろうと思われます。地道な努力は、時として徒労に終わり、強大な資本主義の価値観の前で、絶望感に襲われることもあるでしょう。しかし、農本主義者には別の回路が用意されているのです。それは後で語ります。
「どうやって国民の支持を得るのだ」という質問への答えは簡単です。被害や損害によるのではなく、「食べものには、そして農には、商品化できない価値が含まれている」という「原理」で、説得をはかるのです。なぜなら、日本国民というのは、それぞれの農という下段の餅に住んでいて、同じ土俵に乗っている人たちばかりですから、同じ宗教の信者と似ています。その農という土俵(餅)の「原理に戻れ」と説くのです。
ここで言う同じ宗教とは、似たような自然観・世界観と言い替えてもいいでしょう。これは、農が形成したものだというのが、旧農本主義にはなかった新しい「原理」なのです。やがて近い将来、これを新しい「原典」に仕立てる人物が現れるかもしれません。
12、求道と社会変革
旧農本主義者の大きな特徴として、百姓仕事への没入を、もっとも人間らしい生き方だと納得していたことがあげられます。これを私は「求道」という言葉でまとめておきます。旧農本主義者は社会変革運動と「求道」の間で、悩みました。今日での旧農本主義の取り上げ方は、五・一五事件に象徴されるように、社会変革運動という側面に引きずられすぎて、一面的になってしまっています。旧農本主義者が両者の狭間で悩み、表現しようとした「原理」については、ほとんど顧みられません。
それに、現代の百姓は、案外この百姓仕事への没入の喜びを語るのが苦手です。もちろん、それは昔からそうだったのですが、現代では農に限らず「表現」というものは、上段のマスメディアを通して行なわれるのが主流になってしまっているので、百姓が「求道」を表現する機会も動機もいよいよ生まれにくくなっています。これだけ近代化(資本主義化)が進んでしまったのですから、「百姓仕事の喜び」を「原理」として思想化すべきなのです。
農には宗教者の「求道」に似ていることがいっぱいあります。それは外からのまなざしでは、「単純作業」と見えるかもしれない百姓仕事のすべてに道があり、そしてそこには常に道半ばだとかみしめる何かがあるからです。この求道のひとときから覚めたときに、立ち上がってくる思いを思想化し、「原理」にしていくのです。
「武士道」が注目された時期がありましたが、「農道」(道路ではない!)が注目されないのは、この求道を「原典」にする人が現れなかったからです。もっとも武士と違って、かつての百姓は「道」などなくても一向に困らなかったからですが、現代はちがいます。
13、新しい農本主義の原理とは
それでは、新しい農本主義の原理とはどう表現したらいいのでしょうか。十分ではありませんが、私の考えを提示します。外からのまなざしと内からの求道でつかんだ世界観が交わるところを表現できる「原理」をもれなく記述できるなら、それは「原典」になるでしょうが、そういう力量は私にはまだありません。そこで、例示で済ませることをご容赦願います。
さて、冒頭の彼岸花にアゲハ蝶が舞う世界は、「原理」にするとどうなるでしょうか。「季節の自然を支えているものは、近代化されていない百姓仕事であり、それをあたりまえで当然のように受け止める感性は、農が持続的であることに安堵する百姓の感性から生まれ出た」というようになるでしょう。これをもう少し、簡潔にすると、下記のいくつかに当てはまることになります。
(1)農に成長を求めてはいけない。それは、農を支える生きものに、進歩や生産性や経済成長を求めるのが無理だからである。
(2)農は国家の土台である前に、地域の人間と自然、人間と人間のつながりの母体である。
(3)農は食料を「生産する」のではなく、自然からのめぐみをくり返し引き出す社会の営みである。
(4)農は、過去から引き継いできたものを責任を持って、未来に引き継ぐ。このことへの支援をその時代の社会にも共同責任を負ってもらう。
(5)自然の自給(食べもの、風景の自給も含む)、仕事の自給(技術の自給も含む)、人間と自然の関係の自給などの「自給」を堅持する。
(6)農は、自然からのめぐみの一部(食べもの)をカネに換えるが、生きもの、草花、風景など食べもの以外のめぐみがくり返し持続する限りにおいては、それをカネに換えることなく、無償で国民に提供する。
(7)農は、農に基づく一切のめぐみが持続するようにする農業政策のみを国家に求める。それに国家が応じる限りにおいて、国民国家を認める。
(8)農が生み出すカネにならない価値を資本主義の経済成長から切り離して守ることを、そういう政策を実施することを、国民国家の政府に義務づける。この条件付きで、資本主義を認める。
(9)農本主義者は、百姓仕事の中に道を求めて、歩き続ける。そのことを邪魔されたくないが、そこから得られる表現は、百姓以外にも共有できるものになる。
(10)日本国民は、農という舟に乗った生きものであり、この舟には人間だけでなく、多くの生きものが乗っている。
これらの「原理」を守るための運動論が必要ですが、紙幅がないので、それはまた別の機会に譲ります。ひとつだけつけ加えておきたいのは、農を守るための「原理」とは、内からのまなざしだけでは、見えないものです。求道だけでは見えないということ、外からのまなざしを必要とするということです。しかし、外からだけのまなざしで理論化すると、限りなくナショナルな価値に吸い寄せられた「原理」になっていきます。
この両者の狭間で、かつての農本主義者は外からのまなざしである天皇制に絡め取られてしまったのです。こういう挫折を繰り返すわけにはいきません。そのためにも、「原理」をもっとたおやかに紡ぎ、新しい運動論をつくり出さなければならないのです。
[参考文献]
「原理主義」についてのみ、参考にした書物を掲げておきます。いずれも読み応えのあるものでした。私の原理主義・農本主義への理解はとても広がり、深まりました。
・松本健一『挟撃される現代史−原理主義という思想軸−』1983年、筑摩書房(増補版は『原理主義』1992年 風人社)
・臼杵陽『原理主義』1999年、岩波書店
・小川忠『原理主義とは何か』2003年、講談社現代新書
なお、内からのまなざしと外からのまなざしのくわしい内容については、拙著、『百姓学宣言』(2011年、農山漁村文化協会、シリーズ地域の再生 21)を読んでください。
また「新しい農本主義」については、来春には、2冊の本を出版して、世に問う予定ですが、「危ない本」の烙印を押されかねません。そのときは、私の最期の著書となるでしょう。
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