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4月におこなわれた第24回裁判勝利をめざす全国交流会での元大阪高裁裁判官・小原卓雄弁護士の記念講演「裁判において何が事実認定を歪めるのか」の一部要旨を掲載します。小原弁護士は、裁判官在職中に裁判所前で受け取った日野町事件の1枚のビラをきっかけに、退官後、滋賀・日野町事件第2次再審弁護団に加わって活躍しています。
いかに事実を認定するか
裁判は民事も刑事も事実認定が勝負です。私は,無罪判決も結構書きました.無罪判決を書くと、事実認定の仕方が良く理解できます。自白事件の有罪判決ばかり書いていると力はつかないと思います。民事は全部争いがありますから、言ってみれば否認事件です。争いの程度にもよりますが、緻密に事実を認定して判断しなくてはいけないので、事実認定の力はつくかなと思います。
裁判は事実認定に始まり事実認定に終わると言われていますが、刑事の場合であれば検察官が合理的な疑いを超えて立証できているか、民事の場合は当事者が証拠の優越の程度(注1)に立証できているか否かで決まってきます。どうなれば合理的疑いを超えているか、証拠の優越はどの程度かを、あえて数字で言うと、刑事であれば(一般的には)8割から9割、民事では7割くらいの感じです。民事の場合、5割や6割では裁判官は勝たせないと思います。6割程度だったら、もうちょっと証拠調べをします。証拠がなければ、代理人と議論をします。この証拠の評価はどうか、それについて相手方はどう考えるのか議論をしてみます。その議論の中で、なるほどなぁとわかってくる。民事の場合も、ある程度確信を持って判断をします。
確信が持てるもう一つの要因は、事件のストーリーです。民事でいうと双方の主張を聞いて、合理的で常識に適うストーリーの方を、証拠は少なくとも、勝たせるということだと思います。
事実を確定する上での拠り所があります。動かない事実、民事で言うと自白(編集部の注:原告と被告で言い分が一致する事実のこと)です。民事は自白を優先します。自白すればそれは争いのない事実として事件の構造を作る上で重要な要素となります。裁判所としてはいろんな主張が出てくると、争いのない事実を積み上げていき、それによって事件の構造を理解します。
もうひとつは客観的事実(物的証拠)です。これは本来動かない事実として強力な証拠です。ただ、評価が一つに定まらない場合があります。袴田事件では(犯行着衣とされた)5点の衣類は、物的証拠として動かない事実のはずですが、そうではなかったことが明らかになりました。物的証拠も人の手が入ると、必ずしも信用できないという一例です。
また、証拠の内容が多くの点で一致している場合、強い証拠になります。立場の違う人の証言が同じであれば強力です。しかし、同質の証言が多く集まってもあまり意味はありません。解雇事件で会社側の人間が何人も出てきて証言し、証言内容が同じだからといって、単純に信用することには慎重でなければいけません。
こうした拠り所を基に、事実に近づいていくということは可能になります。この点は民事も刑事も同じだと思います。
※(注1)「証拠の優越」...民事裁判の裁判官は、原告・被告それぞれが主張する事実が存在するか否かを、証拠を調べるなどして判断します。その際に、当事者双方の主張を比較して、「その真実が存在したことがより真実らしい(5割を超えて真実らしい)という程度でその事実の存在を認定して良いという考え方をいいます。
検察と一体化する裁判所
問題は,刑事と民事では、裁判所の審理する姿勢が違うということです。民事で一番大切なのは、当事者を公平に扱うということです。
昔、遺族が損害賠償を起こした過労死の事件(単独事件)で、第1回期日に、「この事件は迅速に審理をしたいので協力をお願いしたい」と双方にお願いしたところ、会社側の代理人からは予断を持って判断するのではないかと指摘をけました。
一方、原告はそう言われて非常にうれしかったとのことです。過労死の裁判は非常に時間がかかって、結論がいつ出るのかわからないので、裁判所がそう言ってくれて非常に安心して、頑張ろうという気になったというのです。当事者は、裁判所の言動にとても敏感だと思いました。
刑事裁判の役割 検察のチェック
刑事の場合は、検察官に対するチェック機能だと思います。若い頃、先輩裁判官の研究会に参加して、検察官が国家機関として訴追した事案について、立証は十分か、有罪の心証がとれたときは求刑が相当かということをチェックするのが裁判所の役割だと学びました。
民事であれば、原告が100万円の損害賠償を請求して、裁判所が500万円認容するということはありません。しかし、刑事はそうではない。裁判所が検察の求刑を上回る判決を出すことがあります。マスコミもそれを評価しているような印象を受けます。これは大きな間違いではないかと思います。
検察官は国家機関として、秩序維持機能を持っていますから、訴追し有罪を求め,求刑するのは当然です。その時の求刑基準というのは、全国的な統一基準である意味では公平です。裁判所は、その適否、相当性の判断を行うのだと思います。それ以上に、このくらい処罰すべきだという量刑を裁判所が決めることには、私は疑問を持っています。
裁判所は量刑期間ではなく、あくまで審査機関です。処罰機関になってしまうと、検察官と一体化することになりかねないのではと危惧します。
馴れ合いを生む 立会検察官制度
実は、検察官の方は裁判所との一体化を一貫して追求しています。検察官も裁判官も数が少ないので、立会い検察官制度といって、裁判官と検察官は必ずペアを組んで仕事をします一方が転勤するまではずっと一緒に仕事をします。一体化する素地があるのです。そして、検察官の方は、一体化するように常に心がけています。具体的に何をするかというと、公判で立ち会ったあとに、必ず裁判官室に来て雑談して帰っていきます。毎回、毎回、雑談して、仲良くなっていく。これをずっとやってきています。私がある裁判所で、右陪席にいたときのことです。殺人、放火の否認事件で、公判が終わって、検察官が裁判官室に来て話をするのですが、ある時、検察官が裁判長と話をするなかで、この事件の証拠はこういうことなんですよと話を始めたんですね。そういうことはいけないと私は思いましたから、こういうところで、事件の評価にわたることを話してはいけないのではないかと注意をしました。そうすると、裁判長が検察官に言うのではなく、私に「そういうことを言うのは検察官に失礼ではないか」と怒ってきたのです。私もこれはびっくりするというか、そういう対応をするのかと、それ以来、その裁判長を信頼することができなくなりました。それぐらいべったりしてくると、一体化が進むのかなと思います。
例えば、、日野町事件の1審の論告求刑間際に検察官が訴因を変更(注2)してきました。本来の起訴状の内容で言えば、店の中で被害者を殺したとなっている。その根拠は、阪原さんの自白だけで、客観的な証拠はない。これでは有罪にならないと思ったのですね。。犯行場所は、店内に限らない、店の外、町内全体、あるいはその周辺までと訴因変更してきました。検察官は、普通は、裁判所の心証が不利だと思わなければ訴因変更をしません。裁判所が検察官に訴因変更を促したのではないかと言われていますが、恐らくそうではないでしょうか。裁判官と検察官の一体化というのが相当程度進んでいるというのが現状だろうと思います。
※(注2)「訴因変更」...刑事裁判では、検察官が、被告人が犯人であることを具体的な事実(訴因といいます)を明示し、それらの事実を立証しなければなりません。そして裁判書は、検察官が主張した事実があったのか否かを判断します。その際、裁判の途中で検察官は、主張する具体的犯罪事実を変更する(たとえば、窃盗罪で被害金額を100万円から97万円にするなど)ことができます。これを訴因変更といいます。
役割果たせぬ ヒラメ裁判官
日本の裁判所で有罪率99.9%というのは有名ですが、裁判所と検察官の一体化が進めば、有罪はたやすい。これは刑事の場合ですが、民事の場合も同じようなことがないかと危惧します。 本来、民事裁判所の役割というのは、立法あるいは行政に対するチェック機関です。行政の役割は、一般に国民を平等に扱うことが基本ですが、裁判所は一般的な基準では救済されなかった少数者を救済するのが役割です。その視点を失えば民事の判決もどうなるのか、非常に心配です。それが現実にはかなり広がっていると感じています。原因はいくつかあると思います。ひとつは裁判所の内部で、司法研修所を通じてですが、判例の拘束力を強調する時期がありました。裁判官は判例に従わなければいけないと強調しました。これは裁判所全体が同一の判断をするという点ではいい働きをするかもしれませんが、裁判所の役割である、個別の事情から少数者の救済をはかる必要があるという場合には機能しません。さらにもっと裁判官を萎縮させたのは、判例に従うのは職務上の義務だとされたことです。あなたは公務員として、裁判所の一員としてそれに従う義務がありますよとされたことです。一種の中央集権的な組織の中で、裁判官の判断も取り込まれていったということが言えると思います。その結果どういうことになったかというと、ある最高裁長官が裁判所にはヒラメ裁判官はいらないというあいさつをし、新聞にも載ったのですが、ヒラメ裁判官が出てくる事態になったということです。
さらに現在では、合議の中で物を言わない裁判官、裁判長の意見に従順に従う裁判官、陪席が増えてきたと言われています。これには最高裁自身も危機感を持っているようですが、合議の機能が死んでしまいます。合議の活性化をはかるということがいま、課題になっているのです。
現状をどう打開するのか
それをどうやって変えていけばいいのかというのが課題です。ひとつは、最高裁の判決が良くなれば、変わります。最高裁の判決が良くなれば、それに従えば良いからです。しかし、それは他力本願、最高裁待ちです。
刑事の場合は、裁判員裁判が導入されたことは大きな転機かなと思っています。刑事の裁判官は、市民と会話をするということが全くない。どちらかというと上から目線で、強圧的な目線でものを進めるということになっていますから、刑事の裁判官は市民をどうやってまとめていくかという訓練をしていません。そういう刑事裁判官が裁判員裁判をやるわけです。市民と話をしなくてはいけない、評議を決めなくてはいけないとなると、いつも上から目線ではものは言えなくなる。よくなるきっかけにはなると思います。
現状打開の鍵 裁判官の独立
民事の場合はどうすればいいのかは難問です。最高裁の判事が変わって、あるいは司法改革の面で、裁判所全体の雰囲気が変わってきたことは間違いない。国や自治体、企業に対してはっきりものを言う裁判官が出てくることも、期待はできると思います。最後は、裁判官が独立できるかどうかということに、かかっていると思います、裁判官は独立しているといいながら、逆に言うと、1人ひとりは孤独です。大きな判決を書こうとすれば重圧を感じますし、大変な勇気がいります。
裁判官の独立を支えるものは何かといいますと、個々人の信念しかないのかなと思います。かつては青年法律家協会という組織がありました。これは、憲法を守るというはっきりした信念で、それを支える潮流もあったわけです。それが無くなり、それを実質的に引き継いだ裁判官懇話会という組織もその後、解散しました。ですから今は裁判書の中で裁判官は1人ひとり孤独で、潮流として支えるものがありません。
裁判官の独立を担保するために、下級審でも少数意見を表明する制度があれば良いと思います。下級審の判決にもし少数意見を書けば、これは違うのではないか。袴田事件の1審判決に関わった熊本典道元裁判官が無罪の心証だということを言ったけれど、通らなくて、結局、おやめになった。もし少数意見が書けていれば、おそらく違ったのではないでしょうか。
最高裁の少数意見というのは保証されていますから、この少数意見を読んだ国民はいろんな意味で力をもらうことができます。そのことは下級審の少数意見も同じではないだろうかと思います。下級審の裁判官が少数意見を書くことができないのは、合議の秘密を守る必要があるからだと言われます。合議の秘密というのは本当に裁判官を守っているのかというと、逆に裁判官を押さえつける役割をはたしているのではないでしょうか。独立を失っている姿を表に出さないための隠れ蓑になっているのではないかと思います。せめて高裁では少数意見を表明できても良いのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
私が裁判官として独立を守る信念として、何を大事にしていたかと言うと、憲法を守っていきたいということでした。この年まで平和に生きてこられたのは憲法に守られてきたからです。ですから今後は、逆に憲法を守っていくのが私たちの責任かなと思っています。
事実の重みと 討論の必要性
20年くらい前ですが、当時、中曽根首相が靖国神社に参拝したときに、国家賠償請求裁判が起きました。これについて高裁判決をしました。慰謝料請求は棄却しましたが、靖国への参拝は憲法違反の疑いがあると判決しました。このときは合議体でそういう結論を出しました。その経験からすると、戦争の実態を原告がちゃんと立証した。この事実の重みが裁判書を動かしたというふうに思います。裁判書を動かしていく力、独立を守っていく力というのは、事実の重みではないかと思います。当事者が生活実感、生活実態を直接裁判官に訴えることが大切だろうと思います。
もう一つは、裁判官は何も言いませんので、どういうふうに考えているのか、どういう結論を出そうというのか全くわかりません。これは良くない。裁判官と議論する機会をできるだけ広げることが大事だと思います。
事実の重みと討論の必要性ということが、これからの裁判を支えるひとつのキーポイントかなと思います。
お知らせ
本記念講演の全文は、2014年7月上旬に発行予定の『第24回裁判勝利をめざす全国交流会報告集』に掲載されます。問合わせ先は国民救援会中央本部まで
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