http://www.asyura2.com/14/senkyo166/msg/323.html
Tweet |
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/765850afebbc7dbaa6dc33c659262670
2014年06月03日
たまには、日本の政治業界にも目を向けてみることにしよう(笑)。正直、今の安倍官邸の勢いを止められるのが、自爆しかないので、敵失を待つ以外倒閣の目はない。精々興味があるとすれば、どこまで暴走するのかであり、暴走の結果、致命的ミスを犯さないように、八百万の神に祈るばかりである。今日は円安につられ日経平均も303円高、14,935円と2か月ぶりの高値を記録した。売りに徹している筆者としては思わぬ展開だが、果報は寝て待て、暫く不快な思いをすることにしよう(笑)。
ところで、ファンダメンタルにおいて、まったく良好な方向性が出ていない日本経済だが、どのような幸運や画策がなされているか別にして、買い出動の号砲を耳にしている気分だ。中露包囲網も、西側諸国のメディアによれば優勢をキープしているし、北朝鮮拉致問題でも、一定の成果を上げる可能性が出てきた。様々な部分に蟻の一穴が確認される割には、水漏れが酷い状況になっていない不思議が安倍政権にはある。第一次安倍政権時代の、あの脆さは何だった?と思いたくなる感じだ。筆者は第二次安倍政権が、タイトロープにありながら、ズッコケそうでコケずに済んでいるのは、時代の幸運と“すだれスガ”と云う嫌らしい政治家のお陰だと思っている。
内閣において、意外と云うか、意外でもないのだが、その政権の官房長官と云うポストが、その内閣の命運を握っているような気がしてならない。一次安倍政権の塩崎恭久、与謝野馨が官房長官だったことも一次安倍政権の命を縮める役目を果たしたのだと思う。少々時代を遡り、時の政権の官房長官を眺めていると、内閣に要は、意外に官房長官なのかもしれない、と気づく。吉田内閣の佐藤栄作、緒方竹虎、池田内閣の大平正芳、佐藤・田中内閣の竹下登、中曽根内閣の後藤田正晴、橋本内閣の梶山静六・野中広務、小渕内閣の青木幹雄、森内閣の福田康夫、そして二次安倍内閣の菅儀偉などが有能さの例、と言えるだろう。
無能な官房長官を挙げれば枚挙にいとまがないが、特に酷かった官房長官は、新しいところから見ていくと、菅内閣の枝野・仙谷、鳩山内閣の平野博文、福田内閣の町村信孝、前述の与謝野馨、塩崎恭久、中川秀直、村岡兼造、熊谷弘、武村正義、加藤紘一と云うところだろう。ここでの好悪の例示は、政治家としてと云うわけではなく、あくまで官房長官として求められる役職上の資質を基準に選んでみた。かなり大雑把な括りなのはご容赦願おう。官房長官には向かなかったが、総理ならいい仕事をする場合もあるし、有能な官房長官イコール有能総理と云うものでもない。
幾分横道にそれたが、官房長官の話題で時間潰しをしたくなるほど、安倍政権はトンデモナイ刺激続きの政権であるにも関わらず、思いのほか退屈な政権でもある。総理が論理矛盾を連発しても、そのアホな言動をフォローする官房長官の機転によっては、問題化しないである。安倍晋三と菅儀偉、この二人のギャップが非常に興味深い。
筆者の感覚だけでモノ言わせてもらえば、わが国の政治状況は「はしか(麻疹)」「おたふく風邪」と云った乳幼児型の疾患で病んでいるのだと思う。ゆえに、このような疾患は“時間経過で治癒する病”と云う大らかな気持ちで眺めてしまう傾向がある。ある意味で、世界的な右傾化現象も、次なる世紀(21世紀)の枠組みと云う“大人な身体”に成長するための、思春期だと捉えることも出来るだろう。ユーロ圏、中露ユーラシア、北アフリカ、中東、ASEAN。それらの混乱は一種国家とか地域の「成長痛」のようなものとして捉えることも出来るだろう。
日本、英国、米国は個別の様々な事情から、すでに大人な時代を過ごしてしまったわけで、好むと好まざるに関わらず、成長と無縁の世界に突入している、と理解すれば、あらゆる物事を論理的に説明できる。論理的説明が公に公認されない理由は、そこに国民感情が混入するからだろう。成熟と衰退、このような事実を認めたくない情緒が、諸悪の根源と言っても良いのではないか、と思う。開発途上国や後発開発途上国が足元に近づくまで、ウサギのように一眠りして構わないではないか。兎と亀の寓話通りに現実世界は展開するものでもない。孤高な国家、老成した国家。成熟と老成から生まれる社会のあり方を模索する国家を演じても良いのだろうと、筆者などは思うのだが、国民感情は、それを善しとしないようである。
“成長”と云う念仏や、“覇権”と云う念仏のトラウマから抜け出せない国家は、結局無理に無理を重ねて、砂の上の植物園ならぬ、動物園を作ってしまい、とどのつまりには、飼育係や調教師が動物園の獰猛にして貪欲な野獣の餌食になってしまう。21世紀的、オーウェルの「動物農場」「1984年」を味わうことになるのだろう。まさに、アメリカンやジャパンの求めているものは、失われた青春を、回春剤で、なんとかしよう、と焦りまくる“ダボハゼ”のようなものだ。
あぁ又横道に逸れたが、直近の永田町の営みなど、いずれは笑って語られる政局なのだが、一応触れておこう。現時点で与党安倍自民にすり寄ろうとする政治勢力(みんなの党・渡辺喜美、名称未定慎太郎軍団)はあるが、自民党内で与党の立場を自ら捨てて、去っていく勢力は見当たらない。連立与党を組む公明党だが、紆余曲折はあるだろうが、最終的には与党でいる立場のメリットを捨てるほどの熱意は感じない。冒頭で述べたように、現時点の安倍官邸に、目立った齟齬は生まれていない。無論、芽はあちこちで芽吹いているが、それらを隠蔽しうる株高現象を未だにキープしている。どのようなPKOが行われていようと、株高は株高だ。
現在の流れを見る限り、与党陣は盤石で、ひ弱な野党勢力が内戦を惹きおこし、分裂と云う現象を起こしているに過ぎない。脆弱な組織が分裂していくのだから、より貧弱になるだけで、与党と云う敵に塩を送り続けている按配だ。野党再編と云うと聞こえは良いが、ドンドン、一人一党野党みたいになるわけで、進めば進むほど、酷い状況を呈するであろうことは、想像に難くない。しかし、仮に惨状を呈しても、通過する必要のある政治過程であり、この野党再編は政権を奪取するための一里塚と認識すべきだ。この過程を経ずに、曖昧さを残した烏合の結集は、次代を担う機能を、再び手に入れることなく、数合わせの脆弱政権になるに過ぎない。
この野党再編を通じて、既得権益の踏襲を是とするのか、盤石に見える既得権益層の破壊を試みるか、その鬩ぎあいの中から生まれる政治集団、乃至は連立できる与党を目指すべきである。2016年のW選挙で、絶対に政権を奪取しなければ、と云う使命感を強く持ち過ぎるべきでもない。80歳の内閣総理大臣であっても、国民の進むべき方向性を示し、21世紀的日本の国家像が示せるなら、必ず国民はついてくる。その為にも、浮足立った民主党は懲り懲りだが、安倍自民党は、やはりそれ以上に腐っていた、と国民が気づくには、それ相当の時間が必要だ。何といっても、今現在騙されている最中のなのだから(笑)。茹で蛙になりかけた時、かなりの馬鹿でも、熱さは感じる(笑)。それからでも、改革は十分間に合う。なにせ、クダラヌ競争社会とは一味違う日本を創るのだから。
筆者の想像図だが、その頃になればグローバル経済の破壊的事象も頻発するし、大資本マネーに蹂躙される国民の生活が、猛烈な痛みを伴いだすに違いないのだ。アメリカンの凋落も雪崩を打つ可能性が大である。中露やASEANの抬頭も顕著になり、彼らも勝ち組意識の中で、世界における自分たちの地位の矜持を持つ機運が生まれるに違ないのだ。この時、鳩山由紀夫元首相の「東アジア共同体構想」の機運が明確に社会現象化する可能性がある。この「東アジア共同体構想」には、ユーラシア大陸の大国、中国ロシアを意識すべきもので、鳩山の抱いていた「東アジア共同体構想」は「アジアユーラシア共同体」とバージョンアップしているに違いない。
このように、10年スパンで構想を練れば、特別今現在の狂気の安倍政権のトンデモ政治に一々目くじらを立てることもない。笑ってやらせておけば良いのだ。それにしても、小沢一郎が描く「最大野党民主党を軸に、オリーブの木を」と云う発想は、もう通用しないと思う。既得権益陣営の影響力を侮り過ぎた嫌いがあることは、素直に認めざるを得ない。改めて、「国民の生活が第一」の「生活」と云う概念の構造的修正が必要になってきている。ここが肝心だ。10年後まで、米国との関係を最重要視して、と云う発想には時代性で無理が出てきている。腐っても鯛の論には、変革世紀においては、些か陳腐に思えてきた。
小沢信者と云う人々がいるとすれば、面白くはないだろうが、「生活」の観念の転換なしに突き進んでも、20世紀の延長線上にあり、日本が21世紀型最先端国家になる事を放棄するに等しいと思考せざるを得ない。民主党など糞喰らえである。連合・官公労の票がなければ成立しない政党は、既得権益政党であり、国民政党にはなりえない。ネオリベも廃れる運命なのだから、良い顔する必要もない。経済にあまり軸足を置かなくても済む時代が、10年後には必ずやってくる。
これからの時代は、教条的が美しく頑強に思える時代に突入している。社民や共産の、ヤケクソな訴求が花開く可能性さえ見えている。勿論、彼らの政策は大きな政府を希求するので、話にはならないが、「生活」と云う価値観が異なるような方向性を打ち出す政治勢力を小さくても良いから作っておくことだ。“腹七分目の生活価値観”ここに政治勢力を結集させるべきである。30人程度の小さな所帯でも、時代の風を帆一杯に受ければ、大化けする。時代は完全にオセロゲーム時代だ。現在の「生活」と云う観念で国民を満足させようとすれば、それは破滅への道であり、その道は“自民党”に譲って良いだろう(笑)。これからは、禅の世界の「無」であり、価値観のチェンジこそが、政治に求められている。
そのような意味では、過去の現象で、細川や小泉や鳩山や福島みずほに、重大な過去の瑕疵があるとしても、21世紀の時代に変身した細川や小泉や鳩山や福島みずほと、国民の生活が第一の、「生活」と云うものを、もう一度定義し直す作業から着手すべきだ。このような発想で永田町を眺めてみると、このような政治勢力の象徴的マイルストーンになり得る選挙が二つある。沖縄県知事選挙と福島県知事選挙だ。沖縄県知事選挙においては、鳩山由紀夫はシンボリックな意味合いがある。猛烈な沖縄の団結に繋がり、辺野古埋め立て問題が世界的話題にまで拡大させられる。福島県知事選に関しては、寡聞にして候補者の顔が見えていないが、福島県民の健康に教条的に取り組む候補者を擁立し、放射能問題を国民の共有する意識に高めさせることが出来るのだが、沖縄の鳩山のように、うってつけな候補者の顔が浮かばない。
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK166掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。