64. 2014年5月29日 00:34:02
: Epgoj13Y43
Yomy さん、資本主義の経済を語る上で需要と言えば、当然、アダムスミスが国富論で捉えた「需要と供給」の関係から捉えねばなりません。 この関係の把握が経済論の中心でありました(形は変わっても今でも同じですが)。 その後、理論的にはいろいろなものが出て来まして有名なものにセイの法則と言うものがあります。 セイの法則をもう少し判りやすく解説すれば、 あらゆる経済活動は物々交換にすぎず、需要と供給が一致しないときは価格調整が行われ、仮に従来より供給が増えても価格が下がるので、ほとんどの場合需要が増え需要と供給は一致する。それゆえ、需要(あるいはその合計としての国の購買力・国富)を増やすには、供給を増やせばよいとする。 セイの法則については、現代では好況等で十分に潜在需要がある場合や、戦争等で市場供給が過小な場合に成り立つ限定的なものと考えられており、また一般に多数の耐久財 ・資本財 がある経済を想定していないことが指摘されている(耐久財のディレンマ)。またセイの法則そのものは後世の研究者により現代においても成熟されつづけているものであり、たとえば技術革新による供給能力の変化と生産調整による供給能力の変化の違いなどの現実のディテールなどは想定していない。また生産されたものがつねにあらゆる状況でgo・dsであることが暗黙の前提となっており、生産され供給されつづけるgo・dsが累積的に人への効用を拡大させることを前提としている。この点がのちにオーストリア学派により批判された(限界効用理論、限界効用逓減の法則)。 次にケインズもそれを捉えています。、総需要管理政策と言うものですが、長くなるので下記の短い紹介で終わります。 政府による有効需要の調整は総需要管理政策と呼ばれるもので、財政政策と金融政策とに分けられる。また、財政政策と金融政策を併用することをポリシーミックスという。 飛んで飛んでしますが。 さらにグローバル化が進んだ現在、次の様な捉え方をする人がいます。 これは以前に阿修羅掲示板お文章をコピーしていたものです。 最近、阿修羅掲示板に良く投稿される「あっしら」のサイトへ行ってみました。 ttp://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/index-as.htm HNは「あっしら」と名乗られているが経歴は解りませんが、資本主義経済のシステムが持っている色々な矛盾を説く解す能力豊かな、経済に強い確かな方と見受けしました。 その一部を転載します。 「供給=需要」の向こう側 <想像力から創造力へ> S子 「利潤なき経済社会」を興味深く、また、意義深く読ませていただ いております。資本主義経済において、結局、私たちが見誤ったも のは、マネーにおける「目的」と「手段」をはき違えたことにある のは間違いないだろう。経済活動における潤滑油とはマネーであり 、そのマネーが滞ることなく流通し、循環してこそ経済の活性化を 見ることができ、個々人としての生きる活動も活発化してくる。 それはまるで私たちのからだを流れる血液のようなもので、血液が さらさらの状態であれば私たちは健康で日々を無事に過ごすことが できる。が、血液がどろどろ状態になり、この流れが悪くなり脳で 詰まれば脳梗塞が起き、その部分の脳組織が壊死してしまい、私た ちは失語症になったり、半身不随になったりする。 資本主義も当初はマネーがモノを交換するための「手段」として流 通していたが、資本主義が成熟してゆくにつれて、いつの間にか「目 的」と化した。マネーの目的化はつまるところ全てを目的化させてし まい、私たちにあらゆるものの「本質」を見る目を喪失させた。 これは事実である。 そして、それが「供給=需要」という経済活動を必然的に生じさせ 、モノに溢れた社会が誕生した。「供給=需要」という経済活動は よくよく考えてみれば、「与えられた人生」を送ることになり、 そこには自主性や主体性はなくても私たちは「与えられたモノ」を 購入し、そこそこ無難な人生を送ることができる。 私たちが無難だと錯覚し、安心してしまうのは、周囲が皆「与えら れたモノ」である「同じモノ」を持っているからである。つまり私 たちは「与えられた、同じモノ」を持つことによって人生の安定や 幸福の尺度をはかっていた可能性がある。「供給=需要」という経 済活動では、人間の欲求すらも本質から遠ざけてしまうということ である。 本当に自分が欲しいモノだったのか、他人が持っているから欲しい のか、テレビコマーシャルで見たから欲しくなったのか、売り込み にきたから購入したのか、ないと困るほどではないがあって困るほ どでもないので購入したのか等、心から欲しているものではなく、 供給されたから需要したという構図が自然と生まれる。それを自分 の欲求があったから買ったと、私たちは錯覚しているにすぎない。 こうして私たちは「与えられた人生」を無難に安定して生きること で、「危機感」を抱くことなく日々を過ごし、人生を終える。人間の 三大欲求であり生きる基本の「食・性・寝」も既にこの「供給=需 要」という経済活動に組み込まれ、マネーの目的化とともに人間と しての本能を私たちは喪失しかけている。現代人はこの自覚すらも ないという悲しい状況におかれているのである。 しかし、マネーの目的化による「供給=需要」という経済活動では 経済成長が持続できないどころか、経済の空洞化を生み失業者を増 加させ、個人としての生きる活動が阻害されてしまう。そのことに 気づいたのが、今回の欧州連合憲法批准拒否の仏国民である。拡大 EUの存続に待ったをかけた格好となったが、「危機感」を抱いた彼 らの人間的本能はまだ廃れていないどころか、十分に健在である。 (中略)
ひるがえって日本を見れば、「供給=需要」人生が非常に行き届い ており、大人も子供も主体性をなくし、自信喪失し、想像力にも欠 け生きる気力も無い状態に置かれている。だから米国の言いなりに しか生きることができないのである。「供給=需要」という「与え られた人生」を送ることは確かに楽ではある。が、そこには「自分 」というものがない。この人生を生きる「自分」がないのである。 だから真の喜びや真の悲しみを味わうことはまずないだろうし、 そこそこ無難で安定した人生を送ることで「危機感」を覚えること もまずないだろう。実はそれこそが問題なのである。「危機感」を抱 くこともなければ、正直な話がまともに「自分」とは向き合えない。 「自分」という人間のこともわからずして終える自分の人生って一 体何??ということになる。 マネーが目的化されることで「供給=需要」という経済活動が必然 的に生じ、「与えられた人生」を送ることで私たちは主体性を失い 、自信を失い、生きる源泉ともいえる想像力までも失った。また、 そういう場所さえも失った。想像力を失えばこの世で実現する創造 物さえもなくなるのである。つまり来るべき未来が描けない。 「利潤なき経済社会」ではマネーを手段に転落させることで、資本主 義の論理が大きく揺らぐだけではなく、世界の構造が大きく転換し てしまう。これまで築き上げてきたもろもろが崩壊に直面している と言っても過言ではない。それは日本が明治維新以降追求してきた 西洋文明であるかもしれないし、合理化の名のもとに推進されてき た科学万能主義であるかもしれないし、それを基点とした物質文明 であるかもしれない。 「供給=需要」人生で「危機感」を抱くこともなくなった私たちが 、価値観の転換をはかることは容易にできそうもないのは明白だ。 しかし、マネーの目的化による「供給=需要」経済活動では世界は やがて行き詰まる。価値観の転換は時間も要するだろうが、案外石 油の枯渇がその契機になりはしないかと、私は密かに思っている。 その「危機感」が「自分」と真剣に向きあうことになり、それが男 女双方への理解へと向かわせる。そこから男女双方の想像力が生ま れ、それが創造力へとつながり実現化し、新しい未来が描けるとい うものである。 また別の文章、別のスレッドだったか忘れましたが、たしか利潤を求めない資本の活動と言うような言葉を聞かされ興味を持ちました。その件について下記の文章も紹介します。 利潤なき経済社会」とは 【「利潤なき経済社会」を生きる】 「利潤なき経済社会」とは (その2) あっしら 「匿名希望」氏のレスに基づき、「利潤なき経済社会」がどういう ものか再度説明したい。 >貴殿の言われる「利潤なき経済社会」と言うのは何となくイメー >ジすることはできますが、誤解の余地なく明確に把握し議論する >ためには、例えば次のような点をクリアに伝えるべきかも知れま >せん。 >1.利潤の定義(通常は総収入−総支出。貴殿は違う意味で使って >おられる。経常黒字との関連も指摘しておられるが、経常黒字は >「通常の意味での」利潤とは直接結び付かない。例えば利潤を生 >まない輸出もありうる。) >2.利潤が得られなくなる理由(今、ないし通常なら得られている >、という含意。今と何が変わるのか。) まず、「利潤なき経済社会」という表現のなかで使っている利潤は 、再資本化されない利潤を意味しており、間接的であれ再生産に向 けて投じられる利潤は、利潤ではなく資本化原資の拡大と捉えてい る。 (不況期は利潤として保有され、好況期になれば資本化されるとい うタイムラグ性ならこれまでもあった)
また、「利潤なき経済社会」でも、個別経済主体の利潤獲得可能性 は認めており、それに対立する国民経済としての利潤非存在を問題 視している。 「利潤なき経済社会」は、「匿名希望」氏の“総収入−総支出”を 援用するならば、国民経済が“総収入=総支出”になるということ である。(総支出=総収入が的確な表現) 以前からセイの法則を持ち出しているが、「供給が需要を生み出す 」という考えに基づけば、「供給がそのまま需要となる経済状況」 であり、(供給=総支出)=(需要=総収入)となる均衡状態であ る。 この均衡状態で前述した意味の利潤が発生すれば、国民経済は縮小 することになる。 国民経済内に“余剰通貨”が存在しない(もしくはそのまま放置さ れる)とすれば、個別経済主体レベルではなく国民経済が (供給=総支出)<(需要=総収入)という条件を満たすのは、 唯一、貿易収支が黒字のときだけであるから、国際取引(貿易)の 黒字は重要である。 具体的な説明としては、通貨ベースで(供給=総支出)=(需要= 総収入)であるのに、貿易黒字が財ベースの国内供給<総供給を生 みだすことで、通貨ベースの(供給=総支出)<(需要=総収入) が実現されることになる。 これであれば、財ベースの供給−国内供給が通貨ベースの供給<需 要のかたちで利潤となり、国内収入=国内需要=供給=総支出が輸 出分を含む再生産のための資本化必要額になるので、獲得した利潤 をどう使おうと国民経済が縮小することはない。 別の表現を使えば、供給成果財の一部を国民経済の外に出すことで 財1単位の価格が高くなり、それにより国内需要で供給=総支出に 見合う通貨が回収でき、外部国民経済から支払われる通貨的“富” を国民経済的利潤として獲得することができる。 究極的に国民経済的利潤が存在しなくなる理由は、偏に、貿易収支 の黒字がなくなることであるが、そこまで行き着かなくとも、近代 経済論理から生じる“余剰通貨”(利潤の非資本化)問題で国民経 済的利潤が存在しなくなる。 (供給=総支出)=<(需要=(国内収入+貿易黒字))もありえ るから、貿易収支が黒字であっても、必ずしも国民経済的利潤が獲 得できるわけではない。 このような経済状況は、供給力>供給になり、(供給=国内需要) +貿易黒字=<(総支出=非十全供給力)になることでも発生する。 供給力=供給であっても、投資されない貯蓄の増加や金融取引に滞 留する通貨の増加により生じる供給>需要のギャップが、貿易黒字 より大きければ同じであり、供給力>供給に陥る。 国民経済がデフレになるのは、国内需要+貿易黒字<(総支出=非 十全供給力)に陥ったときであり、供給力過剰をベースに、 供給>需要もしくは(かつ)貿易黒字不足に陥ったときと言える。 (供給=国内需要)+貿易黒字=<(総支出=非十全供給力)とい う国民経済に利潤が存在しない状態で個別経済主体が利潤を獲得す るとすれば、別の個別経済主体が、(供給=総支出)>(需要=総 収入)になることを意味する。 (供給と需要のズレによる“通貨の移転”である)
これが、現在的経済価値観に基づいて追求されれば災厄になるが、 最初に書いたように、利潤獲得者が何らかの方法で再資本化すれば 利潤ではなくなるのだから、需要動向に対応した産業構造の変動力 として作用することになる。 国民経済が経済成長を遂げる唯一の方法は、就業者人口が一定だと すれば、「労働価値」の上昇のみである。そして、「労働価値」上 昇=経済成長が近代経済論理(“資本の論理”)に適合するかたち でスムーズに持続できるのは、「労働価値」の上昇に連れて貿易収 支の黒字が増加する場合のみである。 貿易黒字の増加がなければ、「労働価値」の上昇は、同一量の財を 生産(供給)するために必要な労働力の減少を意味するので、デフ レ要因(財供給量>需要=供給)及び失業者増加要因(デフレ要因 の供給サイドへのリアクション)となり、デフレスパイラルに陥る。 ベースに供給力>供給>需要という構造があるから、デフレスパイ ラルは、供給力>供給のデフレギャップ部分をより拡大するため、 経済主体の破綻=不良債権の増加を招くことになる。
このような経済状況を解消する方法は、「労働価値」の上昇に応じ て財の供給量の増加につながらないかたちで供給を増加させて、 財供給量=需要=供給を実現させるしかない。 端的には、給与の増大である。 (財の供給量減少による調整は、単にさらなる低レベルでの財供給 量>需要=供給にシフトさせるだけである) 財政出動による需要の増加でも対応可能だが、赤字財政の拡大がで きないのであれば、それは増税で行わなければならない。その増税 も、資産税というストック課税ではなく、(黒字)法人税の増税で なければ、持続的に対応することはできない。(単発という割り切 りで資産に課税することは容認できるが...) (赤字)法人への課税強化は、破綻であれ自主的なものであれ供給 力の削減には寄与するが、供給力と同時に供給=需要の削減と先行 き不安感による需要削減をもたらすので、問題(デフレ不況)を解 決しない。 需要サイドで解決を図るのであれば、政府が“国内で資本化しない ”個別経済主体の利潤をできるだけ吸い上げる政策を採らなければ 、デフレスパイラルから脱することはできない。 “国内で資本化しない”利潤を保有している個別経済主体は、政府 に吸い上げられるか、自ら従業者の給与を上げるかしなければ、デ フレスパイラルのなかで自らの経営基盤も劣化させていくことにな る。 (引用終わり) 新しい資本主義の形を模索するにおいて、このような需要と供給の問題を克服しなければなりません。 どちらかと言えば、従来の「需要と供給」の関係を示す方程式を変える必要もあるのです。 今後の話しを理解していただくために資料を紹介しました。
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