73. 2014年5月26日 04:34:37
: LupXF6wM06
茶魔氏この分野は、どこの資料を当たっても出てこないぜ。 右から左の翻訳家では、大変だろうから、下にヒントを与えておく。 硬い頭で、解るかなあ、 通貨とは 金貨、銀貨であった頃の通貨は、通貨自体に交換価値があったので、この時代の通貨は別の範囲とします。 現代社会の通過とは 1 それで欲しいものと交換できる。 2 通貨は冨(生活の保証)の保存手段である。 3 通貨自体が利殖の対象となりえる。 4 通貨は、それ自体、増産できる。 5 上記の機能を保持する為に、通貨の管理には運用責任者が必要である。 >1 それで欲しいものと交換できる。 通貨の始原的な機能であり、共生社会の根源を作ってきた。 >2 通貨は冨(生活の保証)の保存手段である。 人間の気力を醸成し、社会の発展の原動力となって来た。 >3 通貨自体が利殖の対象となりえる。 資本主義経済のシステムの中核の論理で、これゆえに経済は驚異的な発展をしてきた。 >4 通貨は、それ自体、増産できる。 究極の経済理念として、未来社会の構築の根本原理。 生産手段の発達に伴い働く必要のない人間が増えすぎると、そうした人間を抹殺するか、救済するかの判断が迫られる。 救済するならば、当然、働かなくても生きて行ける為に、商品の交換手段としての通貨を配布する必要がでてくる。 この通貨は、経済活動の媒体としての通貨からは捻出できない。 >5 上記の機能を保持する為に、通貨の管理には運用責任者が必要である。 前、4項目を維持する為には、従来よりも一層の通貨管理の体制が必要になる。個人的な理由で通貨を発行する事の無い様に厳しく管理する必要がある(管理社会)。 前、4、5の項目により、通貨の概念は、需要と供給の媒体として存在してきた通貨の本質を転換させるものである。 >通貨の概念は、需要と供給の媒体として存在してきた通貨の本質を転換させるものである。 生産手段の発達とグローバル化した経済の影響で、通貨を必ずしも万民が手にする事が出来なくなった現在、旧来の意味での通貨のあり様では、社会(共生)が維持できなくなっている。 要するに何万年も続いた通過を媒体とした経済のシステムを一部、考え直さねばならなくなっている。 で、無ければ、下記の選択をせざるを得なくなるのである。 >生産手段の発達に伴い働く必要のない人間が増えすぎると、そうした人間を抹殺するか、救済するかの判断が迫られる。 もはや、冨の再配分と言った手法では追いつかなくなっているのである。 福祉政策で救済するにも、あまりにも大量の被救済人口が発生するのである。 現行の通貨制度を続ける限り、この傾向は嫌が上にも深刻になるのであるが、冨に目が眩んだ多くの人々は現行の通貨制度を変える事など思いもよらない。 こういう状況の打開策として、ワークシェアリングやベーシック・インカムの構想が語られているが、特に、ベーシック・インカムは、それで人間の生命は補償できても、働かずに生活できると言うことが通常のものとなると、トンでもない人間精神の破壊が起こり、これも何万年築いてきた倫理、道徳が破壊される。 考えて見れば判ること、犯罪を起こしても刑期を終えれば生活に不自由はなく、世界中に怠惰の嵐が渦巻く事になる。 真摯に考え、生活する人が少なくなり、そういう風潮が健全な生活を送ろうとする人たちにも、影響を与える。 飢餓で死ぬか、腐乱した世界で生きるか、そんな選択などしたくはない。 ワークシュアリングも同じようなもの。 適当に、お茶を濁す程度の働きで生活を保証されるなど、同じように人間精神の弛緩を引き起こす。 人間が人間性を保ち、人間らしく、今まで通り共生できるのは、人間、一生懸命に働いてこそ生活が成り立つものだと言う大前提を覆してはいけない。 この事は、貧困を考えるよりも、もっと重要なことなのである。 人口の1/3がベーシック・インカムで生活し、一生、休日の様な人生を送るとすれば、どのような事が起きるか考えていただきたい。 そりゃ、当分の間は、旅行をしたり、ゴルフや釣りを楽しめばよいが、年がら年中と言えば意味が違って来るでしょう。 たとえ1割の人口をベーシック・インカムで生活させるとなると、結局は、それではすまなくなるのも人間性である。 随分と長い前置きの後で、主張したいのは、生産手段の発達などで、どうしても仕事が得られない人々に、国家が仕事を与えると言う政策です。 これならば、とりあえず仕事をしなければ食べるための通貨を手にする事は出来ません。 人間、働かねば生きて行けないと言う大原則は守れます。 ですが、その仕事は民間の市場主義経済のシステムの中からは生まれて来ません。 仕事、そのものは、国家が考えれば、特に国作りと言う観点からは無尽蔵と言ってよいほど選ぶ事が出きます。 問題は、その財源ですが、この部分について通貨の増刷(ある意味ヘリマネ)が必要になると言う事です。 ところが現代の金融理論からは、通貨の意図的、無制限な増刷は金融管理、そのものに支障をきたすと言う事になっています。 ですが、本当に決定的な支障をきたすか、否かの検証が必要十分になされているとは思いません。 特に通貨の概念までも遡った角度からの検証など、する気もないようです。 しかしながら通貨の増刷と言っても、それが具体的な仕事を通しての配分であれば、取り入れる事が可能ではないかと思います。 ただし、通貨の増刷による事業が、市場を構成する産業の分野に著しい影響を与えるものではいけないでしょう。 「公共事業」と言うことを言っているのはこのためです。 公共事業が増えても、それは民業を圧迫することにはなりません。 通貨の増刷による公共事業と言っても発注形態、工事費などは、従来と同じように市場主義の理論によって運用するのです。 もう一つの通貨の増刷、配分のことを言って起きましょう。 それは年金の支給を通貨の増刷で賄うのです。 これも年金を受給できる年代までは真面目に働いていただき、現役をリタイアされた後のベーシック・インカムであれば、先に言ったような弊害は起きません。 ともかく、通貨のありようの中に、このような機能を持たせる事は可能と思います。 現実の市場主義経済を続けながら、これを並存させることは可能と判断します。 ただ、その様に経済界を含めて通貨に対する認識を改める必要があります。 これが、新しい通貨の概念です。 |