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2014年05月23日
“菅スダレ”が、筆者の“ゲシュタポ、ゲッペルス”の罵倒に耐えられずに弁明したわけではないが、「吉田調書」は、故吉田氏の遺言だから「吉田元所長を含めヒアリングは公開しない」と強い姿勢で強弁していた。しかし、昨日、ご遺族の意向があれば公開も可能と質問に答えていた。あまりにも多くの批判が集中、自民党内からも異論が噴出した。そのような事情で、理論構成よりも、その場の雰囲気を重用する菅らしい発言が飛び出し、一歩退く姿勢を見せた。
しかし菅スダレは、「政府としてはやはり故人との信頼関係があるので守らざるを得ない。少なくとも政府としては難しい」と語った。つまり、吉田調書の公開をするには、ご遺族の同意が必要であり、政府としてお願いすることは控えたいと言ってる。しかし、「吉田調書」なるものが、治外法権措置が加えられているとしても、政府事故調のデータがプライベートな調書と断言できる代物かどうか、少なくともスダレに決めてもらうわけにはいかない。菅すだれの言葉じりを捉えれば、故吉田所長のご遺族に、責任を押しつけると云う鬼畜で卑怯な弁明を行ったと言える。
この菅官房長官の発言を報道している新聞社は、筆者がざっと眺めた限り、朝日新聞だけだった。これが日本の新聞社の矜持だとすると、あまりにも情けない。おそらく、朝日の大スクープに対して、読売、毎日、産経等の社会部記者は、“特オチ”したようなもので、話題にも触れたくなくなっているのだろう。つまり、不貞腐れ「吉田調書」に関して、永遠にほお被りしてしまえ、と云う肝っ玉の小ささなのだろう。あまりにも子供じみている。「故吉田所長の証言に、カクカクシカジカの齟齬アリ」のスクープで名誉挽回する根性もなさそうだ(笑)。
読売新聞などは、社会政治国際面は、リーク情報や20世紀の常識に頼り過ぎ、スポーツ(読売巨人軍)芸能欄以外は、読むべき紙面がないと云うあり様だが、“トンデモ社説”で、八つ当たりでもするしかないようだ。「大飯原発差し止め訴訟」に関する福井地裁の判決が出たのは知っているが、「再稼働訴訟」なんて言葉は聞いたこともない(笑)。まぁ漢字の読めない読者への心配りに注力した歴史を持つ新聞社だけに、B、C、D層への影響力には、侮れないものがある。しかし、ヤケッパチノ八つ当たり社説で、文学的趣があるのは否めないが、「文明」と云うものの価値を、既得権益層が駆使する「普遍的価値」にあらず、と云う判決文は、歴史に残るものだ。
不思議でならないが、なぜこのような新聞社(読売新聞)が世界一の発行部数を誇っているのだろうか。まず初めに世界ランキングによると、人口1000人当たりの新聞発行部数が、ルクセンブルグ、スイスに次いで第三位(431部)で、新聞読者数の多い国と云う事情がある。このランキングを眺めると北欧を中心に新聞はよく読まれている。東アジア地域、米国もそこそこ読まれている。アフリカ大陸、南米大陸は、総じて新聞購読者の数は少ない。東欧も新聞購読の習慣は少なく、ルーマニア42部、ウクライナ64部で、上位ランキング国の1割の人々しか、新聞に馴染んでいない。
つまり、先ずは新聞を読む人が多いと云う前提がある。また、新聞業界は寡占化が顕著で、読売、朝日が両巨頭状態で、毎日、日経が追う展開だが、販売部数に関しては上位二社が独占している。地方紙もあることはあるが、大健闘してるのは中日(東京)新聞くらいのものである。このような統計の数字から、国民の知的レベルを短絡的に推し量るのは、一部では当たるが、一部では外れるので、早とちりしない方がいい。読売、朝日、毎日、産経、日経が全国紙だが、この日本の新聞社をコントロール下におけば、プロパガンダは容易に行えるので、危険思想や統計データのねつ造操作など、超簡単になるのだ。
安倍晋三や一部識者の主張だと、世界には「普遍的価値」が存在するらしいが、「普遍的」と云う言葉は、“真理”に近いニアンスを持つので、政治的には使ってはいけない言葉である。安倍らが言うところの「普遍的価値」など、賞味期限付きマヤカシの語彙であり、確信的価値のように振舞っているが、100年、200年で変化するものには、普遍性はあり得ない。ところが、このような欺瞞に満ちた言葉のメッセージを、5大全国紙の幹部らと毎月定例的に酒を酌み交わし、親交を深めると同時に、圧力や統制、恫喝を加えることが容易になるのが、日本の新聞事情だと言えるだろう。
「いまさら、抗えない」と云う「意図的空気」の醸成が容易なので、危険な国民を育てるし、危険な国家になる可能性が高まる。国民総動員体制を構築するのに適したメディアの状況が、日本のマスメディアの重大な欠陥なのである。多くの場合、霞が関が考え出した「記者クラブ」のシステムまで加わるのだから、国民を誤誘導することは、非常に簡単だ。このような馬鹿げたシステムは、霞が関の垂直統制である、中央集権体制をより盤石なものにしてしまう。ゆえに、金太郎飴な記事が散乱し、読者は益々「政府の嘘」に騙されざるを得ない。
そういう観点から見ていくと、マスメディアが発達していない国の国民は、共同体を通じて情報をキャッチアップせざるを得ない。新聞の購読数が1000人当たり低くても、地域に根差したコミュニティが存在すれば、そのコミュニティにとって、必要な情報はキャッチアップ出来るし、その情報を咀嚼するために、自ら考える力も、自然に身につけるしかなくなる。そこにこそ、地域や個人の意思の自立があるわけで、一概に新聞購読率の低さが、その国の人々の知識や教養と密接に関係していると云うような事はない。
世界には、それぞれの国が、それぞれの歴史的過程を経て、多様な価値観を生みだしている。それらの価値観に共通するものが見いだせれば、それには普遍性に近いものがあるが、現実の世界では、共通の最大公約項目を見いだせているとは言い難い。インドでは、200紙近い新聞が発行されており、その多くが零細新聞社だが、すべてが個性的である。また、何らかの共同体において、回し読みが日常化し、この記事をどう思うか、と議論する場を提供もする。単に、貧乏だから買えないのだろう、と云ったクダラヌ結論を出すべきではない。まぁコラム上に載せるのも羞恥だが、読売新聞のBCD層に向けた社説を読んでおいてもらおう。このような社説が書けるのが、漢字の読めない層を狙って新聞を発行した「ルビ新聞」の真骨頂である。
しかし、「読み売り」(読売)とは、まさに“名は体を表す”の典型のようだ(笑)。読売とは、goo辞書によると、≪よみ‐うり【読(み)売り】 江戸時代、世間の出来事を速報した瓦版1枚または数枚刷りの印刷物を、内容を読み聞かせながら売り歩いたこと。また、その人。≫と云うことのようだ。Wikipediaによると、読売の歴史の解説の中に『1874年11月2日 合名会社「日就社」から「讀賣新聞」創刊。初代社長は岐阜県出身の子安峻[3]。創刊当時は漢字によみがなを振った画期的な庶民のための新聞だった。』今も変わらず芸能スポーツ情報に力が入る新聞だが、マーケッティングは正しかったといえる(笑)。
≪ 大飯再稼働訴訟 不合理な推論が導く否定判決 読売新聞社説
「ゼロリスク」に囚われた、あまりに不合理な判決である。
定期検査のため停止している関西電力大飯原子力発電所3、4号機について、福井地裁が運転再開の差し止めを命じる判決を言い渡した。原発の周辺住民らの訴えを認めたものだ。
判決は、関電側が主張している大飯原発の安全対策について、「確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに成り立ち得る脆弱なもの」との見方を示し、具体的な危険があると判断した。
「福島第一原発の事故原因が確定できていない」ため、関電は、トラブル時に事態把握や適切な対応策がとれないことは「明らか」とも一方的に断じた。
昨年7月に施行された原発の新たな規制基準を無視し、科学的知見にも乏しい。
判決が、どれほどの規模の地震が起きるかは「仮説」であり、いくら大きな地震を想定しても、それを「超える地震が来ないという確たる根拠はない」と強調した点も、理解しがたい。
非現実的な考え方に基づけば、安全対策も講じようがない。
大飯原発は、福島第一原発事故を受けて国内の全原発が停止した後、当時の野田首相の政治判断で2012年7月に再稼働した。順調に運転し、昨年9月からは定期検査に入っている。
関電は規制委に対し、大飯原発3、4号機が新規制基準に適合しているかどうかの審査を申請している。規制委は、敷地内の活断層の存在も否定しており、審査は大詰めに差し掛かっている。
別の住民グループが同様に再稼働の差し止めを求めた仮処分の即時抗告審では、大阪高裁が9日、申し立てを却下した。
規制委の安全審査が続いていることを考慮し、「その結論の前に裁判所が差し止めの必要性を認めるのは相当ではない」という理由からだ。常識的な判断である。
最高裁は1992年の伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、「極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」との見解を示している。
原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった。各地で起こされた原発関連訴訟の判決には、最高裁の考え方が反映されてきた。
福井地裁判決が最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである。関電は控訴する方針だ。上級審には合理的な判断を求めたい。 ≫(The Yomiuri Shimbun )
安冨歩氏が読売の社説を読んでツイートしていた。 『こりゃすごい。あまりにも不合理な社説に、呆気にとられる。あとで、分析する。』だそうであるが、科学的根拠に乏しいのは読売の社説の方であり、文明と云うものへの理解があまりにも酷薄だ。筆者も後日、福井地裁の判決文をじっくり読んで、読売の社説の軽佻浮薄をあらためて指摘しよう。本日はこの辺で失礼。おそらく、読売の歴史に残る、迷社説として、社史に残るに違いない。
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