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とうとう安倍首相は「戦後レジームからの脱却」路線の最終段階に突入したようだ。
各種の世論調査では、安倍悲願の「9条改憲」は軒並み「9条護憲」よりも少ない。とても過半数には届かない。
したがって、安倍は、国民投票による改憲がそう簡単にはできないと見て、いわゆる「解釈改憲」へと踏み込んだ。総理大臣という地位にあるのだから「自分の一存で、これまでの憲法解釈を一変できる」という、歴代内閣が考えもしなかった主張である。
この気分高揚ぶりは、いったいどこから来るのだろうか?
5月15日、例の安倍首相の“私的”諮問機関である「安保法制懇」の報告書提出を受けての記者会見では、妙なイラストを示して、いかに集団的自衛権行使が必要なのかを述べていた。
だが、この“報告書”にどんな公的な権威があるというのか?
このコラムでも何度も繰り返したけれど、安保法制懇は安倍が勝手に選んだ仲良しグループのあくまで“私的”な集まりである。その私的な集団が「解釈改憲をすべきだ」と、安倍の意に沿った報告書なる文書を安倍に提出したとしても、それは政府や国会を縛る公的な意味を持つものでは決してない。ところが安倍は、まるでそれが“公的権威”を持つ文書のごとく扱い、その内容に従って「解釈改憲」に踏み込もうとしている。
どう考えても、おかしい。
国会の承認を得た人選による諮問委員会であるならともかく、首相個人の好みで集められた懇談会が、なぜ政治にここまで口をさしはさむことができるのか。この懇談会は14人全員が“改憲派”で、しかも憲法学者は改憲派の西修・駒大名誉教授1人だけというまさにいびつな構成なのである。
各社の調査では、特に「9条改憲」に関しては反対のほうが多い。であれば、少なくとも、全員が改憲派などという人員構成はおかしい。“出来レース”と批判されても当然だろう。
これに関して、こんな記事があった(東京新聞5月14日付)。
政府は十三日の閣議で集団的自衛権の行使容認に向けた解釈改憲を議論している安倍晋三首相の私的諮問会議「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)について、「深い見識を有する者で構成しており、『偏ったメンバー』で議論されているとの指摘は当たらない」とする答弁書を決定した。
社民党の福島瑞穂副党首の質問主意書に答えた。福島氏は主意書で「解釈改憲に誰ひとり異論を唱えないメンバー構成で議論するやり方は、著しく公平性を欠く。人選の基準が不適切だ」と指摘していた。(略)
政府も三月には別の議員の主意書に対し、法制懇では集団的自衛権の行使容認に反対する意見は出ていないと回答し、「容認ありき」の検討作業を自ら認めていた。(略)
まったく反対意見が出ていない懇談会が、「偏ったメンバーではない」というのは、いくらなんでもひどすぎる。この内閣は議員の質問にきちんと真正面から答えようなどと、まったく考えていない。「多数は正義」という、ほとんど議論抜きの政治運営なのだ。
こういう政治を、普通は「独裁」という。
これまで、政府内部から多少の抵抗をしてきた機関も、もはやほぼ骨抜き状態のようだ。
数多くのトラブルの種を撒き散らしてきた小松一郎内閣法制局長官が、5月15日に、病気治療のために辞任した。その後任には、横畠裕介法制局次長が昇格した。
内閣法制局は「法の番人」とも呼ばれ、これまで集団的自衛権に関しては「持ってはいるが、使うのは憲法に違反する」として、集団的自衛権行使の歯止めになってきた。それを嫌った安倍は、強引に従来の慣例(法制局内部から次長が昇格するという暗黙のルール)を破り、バリバリの改憲論者である小松氏をむりやり長官に任命したという経緯がある。
では、後任の横畠氏はどうなのか。歴代長官のように、歯止めになり得るのか。どうも怪しい。東京新聞(16日夕刊)がこう書いている。
(略)横畠氏は解釈改憲に関し記者団に「およそ不可能という前提には立っていない。遅れることなく、しっかり研究していきたい」と集団的自衛権の行使容認をにらみ前向きに検討する考えを示した。(略)
何のことはない。蛇ににらまれた蛙、もう骨を抜かれちまっている。
本来ならば、小松氏ではなく長官に昇格するはずだった横畠氏、「言うことを聞かなければ、また外部から長官を連れてくるぞ」とでも脅されたのだろうか、法制局長官就任が決まったとたん「不可能という前提に立たない」と、いかにも官僚的言い回しで“集団的自衛権行使容認”を認めてしまったかのようだ。これで歯止めは崩れた…。
それにしても、興奮状態の安倍首相の記者会見はすごかった。例の舌足らずな早口がさらに速度を増し、妙なパネルを持ち出して、これまで言及しなかった事例を矢継ぎ早に挙げはじめた。
赤ちゃんを抱きかかえたお母さんや、不安気に寄り添う子どものイラスト。まさに“泣き落とし”の講釈師だ。
ことに強調したのは、こんなこと(毎日新聞5月16日付から)。
いまや、海外に住む日本人は150万人、年間1800万人が海外へ出かけていく時代。その場所で突然、紛争が起こることも考えられる。そこから逃げようとする日本人を同盟国の米国が救助・輸送しているとき、日本近海で攻撃があるかもしれない。このような場合でも、日本人自身が攻撃を受けていなければ、米国の船を自衛隊は守ることができない。これが現在の憲法解釈だ。(略)
みなさんが、あるいはみなさんのお子さんやお孫さんがその場所にいるかもしれない。命を守るべき責任を負っている私や日本政府は本当に「何もできない」でいいのか。
これまでにはなかった例を挙げ、国民の情緒に訴える。安倍の言い分だけを聞いていれば、なるほど、と思うかもしれない。しかし、かつて海外で日本人が危険に巻き込まれた事態はあったけれど、米軍に救助されたことなど一度もない。
軍事ジャーナリストの田岡俊次さんによれば「米軍が救助する順序は決まっていて、第一が米国人、次に米国の市民権を持った人、ヨーロッパの同盟国人、日本人は多分、その後になる」という。
この事例については、東京新聞の半田滋編集委員も疑問を呈している。
「安保法制懇は、1年以上かけて集団的自衛権に該当する事例を検討し、15日公表されましたが、邦人輸送をする米軍の防護は含まれていません。会見近くになって、どんな事例なら国民の共感を呼ぶか官僚に考えさせたのかもしれません」
感情論で訴える。もしこれが官僚の入れ知恵なら、それを受け入れた安倍首相の底の浅さも悲しい。
しかも、このような事例は、これまで個別的自衛権で対応可能とされてきたもの。なぜ急に、これが“集団的”自衛権のための説明に用いられるのか、その理由が分からない。ひたすら集団的自衛権行使容認で、アメリカと一体になって戦いたい、という願望が噴出した感じだ。
安倍はいわゆる「グレーゾーン」を適用範囲に入れることで、なし崩し的に「集団的自衛権行使の容認」に踏み込みたい考えのようだ。
では、グレーゾーンとはどのようなことか。朝日新聞(15日付)は、こう説明している。
グレーゾーン事態
武力攻撃とまでは言えない緊急事態を指す。自衛隊法では、外国から明確な武力攻撃があった場合は自衛隊が「防護出動」して反撃できるが、それ以外のケースでは警察権での対応になる。政府が問題にしているのは、尖閣諸島への武装集団の上陸や、領海で潜没する潜水艦が退去要請に応じないケース。海上保安庁の装備や、今の自衛隊の権限では強制的に排除できない可能性がある。こうした事態への対処のために、自衛隊法の改正が検討されている。
つまり、これまでは「警察権での対応」とされていたものが、一気に自衛隊による軍事的対応に格上げ(?)されるということ。
これが安倍の強調する「積極的平和主義」ということらしい。事実、この記者会見ではたった30分間で20回も“平和”という言葉を連発している。「平和のためには戦争も」という、倒錯したリクツである。
さすがに、公明党の抵抗は強いようだ。なにしろ支持母体の創価学会広報室が「解釈改憲には反対」とする明確なコメントを発表したのだから、そう簡単に安倍路線に乗るわけにはいかなくなった。
創価学会はこれまで、幹部が記者の質問に答えるという形で、何らかの意見表明を行っていたけれど、今回のように明確な文章での「コメント」を発表したことはないという。コメントはこうだ。
私どもの集団的自衛権に関する基本的な考え方は、これまで積み上げられてきた憲法第9条についての政府見解を支持しております。したがって、集団的自衛権を限定的にせよ行使するという場合には、本来、憲法改正手続きを経るべきだと思っております。集団的自衛権の問題に関しては、今後の協議を見守っておりますが、国民を交えた、慎重の上にも慎重を期した議論によって、歴史の評価に耐えうる賢明な結論を出されることを望みます。
ただし、公明党はグレーゾーンの検討には応じるとしている。ちいさな穴が次第に広がり、やがてグレーから真っ黒なところまで進んでいかないかと心配になる。
石破茂自民党幹事長は、「将来のこと」と断ってはいるが、武力行使を伴う多国籍軍への参加まで視野に入れた発言をしている。つまり、イラク戦争やアフガン戦争などのように多国籍軍が形成されれば、そこへの参加もあり得る、ということだ。
公明党はいわゆる「駆けつけ警護」は認める方針のようだが、そうなれば、実質的に戦闘行動に入ることになり、やがて多国籍軍参加も議論されるようになるかもしれない。キナ臭さは増すばかりだ。
毎日新聞(19日夕刊)で、作家の半藤一利さんが静かだが、憤りを込めて安倍政権への危惧を語っている。「今が『引き返せぬ地点』(ノー・リターン・ポイント)」だという。…。
(略)小さな手書きのメモには、1938年の国家総動員法第4条の条文が。〔勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民ヲ徴用シテ総動員業務ニ従事セシムルコトヲ得…〕
「運用次第で何でもできる条文です。1万人を徴用することも、24時間働かせることも。この法を境に日本は『戦時国家』となり、国民生活が大きく変わった。法を盾に右翼が非好戦的な人を『非国民』となじり始めた」(略)
「いつか今を振り返った時、特定秘密保護法も転機と語られるかもしれない。まして今回の解釈改憲は、運用次第でどうにでもできる新法を作るのと同じ。時の政府に何だって許してしまう。70年間、戦争で人を殺しも殺されもしなかったこの国の国際的信頼という国益を手放し、国のかたちを変えてしまう」
つまり、解釈改憲こそが私たちの「ノー・リターン・ポイント」だと?
静かにうなずいた。(略)
解釈改憲の先のかたちを問うと、「私は死んでますから」とけむに巻かれた。それでも「死んだ後のこの国は」としつこく食い下がったら、半藤さんは一瞬、真顔になり、言葉に力を込め、「だからこそ、生きている間はそうはさせねえぞ、って」。次の瞬間、笑顔に戻り「でもそれは口に出すことではない。ひそかに思っていればいいことです」と言い添えた。(略)
半藤さんの言葉を噛みしめる。
そして、僕に何ができるか…とも。
http://www.magazine9.jp/article/osanpo/12651/
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