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今ほど中村哲(ペシャワール会)医師の言葉を謹聴すべき時はない!
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以下は「岩波ブックレット」からの転載。
中村 哲(1946年、福岡生まれ。医師)
半世紀、他国に戦争をしかけなかった国
更新日時:2005.09.15 Thu.
実は、20年前にはじめて現地アフガニスタンに行くまでは、憲法に対して、ばくぜんと「守らねばならぬもの」
感じていただけでした。ですが、現地では、その後ずっと、吾が身のほうが「憲法9条」に実際に守られてきた事を肌身に感じています。中東においては、第二次世界大戦中に、日本の占領など、直接の被害に遭わなかったこともあり、広島、長崎の被害への同情だけではな、戦後、復興を遂げたアジアの国として、日本は一種の憧れの対象でした。また、その後の歴史のなかでも、はぶりのいい国というのはたいてい、戦争をするものだけれど、半世紀にわたり、経済的な豊かさにもかかわらず、他国に戦争をしかけなかった国、平和の国・日本として、親近感を持たれてきました。
つまり、実際に、戦争をしない国・日本の人間である、日本人である、ということに守られて仕事が出来た、ということが数限りなくあったのです。「9条」というものを現地の人は実際には知りません。しかし、現実として「平和の国・日本」というイメージが浸透していたのは、意識・無意識の別なく、国の方針としての9条の精神、「交戦しない国・日本」が伝わっていたからだと思います。日本人であるから命拾いをした、助けてもらったというのも、9条のおかげだと思っています。それが、自衛隊の海外派兵が始まってから、雲行きが怪しくなってきました。日本人だから守られてきたのに、日本人だから命を狙われる、という妙な事態になってきた・・・。そのうえ9条に手をつけるとなれば、現地の人はいったい、どう思うでしょう。それが現地の人にメッセージとして、どう伝わるか、よくよく考えるべきことです。
9条を変えて「軍隊を派兵できる普通の国になるべきだ」という論理の、その「普通の国」の意味がよくわかりませんね。そんなことを言うのは、“平和ボケ”した、戦争を知らない人たちの意見なのではないでしょうか。改憲したい、という人々は、戦争の実態を、身をもって体験していない人なのではないか、と思いますよ。よく、理想だけではやっていけない、ちゃんと現実を見なければ、と言いますが、それこそが“平和ボケ”の最たるものです。それは、マンガや空想の世界でしか人の生死の実感をもてない、想像力や理想を書いた人の言う事です。現実を言うなら、武器を持ってしまったら、必ず、人を傷つけ殺すことになるのです。そして、アフガニスタンやイラクで起こっているように、人が殺し合い、傷つけあう事の悲惨さを少しでも知っていたなら、武器を持ちたい、などと考えるわけがありません。
武器がなければ貢献できない?
国際貢献をしたいのなら、いろんなやり方があります。それは、本来、武力とは何の関係もない。理論的に考えても、「軍隊を持ってする支援」なんてあり得ません。私はアフガニスタンで、灌漑事業を進めていますが、別に軍隊に守られて作業しているわけではありません。逆に、派兵している国の事業は攻撃対象になって、作業は難航している。普通に考えたら、分かることだと思います。武力に守られた支援が、歓迎されるでしょうか。一つの例をあげます。
私たちが作業している用水路と並行して、米軍の軍事道路を作っているトルコの団体があります。それは、兵隊に守られながら工事をしていますが、これも住民の攻撃対象になっています。トルコ人の誘拐・殺害が残念ながら後を絶たない。現実を知らないから「軍隊に守られるのは危険」とか「軍隊そのものが危険」という認識がもてないんです。「丸腰の強さ」を現地にいると痛感します。現実的に、今の平和憲法をどうすればいいか。とにかくいじらず、その精神を生かす努力をすべきです。他国との関係を考えても、経済的なことを考えても、それが現実的でしょう。軍隊をもつこと、軍隊を動かすことが、いかにお金のかかることか、アメリカを見ればわかります。アメリカの財政が破綻していることは、明らかですしね。国家の使命とは、「国民を守ること」です。自国の人の命を危険にさらし、他国の人の命も危険にさらすことは、国家の使命と逆行します。なぜ憲法9条が受け入れられたか、それをよくよく考えましょう。憲法9条をないがしろにすることは、自国民だけでも300万という、大きな犠牲――そして、アジア全体で考えると、2000万という寛大な犠牲――を払った、その死をコケにすることです。
いま、日本の評価は中東で「アメリカに原爆を落とされた気の毒な、しかし努力して復興した国」から「アメリカ同盟国(軍)」へと変化しつつあります。いずれ、他の同盟国と同じ運命をたどる事になるでしょう。
まだいまは、日本に憧れ、尊敬してきてくれた世代が社会の中堅にいますが、この次の世代からはもう、日本の見方が変わります。おそらくアメリカと同様に攻撃の対象になるのではないか、と思わざるをえません。日米同盟がないと生きのびられない、という言説もきちんと考える必要がありますね。目先の利害だけに囚われると見えるものも見えなくなってしまいます。国を挙げて錯覚しているのではないでしょうか。第二次世界大戦の際、「満蒙は日本の生命線」だと、国も国民も信じたし、信じ込まされていた。文字通り国を挙げて錯覚していたのです。そのときといまと、まったく同じことを繰り返していると、言えないでしょうか。同盟国との、その瞬間の関係を保つ事や、単なる景気回復など、一時の利害のために憲法に手をつけるのは、破局への入り口だと断言してもいい。
すべての戦争は「守るため」に始まる
現実論として、「憲法で禁じられているから出兵しない」というのは、誰に対しても非常に説得力のある答えでしょうか。攻められたときの防御が必要だ、という意見もあります。その時に戦えなければいけないから武力を持つべきだ、と。
しかし、これまでのどんな戦争も「守るため」という名目で外に出て行って、非道なことをしているんです。悪い事を始める時に本当のことを言って始めるわけじゃないんです。大義名分を押し当てて始める。それが現実なんです。
戦争もつきつめれば、外交手段の一つです。9条の主旨はつまり、武力による外交手段を放棄する、というものですね。ということは、武力に頼らない外交手段を、あらゆる手を尽くして模索する、という宣言もあるんです。それをきちんと果たしてきただろうか。それがまず、大きな疑問ですね。
つい10年くらい前までは、直接の戦争体験者がたくさんいたので、自民党だろうが、共産党だろうが、戦争の現実を知っていた。だから、主義・主張によって、9条の運用の仕方については、対立はあったけれど、その共通の土壌を崩すことがどれほど危険なことか、本能的に自明の合意のようなものがあったと思うのです。
戦後ずっと自分たちが守られてきた、その枠組み。そのなかに育ち、戦争を知らなくても、普通の考え方をしていたら、死ぬのがイヤなら、殺すのもイヤだと思うはず。
そのあたりは、人の命の尊さについての感覚が希薄になってきているんじゃないでしょうか。
安全性だとか、防犯だとかということには、過敏になってとやかく言うのに、そのおおもとをないがしろにしている。議員も含め、自分さえよければいい、という奇妙な考え方のように思えてならない・・・。
そういうことを放置しておいて、つまり自分の国もきちんと治められないのに、外に出てゆきたい、国際貢献をしたい、というのも疑問ですね。太平洋戦争の際も、「大東亜共栄圏」を唱え、「東洋平和」を叫んで出て行きました。そのときにも、いわば「国際貢献」を旗印にしたのです。
軍事力を備え、戦争で何が達成できるか、というと、目先の利害に過ぎないのです。あるいは、ちっぽけな民族的な誇りだったり。
アメリカの作ったものの押し付けだとか、いろいろな事がいわれますが、日本があの憲法を受け入れたのは、何より、大きな大きな犠牲を払ったそのうえでの一つの結論だったのです。その、ご先祖さまの大きな犠牲の上に築いた、一つの大きな結論を、簡単に崩していいのでしょうか。
改憲派は「日本のために、日本人自身で作る憲法を」と言いますが、それこそ、その後先祖様に対して、失礼な言い分だと思いますよ。
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