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集団的自衛権を、あたかも個別的自衛権の自然な延長線上にあるかのように説明するのは、フェアではない。国連憲章51条の起草過程で、米側がねじ込んできた定式であり、その実体は攻守同盟である。「同盟」は明確に「敵」の存在を前提にしているという点で、急迫不正の侵害に対する個別的自衛権とは、そもそも論理構造が異なっている。安倍内閣は、このタイミングで、公式に北東アジアを「敵・味方」に二分しようとしているのである。
これは、憲法9条が想定する国際関係観からの大転換であり、ひとたび渡れば引き返せないルビコン川を渡るにひとしい選択である。それなのに、防衛力不足を米軍によって補充すること自体を否定はしなかったというだけの「砂川判決」を論拠にして正当化を試みたり、「限定容認」のレトリックを用いたりして、事柄の重大性を糊塗(こと)しようとした。これだけ大きな選択をするのであれば、きちんと手続きを踏むのは当然だ。
それにもかかわらず、現政権は、手続きそのものを破壊する。当初は憲法改正手続き(憲法96条)を改正して、憲法改正の発議要件のハードルを下げようとし、それが難しいとみれば、政府解釈の変更という便法に走り、安倍首相の個人人気に頼って力押しする。そうした政府の姿勢は、憲法が前提とする立憲デモクラシーのあり方に反している。
近代的な意味での立憲主義は、集権化された国家権力を前提にしており、本来は力で国民を圧倒できるはずの統治権力が、自ら進んで自分を縛ることによって成り立っている。そのことにより、個人の権利は保障され、国家間の約束も成立する。さらに、統治権力を分割して、特定の権力に「民意」を独占させないようにするとともに、それぞれを絡み合わせることで、権力の暴走にブレーキがかかるようにする。これが立憲デモクラシーの考え方だ。
しかし、現在の政府は、もつれた糸を引きちぎり、暴走してはいないか。特に、政府の憲法解釈という、政府が自らに課した義務づけから自由になろうと、内閣法制局の長官を「お友達」に代えてしまったこと。これは、安倍政権の信頼性を大きく傷つける、取り返しのつかない失策であった。こういう政権の姿勢が、たとえば、特定秘密保護法制定のおりには、それがどこまでも拡大解釈され、ものが言えない社会になるのではないか、という大きな不信感をうんだ。集団的自衛権の行使容認にも、同様の不安が広がっている。
それらは、安倍政権が内外に示した反立憲的な姿勢によって自ら招いた事態であり、もはや、このタイミングでルビコン川を渡る資格は、この政府にはないのではないか。観念的な安全保障論議を力押しして、デモクラシーの形を破壊してしまったのでは、もはや取り返しがつかない。
(聞き手・渡辺哲哉)
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いしかわ・けんじ 東大教授(憲法学) 1962年生まれ。旧東京都立大教授を経て、2003年から東京大教授。4月に設立した「立憲デモクラシーの会」の呼びかけ人の1人。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11137639.html
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