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私が政治記者になったとき、国会は大荒れだった。1992年春。ちょうど国連平和維持活動(PKO)協力法案をめぐる攻防が最終局面を迎え、牛歩戦術による徹夜国会では怒声と歓声が交錯していた。
不毛だと批判もされたが、宮沢政権や自民党、歯止めをかける修正をして賛成に回った公明、民社両党、牛歩した社会、共産両党も、みんな自衛隊を海外へ送ることへの悲壮な決意や緊張感にあふれていた。
冷戦後、政府は米国や国際社会の要請だとして、国際協調主義を掲げて自衛隊の活動領域を広げてきた。そのたびに論議になり、戦争体験が体に刻み込まれた世論を背にした国会はブレーキ役に回ってきた。廃案になったこと、当初の政府想定から後退したこと。そのときどきで異なるが、多くの場合、国際情勢の変化に沿うように、しかし抑制的に対応してきた。
この流れを支えてきたのが憲法9条だ。
「日本には憲法の制約があるから」。外務省のような積極貢献派は自嘲的に語っていたが、「戦争をしない」というこの国の基本理念を守ろうという合意が自民党政権もふくめてあったからにほかならない。
安倍首相の提起は安全保障政策を装っているが、これまでの流れとは根本的に異なる。憲法という、最強で最後の歯止めを外そうという試みだからだ。
もとより集団的自衛権を行使できるようにすべきだ、ということが暴論だと決めつけるものではない。「中国の軍拡に対抗して国民の安全を確保するには、米国との連携をより強めるしかない」という考え方も一定の説得力はもつ。
ただし、それは「戦争をしない国」という基本理念を見直すことを意味する。そうであれば、世界でどういう役割を果たすのか、米国とどう助け合い、集団的自衛権を行使して何をするのか――。「国のかたち」を根本的に問い直すことから始めねばならない。
PKO法どころではない。事例を挙げ、「これに対処できない」という理由だけで憲法を踏み越えていいものではない。与野党を超えて議論し、国民も考え、最後は憲法改正するかを問う。安倍政権という一政権の判断で決めるべきではない。
それにもかかわらず、真っ先に政権の意向が示された。これから問われるのは政治家の自覚である。公明党ばかりが注目されているが、自民党の人たちは静観するのか。民主党をはじめ野党は、閣議決定まで論争を挑まずに過ごすのか。「多弱」に甘んじていては政治家の責任は果たせない。
「必要最小限」と説明しようとも、集団的自衛権の行使とは、他国を守るために戦争をすることにほかならない。そのために自衛隊員と国民の生命をかける。その重さと責任が政治家、さらに国民一人ひとりにも突きつけられている。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11137654.html
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