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朝鮮戦争勃発を契機として米国支配層の意向を受けて創設された警察予備隊から始まる自衛隊の歴史は、米軍の下働きそして米国軍需産業の売り先としての歴史である。
「集団的自衛権」論議も、その歴史のなかに位置づけることで内実が見えてくる。
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迫られた「カネも汗も」
第35回 湾岸危機、「想定外」の迷走(平成) 少なすぎ、遅すぎで日本たたき
1990(平成2)年8月2日、イラク軍がクウェートに侵攻した。欧米を中心とする国際社会は撤退を要求、イラクは拒否を続ける。「湾岸危機」である。翌91年1月17日に米軍主軸の多国籍軍はイラク軍を攻撃、「湾岸戦争」に発展した。この間、アメリカは日本に資金支援と同時に自衛隊派遣という「目に見える貢献」を要求。戦後憲法と自衛隊、経済大国としての国際貢献を突き詰めて議論してこなかった日本国家は、想定外の事態に迷走した。
イラクのクウェート侵攻から12日目の90年8月14日朝、アメリカのジョージ・ブッシュ大統領から海部俊樹首相に電話が入った。日本はすでにイラクへの経済制裁措置を決定していたが、大統領はさらなる協力を求めた。
ブッシュ「日本が掃海艇や給油艦を出してもらえれば、デモンストレーションになる。日本が米国に完全にコミットしていることを世界に強く知らせることが大事だ」
海部「日本としてできる限りのことをやるつもりです。しかし、軍事的には、憲法、国会の論議、『国是』の問題もあり、なかなか難しい」
(国正武重『湾岸戦争という転回点』より)
自衛隊は創設以来、海外に出たことはない。憲法9条の解釈は「専守防衛」であり、たとえ同盟国の支援でも軍事面で自衛隊が国の外へ出て行くなど考えられないことだった。海部首相は大統領の要請をいったんは断った。しかし、アメリカの圧力は従来になく強力だった。
当時、日本はバブル経済の絶頂期。日本企業によるアメリカの企業や不動産買収が相次ぎ、経済摩擦が絶えなかった。
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また、日本は原油輸入の7割を湾岸地域に依存しており、「血を流さず」経済的利益を享受する日本に、アメリカ議会の不満が高まっていた。「安保ただ乗り論」も噴き出し、アメリカ社会に「日本に応分の負担をさせるべきだ」という空気が充満していた。
アメリカで国務、国防省などの関係者と会談した丹波実・外務省北米局審議官は8月29日、「日米間の認識ギャップはきわめて深刻」とする報告を送った。「丹波メモ」と呼ばれる報告は海部首相、橋本龍太郎蔵相ら政府中枢に回覧され、30日に湾岸地域に展開する多国籍軍へ10億ドルの支援が発表された。
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9月7日、ブレイディ米財務長官が来日。「手ぶらで帰れない」と、さらなる資金拠出を要求。政府は9月14日に多国籍軍に10億ドル、湾岸周辺国に20億ドルの追加支援を決定。それでも「ツーリトル、ツーレイト(少なすぎる、遅すぎる)」と批判された。アメリカは「たたけば動く日本」という認識を深めた。
アメリカは執拗に「日本の旗」が湾岸地域にひるがえることを求めた。自民党、外務省の一部にも「血と汗を流さなければ日米関係は危機を迎える」との声が出始める。当時、「事実上、政権の実権を握っている」といわれていた小沢一郎・自民党幹事長が主導して、国連軍の構成として自衛隊が海外に出る「集団的安全保障」論が唱えられる。
自国が攻撃された場合に武力行使が許される「個別的自衛権」に対応する概念の「集団的自衛権」と違い、集団的安全保障は各国が個別の自衛権を放棄し、国連軍=世界警察の一員として軍隊を派遣することだ。
小沢幹事長らは「国連の平和維持活動への協力なら憲法9条に抵触しない」として、海部首相に自衛隊派遣を迫った。首相は難色を示し、内閣法制局も「違憲」という認識だった。だが、小沢幹事長は61(昭和36)年の林修三内閣法制局長官(当時)の国会答弁を根拠に憲法違反ではないと主張した。
林長官の答弁は、将来「国際警察軍」ができた場合、自衛隊が参加・協力することが憲法違反にあたるかどうか考慮の余地がある、というものだった。
当時の外務省幹部は「国連軍はユートピアであり、絶対に無理。どこの国であれ、自国の若者の血を流す判断・主導権を国連に委ねることなどできないし、する考えはない。多国籍軍なら自国で判断できるが、憲法上日本の参加は無理だった」と振り返る。
9月下旬になって、外務省から「国連平和協力法」の案文が提出された。外務省の考えは、自衛隊ではなく非武装の一般公務員を「平和協力隊」として派遣することだった。その指揮権は首相が一元的に持つ。「シビリアン」(文民)であれば憲法9条に違反しない。
しかし、現実問題として、そのような任務を自衛隊以外に行える組織はなかった。自衛隊の海外派遣へ向け、政権はダッチロールを始める。
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自衛隊派遣、解釈改憲を断念
海部首相が国連平和協力法案の作成を許可した90年9月14日、石原信雄官房副長官から防衛庁にメモが届いた。主な内容は「平和協力隊の中核は自衛隊になる」「協力隊の制服を着用、給与は自衛隊から支払う」「身分は一般職公務員に切り替えるか、併任、兼務形式をとる」「護身用として最小限の武器携行は認める」「自衛隊法は改正しない」(前掲『湾岸戦争という転回点』)
防衛庁は「法改正や憲法解釈の確認がない不安定な状態で隊員を派遣できない」と懸念を示した。また、「平和協力隊は文民」とする外務省と「自衛隊の身分から離れると艦船や航空機の操縦ができない」という防衛庁との間で激論になった。
外務・防衛の攻防が続くなか、海部首相は9月26日、自民党4役に協力隊に自衛隊が組織参加する方針を説明。翌日、首相と小沢幹事長との会談で11月に協力法成立をめざすことが合意された。
10月に入り、外務省は艦船、航空機による協力隊の輸送業務を自衛隊に「委託」する案を提示。防衛庁と協議した結果、同月6日に「海上・航空自衛隊は業務委託を受けた形で輸送に従事。陸上自衛隊は職務を解いて文民として協力隊に参加する」ことでまとまった。
ところが自民党内で「業務委託」に難色を示す意見が出る。9日、海部首相と小沢幹事長らが協議し、業務委託案を撤回、自衛隊員の身分のまま協力隊員となる「併任制」に戻る。
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10月12日、海部首相は小沢幹事長ら党4役から自衛隊が国連軍に参加できるよう憲法解釈の見直しを要求される。護憲派の首相は蚊帳の外に置かれ、党主導で解釈改憲に動き出す。
これに対して内閣法制局は、そのような解釈は違憲という見解を堅持。業を煮やした加藤六月・自民党政調会長から「反対するなら法制局長官を罷免しろ」という発言も飛び出した。
国会では野党が「法案は違憲である集団的自衛権と海外派兵に道を開くもの」と追及した。自民党ではハト派だけではなくタカ派の藤尾正行元文相も「日本の根幹にかかわる重要問題を十分な党内論議もせずになぜ短期間にやるのか」と反対した。同じタカ派でも自民党長老と小沢幹事長ら「戦争を知らない世代」の憲法観は違っていた。
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自衛隊海外派遣反対運動も活発化した。労組、市民団体などを中心とする反対集会・デモが全国で行われていた。ただ、「心情的には派遣に反対。しかし、カネだけでは経済大国として責任は果たせないと思う」と複雑な心境を吐露する市民もいた。
10月30日、金丸信元幹事長が「自衛隊はあくまで専守防衛が原則。中国など近隣諸国の警戒も根強い」として、法案撤回を促す。11月5日、海部首相と小沢幹事長が会談し、法案を廃案とすることで合意した。
日本の「目に見える貢献」はなくなった。翌91年1月17日、多国籍軍のイラク攻撃「砂漠の嵐」作戦が始まる。翌日、海部首相は武力行使の断固支持を表明。同月24日、政府は多国籍軍に対し、これまでより飛躍的に増額した90億ドル(約1兆1700億円)の支援を決めた。
日本の支援額は各国で最高の130億ドル(のちに円安を理由に5億ドルを追加請求される)になった。戦争終結後、クウェートが米国はじめ約30カ国への感謝広告を米紙に載せた。多額の支援にもかかわらず、そこに日本の名はなかった。「湾岸のトラウマ」として、日本外交に深い敗北感が残った。
政治学者の中西寛氏は湾岸危機で日本は「外圧によってしか国際貢献をしない国だという印象を与えてしまった」という。「日本は過去に先例があるか、あるいは過去の教訓から反省した事例については迅速に対応するが、予想外の新たな事態に際して基本方針が混乱するとなかなか態勢を立て直せない」(「湾岸戦争と日本外交」)
一方、宮沢喜一元首相は「今回の湾岸危機にさいして、『カネ』だけではなく『汗』も流すべきだという国民的コンセンサスがうまれたことは、国際社会に生きる日本人の意識がひとつ高い水準に達したことを示すものであったといえる」(『戦後政治の証言』)と語っている。
(編集委員 井上亮)
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一つにまとまれるということは、長所であり短所でもある。近現代の「熱風現象」のなかに、日本人の自画像が見える。次回は「関東大震災―人間性の焦土(大正)」です。
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〈遠見卓見〉PKOへの参画に道開く 船橋洋一
戦後日本は世界の秩序を国際社会と共につくり、守っていく上で日本がどのような役割を果たすべきか、どのように建設的に参画するべきか、を真剣に考えてこなかった。「一国平和主義」の殻に閉じこもってきた。
湾岸危機は、その殻を打ち破り、カネさえ出せば、何でも買える、との幻想を打ち砕いた。小切手外交の限界を国民は思い知らされた。そのような日本を私は恥ずかしく思った。信頼やパワーや名誉はカネでは買えない。それには犠牲をいとわないコミットメントが要る。
ただ、湾岸危機のこの苦い経験は、その後の自衛隊による国連平和維持活動(PKO)への参画に道を開き、「グローバル・シビリアン・パワー」へと進化していった。そのフロンティアは依然、存在すると思う。
(ジャーナリスト)
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〈余聞〉支援金で米軍は負担ゼロ
日本の湾岸戦争支援の拠出金は赤字国債や酒税、たばこ税、石油税などの増税で賄われた。湾岸戦争の米軍経費は約350億ドルといわれている。各国からの支援金は合計約540億ドル。アメリカは負担金ゼロで、さらに約190億ドルの余剰金を手に入れたことになる。
湾岸戦争で使われた米軍のほとんどの兵器・弾薬は冷戦時からの備蓄で、いずれ廃棄する予定だった。
また、戦争勃発後に日本が支援した90億ドル(1兆1700億円)のうち、アメリカが約1兆500億円を使用した一方、クウェートにはわずか6億2600万円しか渡っていなかった。
[日経新聞4月27日朝刊P.13]
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