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http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2014/04/post-da53.html
2014年4月24日
来日中のオバマ大統領と安倍首相は東京銀座の有名すし店で会食した。大統領は「今までで一番美味しいすしだった」と述べた。菅官房長官は大統領はかなり食べて満足そうだったなどとミーハー的に語っているし、安倍首相は共同会見で「私も人生で一番美味しいすしでした」などと、一国の政権中枢にある者が幇間(ほうかん)ステートメントを発表した。日米首脳会談の第一声が「すしワンダフル!」なのか。(◎◎;)
かつて小泉純一郎元首相が訪米した折、グレースランドのエルビス・プレスリー宅をブッシュと訪れた際、プレスリーの物真似をしてエアギターをやったことを思いだした。今まで食べたすしで一番美味しかったなどと言ったところで、外交辞令に決まっているから、日本側がそんなちんけなことで、ことさら親密ぶりをアピールすることはない。日本は宗主国に対していつもながらの幇間(ほうかん)接待に徹しているようだ。
大統領は今日になって「尖閣諸島は日米安保の適用範囲内」と唐突に言い出した。
http://www.newsweekjapan.jp/headlines/world/2014/04/124853.php
これがTPPの交渉妥結を引き出すための心にもないリップサービスであることは明らかだろう。TPPを釣り上げるためにオバマ大統領は露骨にエサ撒きを行ったことになる。
「中国やっかいだよね〜、何やるか分かんないよね〜、米国は日本を守る気はあるのだからね〜」というメッセージである。だが、このメッセージがなぜ今なのかということは重要なポイントである。中国に対して、本気で日米同盟の適用を考えているのであれば、尖閣漁船衝突事件が起きた2010年の時点で明瞭に表明しなければおかしい。
アメリカには日米同盟を発動させて軍事的に対中国牽制に動くつもりは全くない。むしろ中国と事を構える意思は毛頭ないとみるべきだ。アメリカは“岩”にすぎない尖閣のことなど知ったことかということである。よく日本では尖閣が中国領有になってしまえば周辺海域が中国の監視下に入りアメリカも極東作戦上困るではないかという論調がある。
だが、尖閣の領有権について徹底して中立を装っているアメリカの本音は尖閣ファクターで中国とことを構えるつもりは全くない。極論であるが、中国が尖閣奪取を本気でやったとき、日本人全体がどれくらい怒るかということがカギであろう。
米軍は動かない、憲法の縛りで交戦権を禁じられている自衛隊も対処のしようがないという事態になったとき、日本は手足を縛られたまま、盗賊の領土略奪行為を手をこまねいているしかないということになる。
このとき、戦後の国民主権・人権至上主義教育一辺倒で共同体意識を解体されてしまった日本人が、どれほどの怒りと危機意識を持ち、結束して日本の自主性を取り戻そうと考えるのか、そこに焦点がある。戦後の日本は戦前を反省して人権回復を目指すあまり、肝心な国家意識や統一的な国論醸成を怠ってきた。
もっとはっきり言えば、戦後教育の真の目的は「国家は悪だから解体せねばならない」ということである。この裏目的は民主主義と主権在民という表層的なキーワードで隠されてきた。その結果、この裏目的は見事に達成され、かつての日本人の代名詞であった「盤石な共同体結束の国民性」という面影は、今や地方の一部にしか残存していない。
何が起きたのかというと、健全な国家観、国論統一意識の完全解体なのである。国民一人一人の人権や民主主義を基盤にした個人主権的な感覚は非常に大事である。国家が必要以上に個人の領分に踏み込んではならない。それは国家が国民の一挙手一投足をコントロールすることは、ダイレクトに国民の幸福原理を消し去ってしまうからだ。
国家とは国民が隷属するものではなく帰属するものである。もっと言えば、我々が維持しなければならない国家とは、先祖たちが長い時間をかけて営々と築いてきた、日本人の文化伝統、芸術、風習、自然観、精神性など、この領土で培っていた全ての要素を包摂した総体なのである。
つまり国家とは日本人の存在証明を形作る“存在論的な実在”なのである。しかも、日本は世界に誇るべき国家時間の長さを有しているのだ。この固有性と今までの国家時間を敗戦という事象で捨ててもよいのか。この日本が1776年の独立宣言から、わずか238年しかたっていない新興国家アメリカの間接統治・直接統治を受けている現実をどう思っているのだろうか。
話を戻すが、国民主権の考え方が悪いとは思わない。だが、長い時間をかけて極東に独自文明を築いてきた日本が、戦争に負けたからと言って欧米の個人主義、国民主権の概念だけに特化した社会を目指すことは間違っている。領土が侵犯されたら、それは国民生活が侵害されるだけではなく、この領土に住んでいた多くの先祖たち、これから生きるであろう全ての日本人の未来を失うことに繋がるからだ。
スイスは永世中立国であると同時に、徴兵制を有する国民皆兵国家でもある。日本の美文憲法派が永久平和を唱道するのだが、一朝危急存亡事態(国家存続の危機)が起きたとき、どうやって対処するのかというプラグマティックな問題がスルーされている。これは彼らの自爆的な卑怯さというしかない。きれいごとだけで日本は守れない。
言い方を変えるなら、国家レベル、国際レベルで『一朝ことが起きた』ときは個人の人権至上主義社会では対処しようがないのである。平時なら国民主権が維持されるのは大前提だが、何か起きた時の国論統一や国家防衛体制は普段の心構えとして醸成しておく必要がある。
神州の泉は日本国憲法の条文を逐次見たときに、ほとんどが素晴らしい条文だと思っている。九条さえも人類的俯瞰から見れば理想である。だが、この憲法には国家を守るという思想が故意に抜き取られている。これが何を意味するか。防衛的な国論が形成されないのである。GHQがこの憲法を創案したときの最大の創発動機が「二度と日本が武力戦争を起こさないように」ということだったから、当然と言えば当然なのである。
ウィキペディアは、合成の誤謬(ごうせいのごびゅう、fallacy of composition)を次のように語っている。
「ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロ(集計量)の世界では、かならずしも意図しない結果が生じることを指す経済学の用語。」
おそらく神州の泉だけしかこういう表現はしていないと思うが、逐条的には素晴らしい日本国憲法も国家防衛の見地からみれば、その全体は紛うことなき「合成の誤謬」なのである。
かつて中国の李鵬さんが、1995年にオーストラリア首相と会ったとき、「日本などという国は20年後には消えてなくなる」と発言したそうだが、当時から20年後と言えば来年の2015年である。ある人々は「支那人野郎がいい加減なことを言いやがって。日本はこのとおり存在しているじゃないか!」と思っている。
だが、李鵬さんの予測はかなり当たっているというのが神州の泉の素直なとらえ方である。安倍政権が行っている国政は、日本のコーポレートガバナンスを完全にグローバル企業に委任させようとしている。日本人はこれを聞いても、企業がアメリカナイズされるんだな、そういう時代なんだから、それも仕方がないじゃないかというレベルでとらえる。
しかし、国家戦略特区やTPPを冷静に眺めると、これらが日本の統治権を多国籍企業に移譲させる条約や政策群であることが分かる。この状況を国家崩壊以外のどういう概念であらわせるだろうか。日本は軍事侵略ではなく経済侵略で滅びの瀬戸際にある。
だから李鵬さんの日本崩壊予測はかなり正確に当たっていることになる。つまり日本消滅のリアルな予測は、中国による領土侵略よりもはるかに危険なアメリカコーポラティズムによる新自由主義による本土侵略なのである。
国民は、普段は個人の自由や人権意識を思う存分発揮させ、公序良俗に悖(もと)らない範囲で国家や行政の過剰な干渉を受けてはならない。これは絶対に踏まえて置くべきなのだが、これと並行して、日本人は危機を孕む国際事案や大災害など、何か大きなことが起きたときは、国民が心を合わせ、一致結束して事に当たるという心構えが必要になる。
戦後教育の大失敗は、戦前における国家主権へのアレルギーが強すぎて、ごく当たり前に醸成しておかなければならない、いざというときのための国論統一の備えが全くできていないことにある。
実は意外かもしれないが、ここには竹中平蔵氏の単線的な経済史観と同じようなことが戦後日本人にも起きていたのである。どういうことかと言えば、竹中平蔵氏の詐術的経済史観は、「抵抗勢力が温存されている旧既得権益構造体制を維持するのか、あるいはそれを打破してイノベーションや実力主義が報われる活力あふれる経済体制を望むのか、どっちなんだ?」ということである。
この二項対立的な経済史観の本音とは、「修正資本主義体制か、それとも新自由主義体制か、どっちなんだ?」ということに他ならない。実は戦後の日本人も、これと同じ単線的な二価値論法に囲繞(いじょう=取り囲まれる)され、判で押したように『戦前の国家主義か、それとも戦後の民主的な国民主権か、どっちなんだ?』という、きわめて分かりやすい二価値論法を教育の指針とした。
この二分的・対立的な概念が戦後日本の大間違いなのである。戦後の日本人も「戦前回帰か、それとも戦後にアメリカ様に与えていただいたアメリカ型民主主義か、どっちだ?」という、極めて頭の悪い大テーゼで出発している。答えは二者択一ではなく両者のアウフヘーベン(止揚)であったことに国民は気付いていない。
だが、少しだけ戦後を擁護すると、気付いていないだけで日本人のDNAはこのアウフヘーベンを自然に行っている面があった。説明は避けるが、そのために日本はまだ存続している。
さて、李鵬さん予言についてもう少し言っておく。実はこの予言の裏にはもし日本人が中国人と同じ国民性だったら20年でこの国は消えてなくなるという意味であり、日本人の潜在性格を無視した発言だったのである。普通ならば、アメリカにここまで内政干渉され、高級官僚や政治家、財界人がとっくの昔にアメリカに洗脳されてしまった日本は、20年どころか、もっと早く滅亡しても当たり前な状況にあった。
日本人というものは、自分たちが想像できないほど可撓性(かとうせい)が高く、復元的なパワーが強い。(※可撓性:たわんでも自己復元する能力のこと。)
共同体意識・国家意識が完全に溶解し、久しい年月が経過しても日本は息絶え絶えになりながらも淡々と存続し続けている。驚異的だ。これが自覚されていない日本人の底力(そこぢから)なのである。他の国民ならとっくに自滅して当然の境遇を、どういうわけか耐え抜いているのが日本なのだ。だから日本はそう簡単にカルタゴの轍(わだち)は踏まない。
李鵬さんの予言はいいところを衝いていたのだが、日本人の強靭さは戦後史が証明している。だがその日本も、福島原発事故で子供と妊婦を棄民したときからいよいよ危ないところに迫ってきた。子どもは未来を築く財産である。子どもと女性を大事にしない国家は滅びる。
さて、国民主権は非常に大事な概念である。基本的に権力の上部にある者たちが国民の自由を縛り、何かにつけて権力の干渉をおこなったら、それはジョージ・オーウェルの「1984年」、政府独裁のアンチユートピアを形成する。国民はだれもそのような社会は望んでいない。
その意味では、国民の自由や生活主権を政府が侵害しない社会は理想である。
だが、よく考えていただきたい。
「国家主権か国民主権か」の二者択一で選択された国民主権体制は、重要な国外問題に対し何も対処できない体制でもある。なぜなら、重要な防衛国論が醸成されず、日本という国家としての明確な態度表明ができなくなるからだ。
本来、国家国民の在り方は、国民が国家の干渉を受けずに自由な生活を享受しつつ、それでも社会秩序の紊乱(びんらん)が起きないように政府に警察権限(国権執行)を任せるというものだ。国家権力のレゾンデートルはそこにある。国民と国家の関係はトマス・ホッブスが「リヴァイアサン」で極めて明確に定義している。
説明は控えるが、国民主権はとても大事だが、それを無限拡大すると国家は存続できなくなる。子供でも分かる理屈だが、国家のリヴァイアサン(獣)を嫌ってそれを完全に退治してしまうと、国民主権を担保する足もとが崩れるのだ。戦後の日本人にバカの要素があるとするなら、そこなのである。今の日本は国家解体の状況に直面している。
今、安倍政権が行っている国家戦略特区やTPP参加への動きは、国民主権も国家主権もグローバル企業群に移譲する動きなのである。これに気づかずに、領土主権問題を中国ファクターだけに誘導していることは、日米政府がコラボして行っている巨大な詐術に他ならない。
日本の領土にグローバル企業群が乗り込んで来て日本政府を牛耳り、国富収奪と日本人の労働成果を搾取する体制づくりは立派な領土主権侵害であるばかりか、事実上の本土占領になる。騙されてならないのは「尖閣諸島は日米安保の適用範囲内」というオバマの発言は、尖閣問題に日本人の意識を奪わせておいて、TPPの妥結を狙っているのである。
いざ、中国が尖閣侵略を実行したとき、アメリカは理由をつけて日米安保適用範囲の例外事象だと言うだろう。2010年に「尖閣諸島は日米安保の適用範囲内」と言わずに、今これを言ったのは、TPP交渉の切り札として出したのである。オバマの腹の中には尖閣など露ほどにもなく、TPPをいかに勝ち取るかだけなのだ。「安保の適用範囲内」発言はリップサービスでありマキエサなのである。
この本音を見抜いて日本はTPPを決して妥結してはならない。同時に国家戦略特区法も廃棄に導く必要がある。なぜなら、この二大懸案は日本を滅びに導くからだ。
↓市民政策アナリストで国家戦略特区を追求されている前大田区議会議員 奈須りえさんのオフィシャル・ブログ
http://ameblo.jp/nasurie/
↓奈須りえさんの記事一覧
http://blogos.com/blogger/nasurie/article/
(国家戦略特区による「規制緩和」についても、市民の立場で専門的に発言されているが、市民有識者では類例がないのでは?)
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