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「法治から人治へ:内田樹の研究室」
http://sun.ap.teacup.com/souun/13956.html
2014/4/19 晴耕雨読
2014.04.18 法治から人治へ から転載します。
http://blog.tatsuru.com/2014/04/18_1041.php
安倍政権は集団的自衛権の行使について、行使の範囲を明確にしない方向をあきらかにした。
「行使を容認できるケースを『放置すれば日本の安全に重大な影響が及ぶ場合』と定義し、これが自衛権を発動できる『わが国を防衛するための必要最小限度の範囲』に入ると新たに解釈する。
『重大な影響』『必要最小限度』の基準が何を指すかは解釈変更後の政策判断や法整備に委ねる。
今の政府解釈は、武力行使が許される必要最小限度の範囲を『わが国が攻撃(侵害)された場合に限られる』と明示し、個別的自衛権だけ認めている。
政府原案は、これに集団的自衛権の一部が含まれると新たに解釈するものだ。
政府は解釈変更後に個別の法律で行使の範囲を示し、法で縛ることで行使は限定されると説明する方針。
だが、憲法上の解釈が『安全に重大な影響』と曖昧では、時の政府の判断で範囲が際限なく広がる可能性があり、歯止めはなくなる。
政府原案では、憲法九条の下で禁じてきたイラク戦争(二〇〇三年)のような多国間による海外での武力制裁への参加も、憲法が禁じる国際紛争には当たらないとの新解釈を打ち出すことを検討していることも判明。
政府解釈として確定すれば、他国の武力行使と一体化するとし、違憲と判断してきた戦闘地域での多国籍軍への武器・弾薬などの補給や輸送も可能になる。
首相の私的諮問機関『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』(安保法制懇)は、同様の内容の報告書を五月の連休明けに提出する予定。
安倍政権は報告書を受けた後に原案の「政府方針」をつくり、自民、公明両党との協議に入る。
合意すれば政府として閣議決定し、憲法解釈を変更したい考えだ。」
(東京新聞、4月17日朝刊)
この記事を読んで、さまざまな印象を持つ人がいるだろう。
私の印象は一言で言うと、「憲法が軽くなっている」ということである。
「法律が軽くなっている」という言い方でもよい。
法条文そのものにはもはや何の重みもなく、運用者の権威や人気が憲法や法律に優先するというのが、現代日本の支配的な「気分」である。
私の例を話す。
先日兵庫県のある団体から憲法記念日の講演依頼があった。
護憲の立場から安倍政権の進めている改憲運動を論じて欲しいという要請だった。
むろん引き受けた。
主催団体はこれまで二度援集会を後援してくれた神戸市と神戸市教育委員会に今回も後援依頼をした。
だが、後援は断られた。
後援拒否の理由は「昨今の社会情勢を鑑み、『改憲』『護憲』の政治的主張があり、憲法集会そのものが政治的中立性を損なう可能性がある」ということであった。
この発言はたいへんに重い。
たぶん発令者は気づいていないだろうが、たいへんに重い。
というのは、「改憲」「護憲」についての政治的主張をなすのはどれほど大規模な政治勢力を率いていても「私人」であるが、行政はどれほど小規模な組織であっても「公人」としてふるまうことを義務づけられているからである。
この発言は「公務員の憲法遵守義務」を事実上否定した。
その点で憲政史上大きな意味をもっている。
市長も教育委員も特別職地方公務員である。
憲法99条は公務員が「この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と定めている。
30年前私が東京都の公務員に採用されたときにも「憲法と法律を遵守します」という誓約書に署名捺印した。
当然、神戸市長も教育委員たちもその誓約をなした上で辞令の交付を受けたはずである。
にもかかわらず、彼らは彼ら自身の義務であり、かつ公的に誓約したはずの「憲法を尊重し擁護する義務」を「政治的中立性を損なう」ふるまいだと判定した。
改憲派である総理大臣が高い内閣支持率を誇っている。
そうである以上、護憲論は今のところ「反政府的」な理説である。
お上に楯突く行為を行政が後援すれば政府から「お叱り」を受けるのではないか。
そう忖度した役人が市役所内にいたのだろう。
立憲主義の政体においては、憲法は統治権力の正当性の唯一の法的根拠であり、いかなる公的行為も憲法に違背することは許されない。
しかるに、神戸市は「時の権力者が憲法に対して持つ私見」に基づいて、公務員の憲法遵守義務は解除され得るという前例を残した。
繰り返し言うが、公務員たちが私人としてのどのような憲法観・法律観を抱いているか、個々の条文についてその適否をどう判断しているかはまさに憲法19条が保障するところの思想良心の自由に属する。
しかし、彼らにしてもひとたび公人としてふるまう場合は「憲法を尊重し擁護する義務」を免ぜられることはない。
憲法は私人から見れば一個の法的擬制に過ぎない。
だが、公務員にとってはその職務の根本規範である。
私人と公人の区別がわからない人が公務を執行する国を「法治国家」と呼んでよいのだろうか。
一昨日の新聞では、高知の土佐電鉄が護憲を訴える車体広告の掲載を拒否したという記事が出ていた。
ある市民団体が毎年憲法記念日にあわせて「守ろう9条」などの護憲メッセージを車体広告に掲げた「平和憲法号」と名づけられた路面電車を走らせてきたが、今年は電鉄会社に広告の掲載を拒絶された。
数名の市民から「意見広告ではないか」という抗議が寄せられたためだという。
電鉄側は「世論が変われば意見広告ととられることもあり、政治的な問題になってしまったので運行は中止する」と説明した。
ここでもまた「憲法を尊重し擁護しよう」という主張は「私人の政治的私見」に過ぎず、公共性を持たないという見解が示されている。
電鉄会社は私企業であるから、公務員よりもある意味正直である。
彼らははっきりと「世論が変わった」のかどうかが法律にどういう規定があるかよりも重要であると考えたのである。
憲法98条にはこうある。
「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部はその効力を有しない」
この会社は「憲法は国の最高法規である」がゆえにそれを遵守することが望ましいという市民団体の主張を「世論になじまない」という理由で退けた。
法律よりも世論の方が大事だ、というのは民間企業にとってはある種の「本音」なのかも知れない。
そもそも私企業の場合、経営者が改憲派であり、その私見を「護憲広告の掲載を拒否」というかたちで表明しても、公務員とは違って「憲法遵守義務」に違背しているわけではない。
憲法にそう書いてある。
しかし、官民挙げての憲法軽視は重大な「潮目の変化」の徴候である。
これは日本の統治原理が「法治」から「人治」に変わりつつあることを示しているからである。
特定秘密保護法によって、憲法21条、「表現の自由と集会・結社の自由」については事実上空文化した。
絶望的に煩瑣で意味不明な条文によって(一度読んでみるといい)国民の権利は大幅に縮減された。
その一方で、今進められている解釈改憲は法律を「どう解釈するのも政府の自由」という政府への気前のよい権限委譲をめざしている。
つまり、国民の権利は法律によってがんじがらめに制約される一方で、政府の支配力は法律を弾力的に解釈し運用する権利を自らに与えることによってひたすら肥大化している。
政府が法律条文や判例とかかわりなく、そのつどの自己都合で憲法や法律の解釈を変え、その適否については「世論の支持」があるかどうかで最終的に判断されるというルールのことを「人治」と呼ぶ。
世論がどう言おうと、権力者がどう言おうと「法律で決まっていることはまげられない。まげたければ法律を変えなさい」という頑なさが法治すなわち立憲主義の骨法である。
「法律が何を定めているのかはそのつどの政府が適宜解釈する。いやなら次の選挙で落とせばいい」というのは法治の否定である。
法律は世論や選挙の得票率とはかかわりなく継続的でかつ一意的なものでなければならない。
そのつど「私が『民意』を代表している」と自称する人間の恣意によって朝令暮改ころころと法律解釈が変わるような統治形態のことを「人治」と言うのである。
集団的自衛権行使について、それを政府解釈に一任させようとする流れにおいて、安倍内閣はあらわに反立憲主義的であり(彼が大嫌いな)中国と北朝鮮の統治スタイルに日ごと酷似してきていることに安倍支持層の人々がまったく気づいていないように見えるのが私にはまことに不思議でならない。
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