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大前研一:調査捕鯨敗訴から透けて見える日本の問題
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140416-00000000-fukkou-bus_all
nikkei BPnet 4月16日(水)8時47分配信
日本が南極海で行う調査捕鯨は国際捕鯨取締条約に違反するとして、オーストラリアが中止を求めた訴訟で、国際司法裁判所は3月31日、「科学的研究を逸脱している」と述べ、現行方式での調査捕鯨の中止を命じる判決を下した。
■19世紀に世界中に触手を伸ばしていた米国
安倍晋三首相は4月2日、「非常に残念で深く失望しているが、判決に従う」と語っており、日本の捕鯨政策は見直しを迫られることになる。
一方、日豪EPA(経済連携協定)締結交渉が最終局面に入り、オーストラリアのアボット首相が5日に来日した。牛肉と自動車の関税交渉をめぐり、安倍首相との首脳会談で最終決着に至った。オーストラリア政府にとっては日本の南氷洋での捕鯨中止は内政問題の重要課題で、本来ならもっと声高に勝訴を叫んでもいいはずだが、経済的なつながりの深い対日関係への配慮から、調査捕鯨訴訟の勝利を喜ぶような姿勢は示していない。
ここで「主な捕鯨の歴史」をご覧いただきたい。
捕鯨の歴史をひもとくと、9世紀にノルウェー、フランス、スペインが捕鯨を開始。12世紀には日本でも手銛(もり)による捕鯨が始まっている。18世紀には、米国でマッコウ鯨漁(アメリカ式捕鯨)が行われるようになった。
19世紀には米国が世界最大の捕鯨国となり、ハワイのマウイ島などが太平洋全域の基地となっている。この頃、漂流していた「ジョン万次郎」が米国の捕鯨船に救出され、マウイ島経由でボストンにまで行っている。ボストンもまた大西洋の捕鯨基地として栄えていた。
同じ頃に『白鯨』を書いたハーマン・メルヴィルの軌跡をたどると驚くほどジョン万次郎の軌跡と一致しているのが興味深い。米国は捕鯨のために文字通り、世界中に触手を伸ばしていたわけで、捕鯨そのものを(人間と同じ)ほ乳類を食用にする「野蛮な行為」と論ずる姿には違和感が残る。
その後も各国で捕鯨が行われ、1903年にはオランダが世界で最初の鯨工船を出漁させている。1904年には、ノルウェーが南ジョージア島に捕鯨基地を設営して、南氷洋捕鯨を始めた。
■戦後に国際的な管理捕鯨体制、次第に多くの国が捕鯨を中止
それぞれの国による捕鯨の流れが変わったのは、基本的には戦後になってからである。1946年に国際捕鯨取締条約が締結され、48年には国際捕鯨委員会(IWC)が設立。51年には、日本もIWCに加盟した。
国際的な管理捕鯨体制のもと、国別割当制が実施されたりしながら、次第に多くの国が捕鯨を行わなくなっていく。日本も87年に南氷洋での商業捕鯨を中止し、調査捕鯨を開始している。
捕鯨への風当たりが強まるなか、92年にはアイスランドがIWCを脱退し、2006年に商業捕鯨を再開する。ノルウェーもそれに先立ち93年に商業捕鯨を再開している。
日本はそこまで強硬な態度を取らなかったが、調査捕鯨を続けてきた。その調査捕鯨に対する批判も根強く、今回こうして、国際司法裁判所に舞台が移ったというわけだ。
■裁判に負けることをよく知っていた霞が関
今回の判決が興味深いのは、実は、日本のなかにも密かに喜んでいる人がいる、ということである。日本の役人たちは、内心では調査捕鯨には無理があると考えていた。しかし、業界との関係もあり、自分たちでは止めることができない。
今回の裁判では負けるということも、霞が関の役人たちはよく知っていた。そのうえで、「裁判に負けたので、法治国家日本としては従わざるを得ない」という態度を示しているのである。日本の捕鯨基地・下関が地元である安倍首相も、「(裁判で負けた)担当者を叱責」しながらも「法には従う」とあきらめのいいことを言っている。
本来であれば、業界に対して主体的に「調査捕鯨はもう中止しましょう」と言うべきだった。日本の役人がそうした汚れ仕事を嫌ったために、調査捕鯨はズルズルと続けられ、世界中からバカにされることになってしまった。
もちろん、なかには「捕鯨は日本の伝統文化であり、それを守るためには調査捕鯨が絶対に必要だ」との考えから、使命感を持ってやっていた役人もいるかもしれない。それでも大半が(理論的に破綻している)調査捕鯨を止めたがっていたのは事実だ。
■判決を「ガイアツ」として利用するみっともない人々
日本は調査捕鯨と言いながら、形式的な調査だけをして、実際には捕獲した鯨の大部分を市場に流していた。その売却益で調査捕鯨にかかる経費を回していくという仕組みになっていたのだから、鯨を食肉にするということを大前提に方程式が組まれていた。実質的な商業捕鯨を調査捕鯨と言い換えていたのは明らかである。
また、日本人が鯨を食べなくなっているのに、捕鯨を続けることに意味があるとも思えない。調査捕鯨で捕獲した分でさえ、鯨の肉は消費しきれず、余ってしまっている。
こうしたマヤカシは、国際的に恥をかく前に、役人かあるいは政治家が止めるべきだった。しかし、止めるべき人たちが傍観している間に、国際司法裁判所に問題が持ち込まれてしまった。実にお粗末な展開と言わざるを得ない。
今回の判決を「ガイアツ」として利用し、「自分たちには責任はない」「法治国家なので法の裁きには従う」という顔をしている役人や政治家は非常にみっともない。その間、何年にもわたって「日本人はほ乳類を殺す殺人鬼だ!」というプラカードが世界中に溢れ、鯨を食べない日本人までまとめて恥をかかされてきている。
無責任なやり方で(ごく少数の利権団体の引き起こしている)国内問題を処理する。結果、日本人自体に対する国際的な信頼が揺らぐ、典型的な「日本」の姿である。
■日本人の集団心理を理解するうえで格好な事例
本件は捕鯨の問題を越えて日本人の集団心理を理解するうえで格好な事例だと思う。
鯨肉が好きで、1年以内に食べたことがある人は何人いるだろうか? おそらく多くの人は「関心がない」か「どうでもいい」と思っていたのではないだろうか?
しかし、マスコミが「日本が苦しい立場に追い込まれています」という言い方をすると、裁判でシロ判決が出ることを期待してしまう。日本のマスコミは対外交渉になると暗黙のうちに少数利益団体の立場を取っているのである。
環太平洋経済連携協定(TPP)やEPAの交渉でも全く同じで、実際米国の要求通りに農産物や畜産物の関税がなくなれば食品が安くなる。国産の肉や穀物が好きな人は高くても買うだろうから、一般消費者にとっては選択肢が増えるメリットがある。
「厳しい交渉」という甘利明特命担当相が顔をしかめて交渉から出てくると、応援したくなる。その時に多くの日本人は二つのことを忘れている。一つは消費者としての自分、二つ目は納税者としての立場である。
■国民生活者・消費者の声が聞こえてこない
当然消費者としては安い選択肢が増えることを歓迎するし、最近では国産の霜降り肉よりもオーストラリア産の赤身の肉などが好まれているので(それと競争する)米国産が増えることは悪い話ではない。また米国の要求する“厳しい条件”で決着すれば、当然政府は農家に補助金を出し、ダメージの緩和に努めるだろう。
それを負担するのは他ならぬ自分たちなのである。ウルグアイラウンド対策費として42兆円ものカネを使って農地整備をしたが、日本の農業は少しも競争力が付かなかった。カネを使うほど市場競争力は遠のいていった。これが日本の現実である。
いいかげん国民が政府のこのまやかしに気がついて、「オバマ大統領の来日までには何とか決着を」と必死になっている姿を「(補助金を積み増すための)演技はやめろ!」と指弾しなくてはいけない。
日本という国が海外から理解しにくいのは国民生活者・消費者の声がマスコミの論調にもなっていないからである。サイレントマジョリティの声は文字通り「声なき声」で、海外からも国内にいてもほとんど聞こえてこない。
南氷洋の鯨をめぐる日本の敗訴は小さな問題だが、そこにより大きな日本の問題が透けて見えてくるのだ。
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