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(回答先: 室井佑月 母親はスーパーマンではない〈週刊朝日〉 投稿者 赤かぶ 日時 2014 年 4 月 14 日 11:53:44)
それでもベストセラー「作家」(『週刊金曜日』20141.24号より転載)
http://keybow.co/sataka/sonoayako.html
曽野稜子というチッポケ
長年、保守論壇で活動する曽野綾子氏の著書「人間にとって成熟とは何か」がべストセラーになっている。なぜ、誤読と説教をふりまく曽野氏の言説を多くの日本人は受け人れてしまうのか。そもそも「曽野稜子」とは何なのか。
長年、同氏を批判しつづけてきた佐高信が改めて「曽野綾子」を切る。
佐高 信
いまから15年ほど前、『噂の眞相』に連載した「タレント文化人筆刀両断!」を含む時評集を出そうとしたら、講談社では司馬遼太郎と曽野綾子の双方が引っかかって、光文社では曽野批判が困ると言われて削除せざるをえなかった。無削除のものを『タレント文化人100人斬り』(現代教養文庫)として『噂の眞相』の連載だけでまとめて、すぐに出したので、そちらは妥協した。
それだけに、曽野の『運命は均(なら)される』(海竜社)の次の箇所を読んで私は笑ってしまった。
ある時、曽野は司馬について書いた原稿を直してほしいという電話を「大阪新聞」から受けたというのである。
「故司馬遼太郎氏の講演内容に対して少し反対意見を書いただけでその部分を直せというのだ。前々から私の動物的な勘が、氏に対するマスコミの不自然な神格化を感じていたけれど、それは錯覚だろうと思っていた。しかしこうなってみると、勘は正しかったのだろう。神格化は、崇めたがる方の弱さの結果である。
私は司馬氏の人格や私生活を貶めたわけではない。ただ内容の一部に異論を(それも署名原稿で)唱えただけで、担当記者が東京まで飛んで来て改稿を迫るという異常反応ぶりは、昭和天皇のご不例の時の自粛という名の自主規制を思い出させる」
司馬と同じように自分も「神格化」ならぬ「タブー化」していることを曽野は知らないのである。それとも、私の曽野批判は、曽野の司馬批判と違って、「人格や私生活を貶め」ているということか。
「動物的な勘」だけで行動
ともかく、「動物的な勘」がご自慢の彼女も、自分に対してはそれがまったく働いていないことに気づかないのである。鈍感の極みと言うしかないだろう。曽野が知性や理性とは無縁な「動物的な勘」だけで行動していることは次の発言からも明らかである。
「もし息子が罪を犯したとき、世間が何といおうと、あたしは、絶対息子がいいと言おうど思っている。子供が困ったとき、支持できるのは母親だけ。盲目的に支持していい人が、ほかにないでしょう。父親だって、ちょっと困る。母親が一番愚かしく、盲目的になっていい……。親というものは、子供にとって辱しい困りものにちがいないでしょ。親は、困りものであっていいんじやないかしら。あたしは、息子に吋して親というものは不法な、理くつの通らぬものなんだから、覚悟しろといった構えでいる」
こうした偏愛的情念の持ち主であるがゆえに、曽野は「日本の『学園紛争』の時、学生は一人も死ななかった。それに対して警官は何人も殉職した」などと誤ったことを平気で書く。曽野の息子は死ななかったかもしれないが、少なからぬ学生が死んだのである。
そんな曽野を、主に『噂の眞相』で何度か批判したが、1997年2月号の次の批判に内容証明便が舞い込んだ。
〈「意見の対立はあっても、お互い自由に仲よくお話しして笑ってと、そういうのがいいですね」
曽野綾子はハマコー(浜田幸一)との『週刊読売』1995年新春ビックリ対談で、こう言っている。しかし、ウソをつくのが作家とはいえ、「だれとでも仲よくならなければいけません」と強調している曽野は、私が申し込んだ対談を「考えが違うようですから」と断ってきた。
ハマコーとは「仲よく」対談するが、私などからは逃げるということらしい。(中略)
前掲の対談で曽野はハマコーの、「子や孫の時代に、日本が世界に対して十分な責任を果たすため、私たち日本人はどのような心構えでいればいいのでしょうか?」
という問いかけに、「簡単に言いますと、まず損をすることができるような人間になることです」
と答えている。
笹川良一の後を継いで、日本船舶振興会改め日本財団のアタマにおさまった曽野らしい答えとも言えるだろう。「損する」人間がいなければ、そもそも競艇など成り立たないからである。ラスベガスですって、そのツケを小佐野賢治(おさのけんじ)にまわすハマコー はもちろん「損をすることができる」人間ということになる)
曽野からの内容証明便は『噂の眞相』と私宛てで、糾問(きゅぅもん)は次の2点だった。
「だれとでも仲よくならなければいけません」と発言したように書いているが、出典を示せとか、「黒い金を白い金にし」と書いているけれども、現在の日本財団のお金のどこが黒いのか、出すお金はどうして白いのか、というのである。
「ご返事いただかない場合は推測と判断し、それなりの対応をいたします」とある。
それで、発言は浜田幸一との対談からの引用だし、「黒い金、白い金は解釈の違いでしょう」と答えた。
それにしても「それなりの対応」とは名誉段損で訴えるといったことだろうが、言論人としては、これだけで失格ではないか。己の言論に自信がないから権力の助けを借りるということだからである。
「憎む相手からも……」と言いつつ、対談を新る姿勢
そして私は、曽野の『人間にとって成熟とは何か』(幻冬舎新書)がべストセラーになっているのを機に、『サンデー毎日」の2013年11月l0日号で、何度目かの曽野批判をした。
「憎む相手からも人は学べる」と言っているけれども、私との対談は断ったではないか。
あなたには憎む相手から学ぶ勇気などないのだから、自分を素材に『人間にとって未熟とは何か』を書くべきだった、「成熟」を書くとはおこがましい。
自分を知らないあなたは"お嬢さん婆さん"だ、と。
これに対して曽野は同誌の11月24日号に反論を寄せ、対談せよというのは「ストーカー」の論理だ、と居直った。
「もちろん私は自分がストーカーされるような魅力ある女性だと思ったことはないから、その点は誤解なきように願いたい」とぃう注釈付きである。
私は12月8日号で再反論し、自らが大江健三郎の「沖縄ノート」(岩波新書)を誤読して不当な言いがかりをつけ、ストーカー行為を働きながら、ストーカー呼ばわりは笑止千万と一蹴した。
考えの違う西部邁(にしべすすむ)や櫻井よしこ、 こぅ幕まさたか
あるいは江藤淳(えとうじゅん)や高坂正堯(こうさかまさたか)も、私との対談は断らなかったので「敵ながらアッパレ」と思ったが、あなたは「敵ながらチッポケ」だと椰楡(やゆ)したのである。
ある作家は曽野を"少女のミイラ"と評したらしいが、ミイラのままに彼女は亡くなるのだろう。
(文中一部敬称略)
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さたかまこと・本誌編集委員、評論家。
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