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昨日(11日)早朝、NHKBS1で放送されたフランス「F2ニュース」が、NGO組織オックスファムの調査結果として報じた内容である。
ニュースで報じられた内容は実に簡単で、
「世界の財の不平等についてNGOのオックスファムがまとめた調査によると、世界で最も裕福な67人の財と残りの世界人口の半数に当たる35億人が持つ財とがほぼ等しいという驚くべき結果になった」
というものである。
調査に関する詳細の説明はなかったが(オックスファム・ジャパンは未掲載)、「裕福なわずか67人の富=世界人口のほぼ半数35億人の富」という数字だけを知らされると、確かにショッキングではある。
が、その一方で、現実はまあそんなものだろうと思いもある。
1兆円を超えるような超資産家のなかのさらに上位67人(たぶん100兆円超の資産家)と、持っているおカネはその日をなんとか暮らす分だけで家も土地も持たない超貧乏人を下位から35億人ほど集めて、保有する財の大きさを比較したものだからである。
さらに言えば、同じ広さで同じ使用価値の土地であっても、その評価額は、東京など先進国の都市部と発展途上国の地方では雲泥の差がある。同じ面積の田畑の評価額を考えても、先進国と途上国では月とスッポンの差がある。
このような差が生ずる要因は、外国為替レートの差であり、突き詰めれば最低生活費の差であり、経済論理的には、資本蓄積の差でありそこから生ずる所得格差である。
財の所有構造に関する調査だから、日々の労働で得る稼ぎ(所得)ではなく、所有する現金預金(年金受給権や保険金受領権利)・土地・証券類・建物・機械道具類・家畜類・輸送用機器・家財道具などの偏在を意味する。
(資産を手に入れるための負債は控除されなければならない。財のなかには転売価値がある衣類も含まれるかもしれない)
「裕福なわずか67人の富=世界人口のほぼ半数35億人の富」という現実を評価するためには、まずその内実を考えなければならない。
内実を考える手掛かりとして、「日本のちょっとしたサラリーマン1人の富=世界人口のほぼ1千万人の富」という話はどうだろう。
実際に調査をしたわけではないが、預貯金も不動産もないというひとは世界に1千万人をはるかに超える数で存在するはずだから、それほどぶっ飛んだ話ではないどころか、逆に抑えた比較とも言える。
住宅ローンを完済した不動産や老後に備えた預貯金や年金受給権などを保有する日本のサラリーマン1人の資産額は、貧乏人の下位1千万人の資産を集めた額よりも大きいか等しいと評価できることは間違いない。
「裕福なわずか67人の富=世界人口のほぼ半数35億人の富」という話と、「日本のちょっとしたサラリーマン1人の富=世界人口のほぼ1千万人の富」という話のどちらが衝撃的なものかは人それぞれの評価だと思う。
日本では、97年の消費税増税を契機としたデフレ・スパイラルのなかで、ハケンなどの非正規労働者や生活保護受給者が増加し、相対的貧困率(現在約16%)や「経済格差」が大きな問題になっている。
阿修羅でも散見されるが、このような状況を受けて、「格差是正」を唱える政治勢力も少なくない。自民党でさえ、「格差是正」の必要性を語るくらいである。
私は、平等主義者でもなければ経済成長主義者でもない。
その一方で、現実の国家社会構造及び国際関係を考慮すれば、ほとんどの国民がこれからも現レベルの生活を営み続けられる条件を維持するためだけであっても、それなりの経済成長が必要だと考えている。
経済成長にこだわらず生活の質にこだわるという発想が広がると、穏やかな生活を維持できるひとが徐々に減っていくことになるだろう。
だからこそ、支配層のためにもなってしまう経済関連の投稿を続けるという恥ずかしい姿をさらしている。
「格差是正」については、その必要がないと考えている。「格差是正」という観点そのものが平等主義の発露であり、政治家的もしくは学者的な捉え方だとも思っている。
問題は、まっとうな国民のなかの最低位の人の所得水準(生活レベル)が低すぎることであり、多数派の所得水準(生活レベル)が上昇しないどころか切り下げられていることだと考えている。
「格差是正」は、このような問題を、上位から下位に所得を再分配することで解決していこうという政策や考えだと思える。
所得中下位の者が、徐々にであっても所得を増やしていくのなら、所得上位の者がより所得を増やしていいてもかまわないと考えている。
奇妙な説明になるが、上位から下位に所得を再分配することは、所得上位の者がより所得を増やすことになるとまでは言わないが、所得上位の者が所得を維持する方策であることは指摘しておきたい。
「トリクルダウン理論」は、税制政策や社会政策として無用どころか害悪だが、経済論理としてなら合理的である。
経済的自由主義者と社会的リベラリストは、経済論理の理解で共有する基盤がないまま非難の応酬を行っているわけである。
経済成長を必要と考える人には、「格差是正」は経済の停滞を招く政策であり、“格差”すなわち「電位差」が経済成長の動因であると言いたい。
だからといって、このような経済論理が人々を支配するような“近代”が続くことを望ましいとは思っていない。
資本主義終末論が非マルクス主義者のあいだからさえぼつぼつと出てきているが、だからと言って、資本主義世界(近代)が自滅することはない。
人々の主体的な営みを通じて新たな論理に支えられた社会を構築しない限り、金融家が支配の頂点に立つ“近代”(資本主義世界)は自己変身を遂げながら存続することになる。
産業資本主義的近代は、日本を除く先進諸国において70年代には終焉を迎え、日本でも90年代に入り行き詰まりを迎えた。以後の“近代”は、金融資本主義の論理で動かされている。
グローバリズムという地球的大競争だから、給与(所得)水準が切り下がるのもやむを得ないという考えがはびこっている限り、所得(フロー)も財(ストック)も金融家(投資家)にますます吸い上げられるようになり、日本国民多数派の生活がさらに困窮することになるだろう。
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