12. 2014年3月25日 23:22:57
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萩生田発言は「失言」ではなく、正論だ。日本政府による韓国人慰安婦16人からの聞き取り調査報告にある証言 以下に聞き取り調査報告書を掲載するが、証言に多数含まれている悲惨で生々しい性的な描写も一部を削除したり、簡潔にしたりした。文体は常体から敬体に改めた。 証言中の @は慰安婦にさせられた経緯 Aは慰安所での生活 Bはその後の状況 という順番となっている。 証言者:金福善 @近辺(全羅南道唐津郡)で、若い娘の供出が行われるとの噂が大きく流れていました。自分は年齢の割に成熟した体つきでしたのでおじ(幼少時に父を亡くしておじの家で世話になっていました)も心配し、「外出するな」とよく言われていました。 18歳(数え年齢)の時でした。8月に巡査(襟の黄色い制服を着ていたのでそれとわかりました)が1人の朝鮮人男性(年のころ40代くらい。「サイさん」と呼ばれていました)を伴って家に入ってきました。巡査は「ここにこんな美しい娘がいるではないか。1年だけ工場に働きに出すだけだから良いではないか」などといって連れ出そうとしました。おじは「この子は近々嫁に出すから駄目だ」などといって抵抗しましたが駄目で、結局両脇から腕を掴まれて連れて行かれました。その夜のうちに光州まで連れられ、翌日から更にソウル、仁川、プサンへと移動した後、船で大阪まで連れられました。それから1週間して、大きな船でラングーンまでれて行かれました。更にラングーンから車で連れられたところが、「軍人慰安所」という看板のかかった建物でした。(巡査と「サイさん」は現地=ビルマ=まで同行していました) A慰安所では「カナタニ・ミツコ」と名乗らされました。午後3時から5時まで、1日20名くらいの軍人の相手をさせられました。それまで男性経験もありませんでしたが、それでも薬を飲まされて無理やり性行為をさせられたりしました。死にたい気持ちになって、食事も食べる気になれなかったりすると、蹴られたりしました。爆撃の際には、軍隊と一緒に防空壕の中に入っていました。生理中だから2〜3日休ませて欲しいと言っても休ませて貰えませんでした。慰安所にいる間、金銭の授受は一切ありませんでした。 Bある日、慰安婦だけ集められ、より安全な所へ移送すると言われました。その際に機会を伺って「サイさん」と一緒に逃げ出しました。5カ月ほど、インド人がかくまってくれた後、ラングーンに赴き、そこで終戦を迎えました。英国軍の配慮で、バンコク経由で朝鮮半島に帰還しました。 現在は、ソウルのある学校教師の家の手伝いをして生活しています。 証言に対する所見 金福善は安秉直調査で採用されており、かつ原告の1人でもある。ただし、慰安婦にさせられた経緯について安秉直調査および訴状の内容と大きく異なっている。 巡査と朝鮮人男性が工場に働きに出すと言って連行したとされているが、安秉直調査では<国民服(あるいは軍服)を着た30代の日本人1人と背広を着た40代の朝鮮人1人が・・・「日本に行って1年間だけ工場で働けば、たんまり金を稼ぐことができるから、行こう」と言いました。そのまま私は両腕を掴まれて2人に連れて行かれました>とされている。 訴状では「自宅から憲兵が工場に連れて行くと連行」とされている。巡査が連行に加担したのであれば権力による強制連行になるが、「国民服を着た日本人」が騙して連れて行ったのであればその証拠にはならない。 安秉直調査によれば、彼女は12歳の時両親が離婚して叔父の家に引き取られていたという。貧困による人身売買の可能性もあり得る。なお、全羅南道には聞き取りにある「唐津郡」は存在しない。ここでも調査の杜撰さが分かる。 安秉直氏調査では「国民服か軍服を着た日本人に連行された」と主張、内容を変えているので聞き取りの信憑性は低い。 安秉直氏調査では「金台善(仮名)」。訴状では「原告C」 証言者:黄錦周 @15歳で養女に行きましたが、18歳の頃から、村で娘の供出が行われているという話が広まりました。これを断ると、食糧の配給が止められ、共産主義者と見做されたのです。19歳の時、面(村)の班長から養親の家に、白い「令状」が来ました。内容は、20歳になる義姉を供出せよというものでした。期間は3年という話でした。 面の班長は、「天皇の命令である。必ず行かなければならない。命令に逆らえば、家族全員が反逆者である」と言い、供出を断ることは不可能な状況でした。義姉は、そのころ、日本の大学に行くことになっていたので、戸籍のない私が義姉のふりをして代わりに行くのだと思っていました。私は工場に働きに行くのだと思っていました。母が令状に印を押し、私は面事務所に行きました。そこには20人くらいの娘が集められていました。 他の娘と共に駅まで連れて行かれ、軍用列車に乗せられました。訓練兵も乗っていました。窓に黒い紙が貼ってありましたが、その隙間から見ると憲兵と面の職員が書類を交わしていました。軍用列車に乗せられ、吉林駅に着き、そこからトラックに乗せられて、ひどく寒い場所に連れて行かれました。軍人が絶えず逃げないように見張りをしていました。着いた次の日の朝、兵隊に1人ずつ呼び出され、私はある将校の寝室に連れて行かれました。将校は私に服を脱ぐように命じました。私は工場に行くものだと思っていたので抵抗し、工場に行かせてくれるよう頼みました。将校は「ここは子供を作る工場だ」と言い、抵抗する私を何度も殴りつけ、服を無理矢理に脱がせ、下着をナイフで切り裂きました。私は驚いて倒れ気を失ってしまいました。気が付いた時には、ベッドの下にいました。下着が破かれ、ひどく痛かった。毛布を身体に巻いて出て行くように言われ、それに従いました。それから、テントの中に宿舎を決められ、そこで軍人たちの相手をさせられることになりました。 A板の上に毛布を敷いただけの1人がやっと居られるくらいの狭い場所で、軍人たちの相手をさせられました。命令に背いた者は死ぬと言われました。1年目は服、くつ、生理帯などを支給してくれましたが、2年・3年経つと、支給はなくなり、4年目の8月に解放になるまでこのような生活が続きました。 Bある朝起きてみると、突然兵隊たちが誰もいなくなりました。偶然戻ってきた1人の兵隊に、朝鮮は解放された、ここにいると中国人に殺されるから逃げろと言われました。金も靴も服もなく途方に暮れました。病気で起きられない人もいましたが、自分たちはいいから逃げてくれと言われたので、軍人の捨てていった左右違う靴をはいてとにかく逃げました。8月15日の夕方にそこを出て、何とか食いつないで歩き12月にソウルに着きました。 今でも身体に無数の傷痕が残っています。子宮も摘出手術をしました。 証言に対する所見 黄錦周は安秉直調査で採用されているが原告には入っていない。やはり、慰安婦にされた経緯が異なっている。 面の班長から義姉にきた供出「令状」により、身代わりとして工場労働と思って応募したことになっているが、安秉直調査では<(日本人班長)の夫人が村を歩き回って「日本の軍需工場に3年の契約で仕事をしに行けばお金が儲かる、一家で少なくとも1人は行かなければならない」と暗に脅迫しました。・・・養母が困っているのを見て、私は自分が行くと告げました>とされ、強制力のある「令状」のことは触れられていない。 また、彼女は養女となる時、養父母に200円の借金をしたとされているので、貧困のため下女として親に売られ、その後、転売された可能性もあり得る。 挺隊協本に登場。1927年12月生まれで19歳の時、村の班長から1歳上の義姉を供出せよとの天皇の命令が来た。姉は日本の大学へ行くことになっていたので、戸籍のない私が身代わりとして工場へ行くことになったと申し立てている。 村役場に集まった20人の娘たちと軍用列車で満州の吉林省へ行き、板の上に毛布を敷いただけの慰安所で軍人の相手をさせられたというが、1927年生まれだとすると連行されたのは終戦後の1946年になってしまう。1922年生まれで「国民服か軍服を着た日本人に連行」という挺隊協本の日付が正しいのかもしれない。 女性戦犯法廷(2000年)で配布された略歴では、「日本人の班長夫人に軍需工場行きと誘われた」とある。他にも不審な点が多い。 当時の日本には女性が入れる大学は内地にもなかったし、「戸籍がない」(意味不明)とか、村役場が20人もの娘を供出させたり、慰安所へ送り込むことはあり得ない。 証言者:吉甲順 @数えで17歳の時、娘の供出の噂が広まり、親から外出を禁じられました。父からは「お前は早く結婚しなければいけない」と言われていました。後から知ったことですが戸籍上は結婚させられていたのです。恐らく1940年か41年の秋の頃の夜、表で父が大声を出して騒ぎ、母も泣き叫んでいると思ったら、軍人が家に上がり込んで来ました。軍人は2人で、長い刀を下げていました。 無理矢理引っ張っていかれ、待機していた幌付きの大きな車に乗せられました。その夜のうちに約30名の娘が集められ、同乗させられました。一晩中その車に乗った後、埠頭に着きました(恐らくプサンであっただろうと思います)。そこから船に乗せられ長崎まで連れられ、日本語の補習や、軍人への接し方のような授業まがいのものを受けさせられた後、熊本まで連れてこられました。一緒に連れてこられた娘と合わせて全部で30名くらいが、別々に1人1部屋ずつ畳の部屋に入れられました。 A家の主人(中村という名前)が始終廊下で見張っており、トイレに行く時のほかはほとんど部屋から外に出られませんでした。恐怖におののいた時など、その場から逃げ出そうとすると、殴る蹴るの暴行をどれほど受けたことか分かりませんでした。気絶すれば水をかけられたり、焼きごて(インドゥル)を背中に当てられたりもしました。 軍人たちは次から次へと入ってきて行為をしました。1日平均して5人くらいの軍人の相手をさせられました。体が痛く、つらい思いで部屋にうずくまっている時にも、かまわず入ってきて行為をさせられました。 そこからは移動せず、結局5年間いました。その間に妊娠してしまい、2人子供を生みましたが、いずれも「そんな子供は欲しくない」と思い、臍の緒も食いちぎるようにして放置していると、家の奥さんが自分で育てるといって連れていきました。 Bある時爆撃らしきものがあり、周囲に誰もいなくなっているので、必死になって逃げました。銃撃を受けた民家に残った食料を食べるなどして何日か過ごし、港のある所まで来て、韓国人男性の運転する貨物船に乗せてもらい、帰還しました。 証言に対する所見 証言者の吉○○は安秉直調査で不採用、原告にも入っていない。彼女は熊本の慰安所で働かされたと証言しているが、熊本には軍慰安所はなく聞き取りの信憑性は低い 証言者:李貴粉 @12歳の時、日曜日に家の近所で縄跳びをしていたところ、刀を持った巡査と韓国人通訳がやってきて、「お父さんが探している」と言われたのでついていきました。列車に乗り、ウルサンの「チョウミョンギル下宿屋」に閉じ込められました。その後、商船に乗り下関に着きました。田舎の倉庫のようなところに連れていかれ、日本語や歌を習いました。15日後に台湾に行きました。台湾に到着後、貨物車に乗せられて、「娼家」に連れていかれました。そこで掃除等を行っていましたが、怖くなり2カ月後に脱走し、「藤本」という巡査の家族は帰国しましたが、自分はある朝、伍長と二等兵が乗るトラックに乗せられ、山の慰安所で働かされこととなりました。そこで11カ月を過ごしましたが、その後高雄の特攻隊部署の慰安所で働くことになりました。 A昼間から一等兵が列をなして並んでいました。お金は支給されませんでした。 B終戦後、高雄の海岸にいたところ、米軍の服を着た朝鮮人に助けられ、大極旗(?)を掲げた船で韓国に帰還しました。 証言に対する所見 台湾には軍慰安所はなく聞き取りの信憑性は低い。 挺隊協本に登場する1926年生まれの李玉粉(1926年生まれ)と同一人物か。12歳の時、家の近所で縄跳びをしているところへ巡査と韓国人通訳が来て「お父さんが探している」と言った。 ついて行くと列車と船に乗せられ、台湾の遊郭へ連れて行かれた。脱走して藤本という巡査の家で5年間、家政婦をした後、特攻隊用の慰安所へという身の上話。 1996年に来日して各地で証言した金允心(1930年生まれ)の「13歳の1943年春、縄跳びをしている時、巡査と軍人と韓国語のうまい男に騙され、ハルビンの慰安所へ」という身の上話に酷似している。 陰のシナリオライターがいたのかもしれないが、1996年10月に挺隊協の主催で彼女がワシントンのジョージタウン大学で身の上を語ると、「200名の学者、知識人で埋め尽くされた講堂を涙の海にしてしまった」そうである。 証言者:白?(白粉?) @15歳の時、日本で産婆をしている親戚のところに行き産婆の手伝いをしていました。16歳の秋、外で用事をしているとき、洋服姿の男2人がちょっと来いと手招きをしてきました。行ってみると、そばに黒いジープが停まっており、それに乗れと言いました。自分は乗らないと断ったのですが乗せられました。その後、他の4・5人の娘と一緒に汽車と船を乗り継いで、台湾に連れて行かれました。ずっと見張りがいて逃げられない状況でした。トイレに行くときも外に監視がいました。台湾に着くと、日本人の夫と平壌出身の妻の夫婦に引き渡されました。自分にあてがわれた部屋は、たたみ1枚を敷いたくらいの広さで、ふとん1組と枕2つ以外何もありませんでした。それが、普通の売春宿であったのかどうかわかりません。 部屋にいると、位の高い人が来ました。私はそのようなことをするのは初めてだし、嫌だったので抵抗しました。すると、店の主人がやって来て灰皿でひどく殴られました。今でも頭に傷が残っています。 A自分は小柄で処女だったのでなかなか客を受け入れられませんでした。逃げようとすると殴られました。下半身は傷だらけで腫れが固まり痛みましたが、毎日客をとらされました。反抗すると主人に殴られました。昼は兵隊、夜は将校が客としてきていました。 軍人は金を払っていましたが、自分はもらえませんでした。主人に言われて、週に1回くらい病院に行き、性病の検査を受けました。 昭和17年ころ、船でマニラに連れていかれました。港に着くと、軍の車が停まっており、20人位の女性と共にそれに乗せられました。台湾から自分らを連れてきた日本人は帰ってしまいました。着いた日の晩から客をとらされました。多いときは昼だけで35人の客をとったこともあります。その後、部隊び付いていろいろな場所に行かされました。死んだ軍人を運び、埋めるのを手伝ったりもしました。まさに日本人の軍人と苦労を共にしました。 B8月15日の解放後、マニラで捕虜収容所に入れられ、3カ月後軍艦で韓国に帰されました。お金はまったく持っていませんでした。 証言に対する所見 まず名前が1文字不明のままになっていることから、調査の杜撰さが分かる。彼女は安秉直調査で不採用、原告にも入っていない。 日本で洋服姿の男にジープに乗せられて台湾に連れて行かれたとされている。連れて行かれた所について、本人も「普通の売春宿であったかどうかは分からない」と証言しているが、台湾には軍慰安所はなかったから一般の娼家とみるのが順当だろう。その点の追及がない。 その後、マニラの軍慰安所に連れて行かれたとされている。売春業者によって連れて行かれたとも考えられるが、その点の追及もなされていない。 台湾には軍慰安所はなく聞き取りの信憑性は低い。 証言者:呂 @数え年18歳の時(1938年)、9月ころ、父が病床に伏していたのを看病していた時(母は既に7歳のとき死亡していました)、巡査1名と軍人7〜8名が家に入ってきて無理矢理連れ去られ、汽車で羅州(ナジュ)経由で天津まで連れてこられました。さらに車で奥地の方へ向かい、城砦のような所までいきました。田舎で土地の名前すら教えられませんでした。元中国人の家のような所に入れられました。 A午前10時から午後4時30分まで、1日30名くらいの軍人の相手をさせられました。夜は、位の高い軍人がやってきていました。爆撃を受けて足に傷を受け、歩行が不自由になったりした時でも続けて軍人の相手をさせられました。殴られて右目を怪我したりしました。 避妊具は隊長が保管・管理していたようでしたが、貴重品でした。避妊具を着けない軍人もおり、自分は当時から性病の恐ろしさを知っていたので着用を強く求めましたが、着用を嫌がる軍人から殴られたり切りつけられたりしました。部隊の軍医による身体検査が週に1回ありました。 合計2年間と少しの間そこにおりました。 B中国語と朝鮮語の双方に堪能な通訳がおり、その人の斡旋で、ある時汽車で平壌まで逃げました。平壌出身の女性の家でしばらく世話になった後、終戦を迎え、夜北緯38度線を越えて韓国まで帰還しました。現在も1人暮らし、足が痛むなどとてもつらい生活を続けています。 証言に対する所見 高木健一、福島瑞穂弁護士らが裁判原告候補として調査した「呂福実」。 高木氏らは追加調査が必要として原告にしなかった。 呂は、姓だけ「呂」とされ名が記されていない。政府調査の杜撰さの表れだ。安秉直調査で不採用、原告にも入っていない。ただし、高木健一、福島瑞穂弁護士らが1992年(平成4年)初めに実施した原告候補に対する聞き取り調査記録に出てくる「呂福実」であることが、内容から分かる。 彼女は巡査と軍人に強制連行されたと主張しているが、高木氏らは「事実関係でさらに調査が必要である」(『ハッキリ通信』3号15頁、日本の戦後責任をはっきりさせる会)として原告にしなかった。したがって、証言の信憑性は低い。 証言者:カンスンヘ @「配給を得るために娘を出せ」という話が里長よりなされ、自分が配給をもらいに行きました。その3日後、肩のところに3つの星をつけ、赤い腕章を巻いた日本の軍人が、自分の腕を掴み、連行しました。列車に乗り、釜山到着後、テードン旅館に入れられ、訓練を受けました。そこでは、警察署長のような怖い人が見回りをしており、周りは軍人が監視しておりました。20日後、船に乗り下関に行き、広島に一時滞在した後、軍の責任者と共に船で南方に向かいました。爆撃を受け、船が沈没したが、他の船に救助されてパラオにつきました。 3日後、「ホラップ部隊」に連行され、番号のついた小屋で働かされました。 A1日に20人から30人の相手をさせられました。「やれない」と言うと、軍人に銃剣で殴られ、背中を刀の部分で切られました。 B終戦後に米軍がやってきた後、船に乗って韓国に帰りました。 証言に対する所見 カンスンヘも安秉直調査不採用、原告でもない。「日本の軍人が、自分の腕を掴み、連行した」と主張しているが、連行の年度が不明であり裏付け調査もなされていない。
証言者:金学順 @生後すぐ父を失い、養父について平壌で暮らしていました。数えで14歳の時からキーセン学校に通っていました。これは飲食店ではなく公的な場所で芸を行うことを教える学校で、舞踊、楽器、歌などを覚えました。17歳で卒業しましたが、19歳以下は労働許可が下りませんでした。 数えで17歳の時(1941年春ころ)、少女供出の噂が広まり、養父ともう1人の養女とともに満州方面に逃げました。3日間ほど汽車に乗って北京に着きました。北京で下車し、食道のようなところで食事を終えて出ると、いきなり軍人が控えており、「朝鮮人か?」などと問われました。怖くて何も答えられずにいると、肩に星を2つ付けた将校風の軍人に連れて行かれました。 A元中国人の家のような所に入れられて、強姦されました。抵抗すると耳を殴られたり、手を切りつけられたりされました。「アイコ」と呼ばれて軍人の相手をさせられるようになりましたが、他にも「シズエ」「サダコ」などと呼ばれていた朝鮮人慰安婦がいました。 2カ月ほどして部隊は移動し、自分たちも一緒に移動しました。地名は定かではありませんでしたが、軍人たちはみな「鉄壁鎮」と呼んでいました。県名は「カッカ県」といような名前だったと思います。 軍人たちは夜になると「討伐だ」とか言って出かけて行きました。昼間から酒を持ち込み、自分たちを膝の上に乗せて騒いだりもしました。 結局、合計4カ月間ほど、慰安婦とされていたことになります。 Bある時、たまたま中国じゅうで商売をしているという朝鮮人の男が入ってきて、事情を話すと、見張りを避けて脱出させてくれました。中国国内を逃げに逃げ、北京、南京等各地を着の身着のままで移動しました。そのまま夫婦同然となり、自分が19歳の時、子供が生まれ、1ヵ所に定住しなければならなくなったので、上海に行き、フランス租界の中国人の家を借り質屋を開業しました。そこに終戦まで滞在し、引き揚げ船で帰還しました。 金学順の証言に対する所見 1991年8月に慰安婦第1号として名乗り出た後、高木健一弁護士に誘われて12月に提訴する。17歳でキーセン養成所を卒業、養父に連れられ北支へ。慰安所で4か月暮らし、脱走を手引きした朝鮮人の男と夫婦になり、上海で質屋を開業した。 名乗り出た時の記者会見で、彼女は母親に40円でキーセンの抱え主へ売られたと語っていたが、朝日新聞の植村隆特派員はその部分を報じなかった。私が高木健一弁護士へ「もう少し説得力のある慰安婦はいないのか」と聞いたら、「実は私もそう思って韓国へ探しに行ってきた。追加分(6人)は良いのばかりですよ」と答えてくれたことがある。 第1号だけに金学順はあちこちで証言をしているが、その異同ぶりはすごい。いずれにせよ、彼女は4か月の慰安所暮らしでサービスした日本兵を除き、全期間を朝鮮人の生活圏だけで過ごしている。他の元慰安婦たちもほぼ同様だったろうが、親を含む韓国人の責任を問う声は出たためしがない。 1991年の会見や訴状ではキーセン検番の養父に連れられて鉄壁鎮へ行ったと述べていた。内容を変えているので聞き取りの信憑性は低い。 金学順は、1991年(平成3年)8月初めて名乗り出た元慰安婦として有名だ。安秉直調査に採用され、もちろん原告でもある。彼女は 1991年(平成3年)当初に話していたことを1992年(平成4年)安秉直調査の頃から変えた。 名乗り出た直後は、「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌にあるキーセンの検番に売られていった。3年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れて行かれた所が、華北の日本軍300名あまりがいる部隊の前だった」(ハンギョレ新聞1991年(平成3年)8月15日)と証言していた。 訴状でも<家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守りや手伝いなどをしていた。金泰元という人の養女となり、14歳からキーセン学校に3年間通ったが、1939年(昭和14年)、17歳(数え)の春、「そこに行けば金儲けができる」と説得され・・・義父に連れられて中国に渡った。トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に3日間乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着した所が、「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」であることしか分からなかった。鉄壁鎮には夜着いた。小さな部落だった。義父とはそこで別れた>と同趣旨の記述がされている。 朝日新聞が彼女を挺身隊として強制連行された被害者だとという大誤報をした。その後、彼女は養父に連れられ北京に行き、そこで日本軍人に強制連行されたと証言内容を変えた。 当初の会見や1991年(平成3年)段階で書かれた訴状では、ここで見たように北京でのくだりはないが、政府調査と安秉直調査ではその部分が追加されている。原告は訴状で自己にとって有利になる事実は全部書くはずだ。訴状にもない強制連行体験が後から追加されたため、彼女の証言の信憑性は大幅に低下した。 証言者:石福任 @1939年、19歳のとき、班長が来て、「明日7時に若い女性を集めなければならない」との命令が下り、翌日、詰め襟服、帽子をかぶり、剣を肩に付けていた軍人の運転するトラックで駅に連れて行かれました。 そこで、階章がない服を着た日本人軍属の「ツキモリ」という男に引き渡され、列車に乗りました。南京を経由し船で漢口に到着し、トラックで2時間走った後、谷間にある慰安所に到着し働かされました。この慰安所は部隊にありましたが、その後部隊が移動した際、女性は置いていかれたので、41年にヴィエトナムに移り、ハイフォン、ハノイの慰安所で働いていました。 A慰安所は「出るに出られぬ籠の鳥」でした。部隊の慰安所では無料奉仕でしたが、「ジョウジュク館」とヴィエトナムでは6:4の割合で報酬を貰いました。「ショウジュク館」では、言うことを聞かなければ殴られたりバケツを持って立たされたりしました。 B終戦後、30名ほどの慰安婦と共にハイフォンからプサンに帰還しました。 証言に対する所見 石福任は、安秉直調査で不採用、原告にも入っていない。1939年(昭和14年)、班長の命令で日本人軍属により軍人の運転するトラックで連行され、列車で中国、漢口の慰安所に連れて行かれたと主張している。その後、「部隊が移動した際女性は置いていかれたので、『ショウジュク館』という民間の慰安所に入った」と話している。 強制連行してわざわざ慰安所を作ったのであれば、部隊移動の際も連れて行くはずだ。最初から民間の施設に売られたのではないかとも思われる。裏付け調査はなされていない。 証言者:尹順萬 @自分の家は名家で、祖父は国を奪われてはいけないということで家でハングルを教えていました。1941年3月17日の昼頃、突然、韓国人と軍人が家に入ってきて、祖父を後ろ手に縛り、抱えて連れて行きました。理由は独立運動をしたということでした。私は怖くて部屋の隅で泣いていましたが、腕を捕まえられて門の前に停めてあったトラックに乗せられました。 そこには軍人がたくさん来ていました。逃げようとしたら足をひどく殴られて逃げることができませんでした。トラックには多くの娘が乗せられ、端に軍人らが座っていました。それから汽車に乗せられて釜山に行き、私を含む33人の娘が倉庫に入れられました。1週間、食事はもらえませんでした。それから船で下関に行き、紡績工場で働かされました。給料は家に帰るときにやるということで、もらえませんでした。 2年くらいたったある日の昼前ころ、「出てこい」と言われて出ていくと、綺麗な娘ばかり17名が集められ、身体検査を受けさせられたあと大阪に連れて行かれました。そこで、韓国語を話す青年に無理やり関係を持たされました。それから、軍人相手の慰安婦にさせられました。 Aドアの外に待合室がありましたが、多いときはその外の廊下にまで客が並び順番待ちをしていました。下腹部が腫れるような時でも相手をさせられました。 大阪に1年半くらい居た後、下関に連れていかれ、そこでまた軍人たちの相手をさせられました。下関での生活は大阪よりずっとひどく、軍人も不潔で食べ物も粗末でした。ある日、客として来た大男を断ったところ、私の腕を強く後ろにねじ上げ、肘の骨を折りました。骨が折れる音がして私は気を失いました。そうなっても誰も食事を持ってきてくれるわけでもありませんでした。韓国人の軍人のおかげで病院に連れて行って見てもらったところ、腕を切るように言われました。私は腕を切るのは嫌だと言って切らずに済みましたが、今でも腕が曲がらずにいます。 B戦争の終わる少し前に、精神病患者が大勢いる収容所に連れていかれ、そこで解放を迎えました。9月に収容所を出ましたがお金がありませんでした。6月になってようやく韓国に帰れました。 家に戻ってみると、家は潰され、財産は全て持ち去られていました。父は炭鉱に連れていかれ死んだと聞きました。父の兄弟も満州に連れていかれたきり、行方不明です。身寄りはまったくありませんでした。その後、野良犬か乞食のように生きてきました。3年前くらいからは、「冠岳庵」でごはんをもらって生活しています。 証言に対する所見 下関、大阪には軍慰安所はなく聞き取りの信憑性は低い。 尹順萬も、安秉直調査不採用、原告にも入っていない。自宅に韓国人と軍人が来て下関の紡績工場へ強制連行され、2年後に慰安婦として大阪の慰安所へ連行されたと主張している。大阪に軍慰安所はなかったから、一般の公娼街で働かされたものと思われる。 証言者:金卿順 @18歳の頃、町内役場の職員が日本人とともに「日本で働けば金が貰える。また徴用中の兄にも会える」との誘いがあり、断ると怖いのでついて行きました。ソウルで汽車に乗り、プサンから下関に渡りました。(朝鮮人の役場職員はプサンまで同行しました)。下関到着後、2人の男に連れられ、ある家に着きました。その夜、軍服(星が1つついていた)と長い刀が掛かった部屋で、家の主人に強姦されました。その後、「朝鮮へ帰りたい」と訴えていると、数日してからその家の息子に汽車に乗せられ、大阪に連れられました。そこで軍服を着た軍人と思われる人にジープで連行され、倉庫のような建物に連れられました。そこが慰安所でした。 A1日に何人もの相手を強要され、抵抗すれば殴られました。慰安所には20〜25名の女性がいましたが、韓国語を使うことは許されず、また外への戸扉には鍵が掛かっていました。 B慰安所に来た将校に助けられ、車に乗り、途中の経過は全く記憶にありませんが、とにかくソウル駅に着き、両親の家に戻りました。終戦前のことです。 証言に対する所見 大阪には軍慰安所はなく聞き取りの信憑性は低い。 金卿順も安秉直調査調査不採用、原告にも入っていない。彼女も、町役場職員と日本人にカネが儲かると騙されて、大阪の慰安所へ連行されたと主張しているが尹順萬と同様に一般の公娼街で働かされたものと思われる。 証言者:朴福順 @15歳の時から宣教師の家に一人で養女のようにして育てられていました。16歳の時、工場等の働きに行く場所もなく、他の若い朝鮮人もそうしていたように、日本人の家で家事の手伝いをしていました。そこは日本人軍属の家でした。ある時中国方面に働きに行くと言われて、他の娘さん4人と共に汽車でソウルまで行きました。ソウルでは他から来た女性も合流して計220名ほどになり、「ひかり」という名の中国行きの列車で「ペダン」という所まで連れて行かれると、総計50名くらいの女性が集められていました。女性は10名くらいずつのグループに分けられ、それぞれの場所へ赴いていきました。自分は「ナツメキョウ」という所に連れていかれました。翌朝、軍人が「今日からは軍隊の言うとおりにしろ。さもなくば両親のもとにも帰れなくなるぞ」と言われて、天幕を張った個室に皆入れられました。 A慰安所では「カネダ・キミコ」と呼ばれていました。夜、軍人は何人も外に並んで順番を待っていました。抵抗すると刀で胸に傷をつけられたりしました。衛生室に行き、傷口を縫って薬を塗り、「ロクロク」と呼ばれる注射をされたりしました。衛生室、慰安所、部隊本隊はそれぞれ幾分離れた所にありました。衛生室では「サエキ軍曹」という人が最高責任者のようでした。 怖くて別の場所を希望すると、「ソッカザン」という所に移されましたが、そこでもまた「言うことを聞かないと殺す」と脅かされ、ひどい仕打ちを受けました。「ソッカザン」には都合2年間いましたが、部隊が移動する際に、希望して再び「ナツメキョウ」に移動しました。 その後、部隊はいくつかの小隊に分かれたりして小移動を繰り返し、慰安婦たちも数人ずつ分かれて移動しました。「ユダマル」という地名の田舎にもいたことがありました。結局7年間、東西南北いろいろな所に移動しました。 通常は1日15〜20名の軍人相手をさせられました。すぐ近くに中国軍がいたようで、軍人が沢山死ぬのを目撃しました。慰安婦たちも、一緒に防空壕に入り、中で餓死したり、ガス中毒死させられる者もいました。そんな中で、時には軍人の看護をせざるを得ない時もありました。 B上海にいた時、ある朝鮮人の憲兵隊長と親しくなり、内密にいろいろ便宜を図ってくれて、韓国に帰還することができました。 証言に対する所見 訴状では「金田きみ子」 朴福順は、安秉直調査不採用だが、原告には「金田きみ子(源氏名)」として入っている。日本人軍属に中国に働きに行くと騙されて天津近くの慰安所に連れて行かれたと話している。裏付け調査はなされていない。 証言者:陳慶 @14歳のとき、近所の人の紹介で馬山にある軍人の日本人の家で家政婦として働くようになりました。15歳のとき、そこの主人に、友人の軍人についていきなさい、ついていけばいいことがあるよと言われ、ついて行きました。釜山から船で下関に行き、そこから他の韓国人の娘5人、日本人の娘6、7人と一緒に「きよ丸」という船で台湾に行きました。 台湾に着くと、岡山航空隊に連れていかれました。航空隊から15分か20分くらい歩いた山の中の洞窟の中に、「新町」と呼ばれる、布で25個くらいの部屋に仕切った場所がありました。 昼間は看護婦をして働いていましたが、1週間くらいした日の夜、そこで初めて客をとらされました。28−29歳くらいの位の高い軍人で名前も覚えています。彼はその後、私の恋人となり、何度も来てくれたが死んでしまいました。慰安婦という意識はありませんでした。幼かったし、やれと言われたのでやりました。 A1年半くらいは、昼は看護婦、夜に呼ばれたときは軍人の相手をするという生活でしたが、その後、新町で慰安婦だけをするようになりました。数年後、陸軍のトラックに乗せられて、「きなり山」というところで慰安婦の生活をさせられました。ここの陸軍の人たちは、航空隊の海軍の人たちと違って優しくなく、刀を抜いて脅されたこともありました。食糧も乏しく、マラリア等の病気も広がり、多くの人が死にました。 B解放の翌年の46年、国連が送ってきた船に乗って韓国に帰りました。 証言に対する所見 台湾には軍慰安所はなく聞き取りの信憑性は低い。 陳慶は、安秉直調査不採用、原告にも入っていない。軍人についていくといいことがあると騙されて台湾の慰安所に行った。昼は看護婦、夜は慰安婦をさせられたと話す。台湾に「軍慰安所」はなかった。 証言者:文冨全 @17歳の時、ソウルの百貨店で働いていましたが、夜帰宅して食事をしている時、軍人1人と巡査1人(家の近くの顔見知り)が侵入してきて連れられました。ソウル駅から合計100名ほどの女性とともに汽車で、ハルピン経由南京まで連れていかれました。南京から更に船に乗って1時間ほど行きました。そこは南京のはずれの方だが、一応市内であるとのことでした。大きな元中国人の家風の建物に入れられました。 A玄関には「モリモト」という名前の軍人(軍服に星はなく、おそらく兵卒と思われます)が坐って見張りのようなことをしていました。回廊のようになっている所に部屋が並んでいて慰安婦が1人1人入り、軍人は中庭のような所で列を作って順番を待っていました。一緒にいた女性は100人ほどいましたが、彼女らが全て入ってもまだ部屋が余るほどの大きな建物でした。 土曜日、日曜日には多くの軍人が来ました。平日は将校が来ていました。軍人は靴も脱がずに入ってきて、いきなり性行為におよびました。遊妊具は使用しましたが、すぐ破れたりしました。性病を患うこともありました。606号という薬を投与されて一応は治りましたがまだ膿が出たりします。「ヨコネ」というリンパ腺の病気にも罹りました。 3年半、移動せずそこの慰安所にいました。慰安所では1銭も貰っておりません。 B慰安所にいた時、そのまま終戦を迎え、「テゴ」という場所から、船で黄海道(北朝鮮)まで行きました。このころ既に北にいる韓国人は速やかに南に帰るようにとの動きがあり、ソウルまで列車で帰還しました。 証言に対する所見 文冨全も、安秉直調査不採用、原告にも入っていない。自宅に軍人1人と巡査1人が来て南京郊外の慰安所へ強制連行されたと語っている。裏付け調査はなされていない。 証言者:盧清子 @1938年、17歳の時、畑仕事をしていると、「若い娘を探している者がいるので早く逃げろ」との母の言葉に従い逃げようとしました。しかし8〜9人の軍人に掴まり、4日間トラックに乗せられた後(4台のトラック。1台当たり30名くらいの娘が乗っていました)、列車に乗せられ、「テオン」に着きました。軍人の乗ったトラック1台とともに、娘たちはトラック2台に分乗させられ、「オデサン」に連れられました。到着後、慰安所に入れられました。 3年目に朝鮮人商人とともに天津に逃げようとしましたが掴まり、吉林に連行され、「ヨシムラ大尉」の相手をしました。 A朝は弾を拾い、昼は洗濯、午後は将校の靴みがき、夕食後は前線から戻った兵士の相手(10〜20人、多い時は50人)をさせられました。外出には許可が必要でした。慰安所では軍人に抵抗すると殴られ、ひどい時には殺される者もいました。 B25歳の時に逃げ出して韓国に戻りました。 証言に対する所見 盧清子は、安秉直調査不採用だが、原告には入っている。8〜9人の軍人に中国オデサン慰安所へ強制連行されたと語っているが、裏付け調査はなされていない。 証言者:李相玉 @14歳の時、「工場に就職させてやる」と近所の日本人に誘われ、20人ほどの女性と一緒に船で連れて行かれました。翌日、どこかでさらに大きな船に乗せられ、どこかへ連れて行かれました。 A船から降りると、徒歩で林を抜けて椰子の木の皮で作られた家に連れて行かれました。(場所は南洋方面のようでした。)夕方になり、軍人がやってきました。自分は年が若かったので、真っ先に相手をさせられました。軍人は入口のところで金を払っていたようです。 抵抗すると、噛まれて胸に5〜6センチの傷が出来たり、刀で足に傷をつけられたりしました。主人は給料をくれず、新しい服を買っては天引きのようなことをしていました。戦争が激化し、食料が不足する中、部隊と共に逃げ回りました。死体が沢山転がっている中の移動で、思い出すだに恐ろしいです。そんな状況で終戦を迎えましたが、ガラス瓶の破片で自殺する日本軍人もいました。 場所については、後で知ったことですが、サイパン、パラオ等を移動していたようです。 合計11年間も慰安所生活をしていたことになります。 B米軍に救助され、終戦後の12月米軍の船でプサンまで帰還しました。今でも居候生活を続けています。毎日鎮痛剤を飲んでいます。 証言に対する所見 14歳の時、「工場に就職させてやる」と近所の日本人に誘われ、20人ほどの女性と一緒に船で連れて行かれたと申し立てている。その後の足取りは「翌日、どこかでさらに大きな船に乗せられ、どこかへ連れて行かれた・・・降りると椰子の木の皮で作られた家(11年滞在)でやってくる軍人は入口で金を払っていたようだが、主人は給料をくれず」と申し立てている。 調査団は「南洋方面か」「サイパン、パラオか」と書きいれているが、1934年〜1940年頃までこの方面には日本軍は駐屯していなかったから一般の売春宿か。掴みどころのない話ばかりだ。 李相玉は、安秉直調査不採用、原告にも入っていない。14歳の時、工場に就職させてやると騙されてサイパンの慰安所へ連れてこられたと話すが、裏付け調査はなされていない。 |