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「なぜ『集団的自衛権』の首相発言に、最高裁判所は沈黙を続けているのか。(日々雑感)」
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バカバカしい話にますます慣れっこになってきたので驚きはしないが、2月12日の衆議院予算委員会で安倍首相が行った(行政における)憲法解釈の最高責任者が内閣総理大臣であるという答弁がひどく問題視されるという異様な状況には棹を差したくなる。
憲法条文の解釈に関する安倍首相の答弁を問題視している人たちは、とんでもない誤解というか大きな錯誤をしていると思われる。
(大騒ぎしている人たちは、安倍首相およびその周辺の思惑に引っ掛かって、期待通りのつまらない反応を見せているとも言える)
憲法解釈の見直し判断について「私が最高責任者」と答弁した安倍首相の趣旨は、憲法第八十一条で規定された最高裁判所の違憲審査権を否定するようなものではなく、内閣が作成した法案を国会に上程しようとしたときに行う“憲法との整合性チェック”について最終的な責任を負うのは、内閣法制局長官ではなく内閣総理大臣という主張でしかない。
それを端的に示す安倍首相の答弁内容が、「最高の責任者は私です。私が責任者であって、政府の答弁に対しても、私が責任を持って、そのうえにおいて、私たちは、選挙で国民から審判を受けるんですよ。審判を受けるのは、法制局長官ではないんです」という部分である。
わざとだろうが“私”は“私”はという用語法は稚拙でウザイが、内閣総理大臣が最高の責任者であると主張するときに想定されている比較対象者は、最高裁判所(裁判官たち)ではなく、内閣法制局長官である。
このことだけでも、安倍首相が超越的な権限を主張し最高裁判所や司法権の独立を侵したというような批判が間違いであることがわかるはずである。
これまで、法制局長官が重々しい存在で格別の“憲法解釈権”があるように勘違いされて(扱われて)きたことこそが問題なのであり、内閣法制局は、内閣総理大臣の統制のもと内閣の法案作成をサポートする内閣に属する行政機関に過ぎない。
だから、行政機構における憲法解釈の最高責任者が内閣法制局長官ではなく内閣総理大臣とする安倍首相の答弁は、芝居がかってわかりにくいものではあるが、まっとうなものなのである。
(法制局の現在の正式名称は内閣法制局だが、そう呼ばずに法制局と呼び続ける奇妙な慣習もある。内閣法制局長官は、局長とすべき職名でありながら戦前と同じように長官とされ格が高い扱いを受けているが、憲法に規定された職位でもなければ選挙で選ばれるわけでもない特別職の国家公務員(非認証官)である)
法律の違憲審査というテーマで言えば、内閣が法案を作成し国会に上程することそのものが違憲だと判断している。
この点から言えば、内閣法制局そのものが不必要で無用の行政機関である。
本当に必要で充実させるべきは、国会議員の法律案作成をサポートする衆議院法制局や参議院法制局ということになる。そして、憲法解釈の内容が問題になるとしたら、内閣法制局のそれではなく、二つの議院法制局の見解であろう。
内閣が法案を作成し国会に上程することそのものが違憲というのは、憲法のなかに、内閣が法律案を作成し国会に上程(提出)できるとするような条文は存在しないからである。
逆に、「国会は、国の唯一の立法機関である」(第四十一条)と第七十三条に列挙されている内閣の事務内容を考え合わせると、大日本帝国憲法時代と違って、法律を作成し国会に上程する権限を内閣は認められていないと判断するのが妥当である。
日本国憲法は、内閣が法律に従わなければならないとは規定しているが、内閣が法律案を作成し国会に提出できるとは規定していない。
天皇の大権を基礎とした大日本帝国憲法と違い三権分立を重視する日本国憲法は、国会の採決を経るとは言え、内閣が自分で作成した法律に従うという事態を想定していないのである。
「官僚支配」の根源は、官僚機構に支えられた内閣が法律案を作成し国会に提出できることを認めていることにあると言える。
※ 憲法第七十三条に列挙された内閣の事務内容
一 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
二 外交関係を処理すること。
三 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
四 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
五 予算を作成して国会に提出すること。
六 この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
七 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。
冒頭に示した「日々雑感」ブログには、「憲法の番人は最高裁判所である。下級裁判所にも違憲審査権は付与されているが、最高裁判所にだけ「違憲立法審査権」がある。国会で決議された法律が憲法に反していないか、最高裁判所は審査することになっている。しかし現行は『抜かずの宝刀』に過ぎず、日本国憲法は運用に関して融通無碍になっている」と書かれているが、最高裁判所は尊属殺人や婚外子の相続権などで違憲判断を行っているので、『抜かずの宝刀』とは言い切れない。
確かに、自衛隊や駐留米軍そして“一票の重さ”など政治性が高いテーマについては、統治行為論なる政治的理屈を持ち出すなど、『抜かずの宝刀』と揶揄できるような態度を示してきた。
※ 違憲立法審査権は、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」(第八十一条)の規定から、下級裁判所にも違憲立法審査権はあり、最終判断(終審)は最高裁判所の権限と規定されているとしたほうがいいだろう。
就任後わずか1年少々のあいだに妄言の繰り返しで日本の名誉をずたずたにした“危なっかしい”安倍首相の「憲法解釈の見直し」発言をとやかく言う気持ちは理解できるが、最高裁判所も「憲法解釈の見直し」は行ってきた。(内閣法制局長官も)
尊属殺人や婚外子の相続権差別の規定も、憲法の条文はまったく変わっていないのに、ある時点までは合憲とされ、ある時点で違憲に変更されたのである。
最高裁判所のこのような変移を考えれば、望ましいものではないと思うが、内閣が憲法解釈の見直しをすることに格別の問題があるとは言えない。
違憲審査などについて最高裁判所に過大な期待を寄せる向きもあるが、日本国憲法の三権分立構造論(立法権・行政権・司法権の相互規定性)に照らせば、最高裁判所の違憲審査も、形式はともかく実質的には、衆議院多数派政治勢力なかんずく内閣総理大臣の“意向”に大きく左右されてしまうものであることがわかる。
憲法の規定に拠れば、内閣総理大臣の指名は国会だが衆議院の議決に優先性(第六十七条)、内閣構成員(大臣)の任命と罷免が思い通りにできる内閣総理大臣(第六十八条)、最高裁判所長官の指名と最高裁判所裁判官の任命は内閣(第六条・第七十八条)という“任命権構造”になっている。
このような構造は、衆議院で多数派が形成できれば、立法権・行政権・司法権の三権をほぼ掌握できることを意味する。
最高裁判所の裁判官が内閣総理大臣に抗することができる憲法規定は、「裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(第七十六条)と「裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない」(第七十八条 )の二つである。
主権者である国民が最高裁判所裁判官に抗することができる憲法規定は、「最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする」(第七十八条 )である。
ものは言いよう、理屈は付けようだから、最高裁判所裁判官が任命時の内閣総理大臣もしくは衆議院多数派政党と価値観的に近ければ、違憲審査の内容も、内閣総理大臣や衆議院多数派政党の“憲法解釈”に沿ったものになってしまうのも不思議ではない。
これをものは言いようで表現すると、衆議院で多数派を得た政党(政治勢力)が三権のすべてをほぼ掌握できるようになっている憲法の規定は、「国家の一体性と統一性を維持するための権力構造規定」ということになるのだろう。
※ 参照投稿
「安全保障基本法案「提出決めていない」 :先吠えで貢献した番犬=小松長官:「河野談話」に続きリベラル政策に“戻る”安倍首相」
http://www.asyura2.com/14/senkyo162/msg/785.html
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