http://www.asyura2.com/14/senkyo162/msg/476.html
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黄錦周さん「慰安婦になった経緯をお話します」
1「生活は貧しく、12歳のときに100円で売られた。
ソウルの金持ちの家で小間使い。
1938年に威鏡南道ハムン郡で女中をしていた時に、
その家の娘の身代わりとなって満州に連行され従軍慰安婦となった」
2「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に、
日本軍の工場に働きに行くように命じました。
そのとき私は労働者として徴用されたのだと思いました。」
3「私は19歳で学校を卒業する25日前に、日本軍に引っ張り出され、
仕方なく慰安所に行ったんだ」
4「満18歳になったある日、男がやって来て、
村から娘を提供するように言いました。」
5『村の班長(日本人)に「一家に一人は行かなくては」と脅され、
1941年、韓国を離れましたが、到着した場所は、慰安所でした。』
6「14歳のとき、いわゆる「少女出」で満州に連行され、
皇軍兵士のセックスの道具にされた。つらい体験だった。」
嘘や詐欺のつもりなら設定ぐらい固めるもんだから
黄さんは話芸でメシ食ってる感覚だと思う。
(1)従軍慰安婦と戦後補償 / 著者:高木健一
(2)国連・経済社会理事会クマラスワミ報告 / 1996年1月4日
(3)"TBS"「ここが変だよ日本人」
(4)「日韓社会科教育交流団韓国を訪問/1997夏期
(5)旧日本軍「従軍慰安婦」の証言を聞く集会 / 1997年12月5日
(6)黄錦周さんの証言を聞く会 / 2001.07.17 / 東京大学にて
(http://anond.hatelabo.jp/20130919155702)
証言するたびに言うことが変わる「自称従軍慰安婦」黄錦周。
一般的には「詐欺師」と言われるんですが、阿修羅に集う反日左翼の皆さんは、「自称従軍慰安婦」黄錦周さんのことをどう思ってるんですか?
詐欺師だろうが、何だろうが、日本を貶めるためには何でも活用できるから嬉しいと思ってるんでしょうか?
でも人間として「嘘」はいかんと思う。
<参考リンク>
■反日で有名な関西ネットワークの黄錦周死亡に対する声明
http://www.ianfu-kansai-net.org/news3.html
みなさま
年が明けて最初のお知らせが被害者の訃報になるとは・・・。
つい先ほど、韓国挺身隊問題対策協議会より黄錦周(ファン・クムジュ)ハルモニの訃報が届きました。
黄錦周ハルモには、早くから「慰安婦」被害者として名のりでられ、日本にも何度か来日、証言をされています。
怒りのこもった厳しい目と、しわがれた大きな声で日本政府の態度に怒りをぶつけておられた姿を、多くの方が記憶されていることと思います。
日本政府の罪をあんなにも強く問い続けたハルモニが、謝罪の言葉ひとつ受けることなく逝ってしまわれたことを思うと、無念でなりません。
心よりご冥福を祈り、この悔しさと悲しみをバネにして、
今年こそ被害者の願いが叶うよう頑張っていきましょう。
[挺対協報道資料2013-1]
故ファン・グムジュハルモニが1月3日午後1時45分頃亡くなられました。
故ファン・グムジュハルモニは、1922年にプヨで生まれました。1934年頃、13歳のときにハムン・チェ氏の家に養女として入り、1941年、日本の軍需工場に行って3年契約で働かなければならないという通知を受けた主人の家の長女の代わりに連れていかれたのが、軍需工場ではない中国吉林にある民家さえない軍部隊でした。
その後、吉林や満州などで日本軍性奴隷としての苦しみを味わいました。
1945年に解放を迎えましたが、戦場に捨てられたファン・グムジュハルモニは服や靴を拾って身にまとい、食べものを乞いながら歩いてチュンチョンまでたどり着き、その後、石炭車に載せてもらいチョンニャンニで降りてソウルで暮らし始めました。
ファン・グムジュハルモニは、1992年に挺対協へ被害者申告し、それからは誰よりも積極的な人権運動家として活動しました。1992年8月には国連人権小委員会が開かれるスイス・ジュネーブへ挺対協代表団と訪問し、日本軍「慰安婦」として経た凄まじい経験を暴露、国際人権専門家たちに衝撃を与えました。その後、米ワシントン・NY・アトランタ、カナダ、日本など世界各地を廻り日本帝国主義が女性に犯した蛮行を告発しました。
日本大使館前では「謝罪せよ!」「私の青春を返せ!」と身をよじって絶叫し、時には水曜デモを妨害する韓国警察に向かって「おまえたちはどこの国の警察だ!」と激怒しました。
そんなハルモニも2005年から認知症を患い、釜山にいる娘さんのもと近隣の療養院で治療を受けていましたが、2013年1月3日午後1時45分頃亡くなられました。
1月5日に葬儀が行われ、天安望郷の丘に眠る故キム・ハクスンハルモニのお墓の隣に埋葬されます。
ハルモニが晴らせなかった無念、私たちが晴らせるよう、挺対協は屈せず活動していきます。故人の冥福をお祈りくださり、家族と知人に平和を願い、ハルモニが果たせなかった夢を私たちが力をあわせ成し遂げられるようご協力願います。
共同代表
ユン・ミヒャン ハン・グギョム
■韓国軍慰安婦(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E8%BB%8D%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6
韓国軍慰安婦または大韓民国軍慰安婦 (한국군위안부、대한민국군위안부、Korean Military Comfort Women[1])とは、韓国軍と在韓米軍や国連軍を相手にした慰安婦。朝鮮戦争やベトナム戦争では韓国はアメリカ合衆国を基盤とした連合軍に参加したため、韓国で設置された慰安所および慰安婦(特殊慰安隊)は韓国軍だけでなく米軍をはじめとする国連軍も利用した。
韓国陸軍本部が1956年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』には「固定式慰安所-特殊慰安隊」とあり、朝鮮戦争中は「特殊慰安隊」[2][3][4][5]または「第5種補給品」[2][6]とも呼ばれた。
朝鮮戦争後は「美軍慰安婦(美軍はアメリカ軍のこと)」[7]「国連軍相対慰安婦(UN軍相對慰安婦)」と呼ばれた[8][7]。
ほかに蔑称の意味合いもある「洋パン(ヤン・セクシ)」[6]「洋公主(ko:양공주、ヤンコンジュ、ヤンカルボ)」[9][6][4]、また毛布一枚で米軍基地について回るという意味で「毛布部隊」[9]、ベトナム戦争時は「ディズニーランド」とも呼ばれた[10]。また米兵を相手にするフィリピン人慰安婦を「ヤンキー売春婦」「コメで動くチビ茶色のファッキンマシーン」などとする蔑称もある[11]。ほかにジューシーガール(juicy girls)、バーガール(bar girls)、ホステス(hostesses)、エンターテナー(entertainer)という言い方もされる[12][13]。
「挺身隊(정신대)」[14]・国軍挺身隊とも呼ばれた。
これらの英語表記はcomfort womanであり、日本語の慰安婦の英訳と同一である[9]。英語では韓国軍・在韓米軍慰安婦は一般にKorean Military Comfort Womenと表記される[1][9]。
もっとも朝鮮戦争やベトナム戦争におけるこの種の行為について韓国内では全く議論になっていないため、韓国最大手の新聞朝鮮日報でも「人の心を持った国なら、自国民を国営売春婦にするという発想はしない。」との記事を執筆するレベルの認識にとどまっている[15]。
連合軍軍政期の朝鮮における慰安婦[編集]
第二次世界大戦で大日本帝国が連合軍に敗北したため、朝鮮半島は1945年9月2日から、日本統治期より連合軍軍政期に移った。
朝鮮半島においては、連合軍による軍政が敷かれ日本軍将兵を相手にした慰安所、慰安婦ともにアメリカ軍に引き継がれた[12][16][9]。1945年9月には、日本軍兵站基地があった富平に米軍基地が居抜きで建設され、基地周辺にあった公娼地域も引き継がれた[9]。富平基地はキャンプ・グラント(Camp Grant)、キャンプ・マーケット(Camp Market)、キャンプ・タイラー(Camp Tyler)、キャンプ・へイズ(Camp Hayes)を網羅する広大な基地だった[9]。
第8軍の龍山基地周辺には梨泰院があり、これも日本軍将兵も利用した公娼地域であった[9]。ほかにも釜山、玩月洞、凡田洞(ハヤリア隊基地入り口)、大邱の桃源洞(チャガルマダン)、大田の中央洞などの公娼地域も同様に引き継がれた[9]。
1947年11月には公娼制が廃止されたが、1948年に米軍は公娼制廃止によって性病が蔓延したと主張し、娼婦の性病検査は1949年まで続けられた[9]。
朝鮮戦争と特殊慰安隊[編集]
1948年8月15日にはアメリカ合衆国の支援を受けて大韓民国が建国された。同年9月9日には朝鮮民主主義人民共和国が独立する。しかし、1950年より南北朝鮮の間で朝鮮戦争が勃発、1953年7月27日に休戦する。
朝鮮戦争中に韓国軍は慰安婦を募集した。韓国政府は、韓国軍・米軍向けの慰安婦を「特殊慰安隊」と呼び、設立した[7][2][17]。
大韓民国政府は、韓国軍と国連軍のための慰安所を運営した[18]。韓国軍は直接慰安所を経営することもあり、韓国陸軍本部は特殊慰安隊実績統計表を作成していた[2][3]。部隊長の裁量で周辺の私娼窟から女性を調達し、兵士達に補給した[6]。韓国軍によりトラックで最前線まで補給された女性達は、夜になると開店しアメリカ兵も利用した[6]。
韓国戦争以降1990年代まで在韓米軍の韓国駐留時[19]に大韓民国の国軍によって強行され、大韓民国の国軍と在韓米軍の性的欲求を解消する目的で強制的に集団的性行為を強要された事例もある。
「特殊慰安隊」[編集]
韓国軍が1951年-1954年まで「特殊慰安隊」という名前で、固定式あるいは移動式慰安婦制度を取り入れて運用したことは韓国陸軍本部が1956年に編纂した公式記録である『後方戦史』(후방전사)の人事編と目撃者たちの証言によって裏付けられた[20]。
韓国軍は慰安婦を「特殊慰安隊」と名付け、慰安所を設置し、組織的体系的に慰安婦制度をつくった[21][22]。
第五種補給品[編集]
尉官将校だった金喜午の証言では、陸軍内部の文書では慰安婦は「第五種補給品」とよばれた[21][23]。
軍補給品は1種から4種までだったため、そのように呼ばれた[21][23]。
韓国軍慰安婦の類型[編集]
金貴玉によれば、韓国軍慰安婦の類型には、軍人の拉致、強制結婚、性的奴隷型、昼は下女として働き、夜には慰安を強要されたり、また慰安婦が軍部隊へ出張する事例もあった[21]。
また、正規の「慰安隊」とは別に部隊長裁量で慰安婦を抱えた部隊もあった[24]。
設置理由[編集]
特殊慰安隊の設置理由は、兵士の士気高揚、性犯罪予防であり、これは日本軍慰安婦と同様のものであった[21]。計画は陸軍本部恤兵監室が行い[21]、1950年7月には韓国政府は軍作戦識見を米軍を中心とした国連軍に譲渡しており、最終的な承認は連合軍が行ったとされる[21]。韓国政府・軍は慰安婦に対して「あなたたちはドルを得る愛国者」として「称賛」されたという[25][9]。
慰安婦の輸送方法[編集]
慰安婦は前線に送られる際には、ドラム缶にひとりづつ押し込めてトラックで移送し前線を移動して回り、米兵も利用した[22][6][26]。
設置時期と場所[編集]
韓国政府は、韓国軍だけではなく国連軍のための慰安所も運営した。
釜山・馬山[編集]
朝鮮戦争が始まってほどない1950年9月、釜山に韓国軍慰安所が、馬山市に連合軍慰安所が設置され[4]、釜山日報の報道によれば、馬山の国連軍用慰安所は5ヶ所あった[27])。
1951年には釜山慰安所74ヶ所と国連軍専用ダンスホール5ヶ所が設置される[4][9]。
江陵・春川など[編集]
江陵市には、第一小隊用慰安所(江寮郡成徳面老巌里)が、他に春川市、原州市、束草市などに慰安所が設置された[21]。
ソウルの慰安所[編集]
ソウル特別市地区には以下の3ヶ所が設置された[21]。
第一小隊用慰安所(現・ソウル市中区忠武路四街148)
第二小隊用慰安所(現・ソウル特別市中区草洞105)
第三小隊用慰安所(現・ソウル特別市城東区神堂洞236)
朝鮮戦域における日本人慰安婦[編集]
朝鮮戦争では日本人慰安婦も在日米軍基地周辺、また朝鮮半島へも日本人慰安婦が連れて行かれたこともあった[28][29]。
朝鮮戦争時の慰安婦の数[編集]
総数は不明。金貴玉教授は朝鮮戦争直前の私娼の数5万人を下ることはないと見ている。なお、朝鮮戦争後には性売買をする女性は30万人余りに達したと推測されている。[20]
韓国陸軍本部が1956年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』によると韓国軍慰安婦は1952年における4小隊に限ったケースだけでも89人の慰安婦が204,560回の行為を行わされた[2][3]。
強制連行[編集]
韓国・アメリカ軍に捕えられた北朝鮮軍看護婦。捕えられた北朝鮮女性はレイプされたり強制的に慰安婦にさせられることもあった[5]。
韓国軍慰安婦のケースでは韓国政府やアメリカ政府による強制があったとされている[25][2][3][30]。 韓国における慰安婦はアメリカ兵に残忍に殺害されることや、アメリカ兵によるとされる放火で命を落とすこともあった[30]。
国連軍による性暴力と強制連行[編集]
崔吉城は論文「朝鮮戦争における国連軍の性暴行と売春」において、朝鮮戦争時には敵国ではない韓国において国連軍がソウル市北部の村で日中、シェパードを連れて女性を捜索し、発見後に強姦に及んだり、またジープにのって民家を訪れ女性を強制連行して性暴力をはたらいたことや、韓国人兵士が韓国人女性に性暴力や性拷問をはたらいたことを紹介している[31]。性暴力をうけたのは女性だけでなく、10歳位の男子がフェラチオを強要され喉が破裂したこともあった[31]。
北朝鮮人女性の強制連行[編集]
朝鮮戦争中に韓国軍に逮捕された北朝鮮人女性は強制的に慰安婦にされることもあった[5]。
韓国軍の北派工作員は北朝鮮で拉致と強姦により慰安婦をおいていた[3]。
捕虜となった朝鮮人民軍女軍[32]、女性パルチザンゲリラ、そのほかに朝鮮人民軍や中国の人民志願軍の占領地内の住民である朝鮮人女性のうちまだ疎開しなかった女性などが、共産主義者を助けたとの名目で強制的に性奴隷にされた。
朝鮮戦争休戦からベトナム戦争まで[編集]
閉鎖と存続[編集]
1953年7月27日の朝鮮戦争の休戦にともない各慰安所は1954年3月に閉鎖され[21]、翌1954年に「正規」の「慰安隊」はなくなったが、事実上の慰安隊が私娼の形で存続し費用は「厚生費」などの名目で支出されていた[20]。
軍隊慰安所は公式には解体されねばならなかったが、韓国政府とアメリカ政府は存続の協議のため「性病対策委員会」を設置した[9]。1957年の会議では米経済調整官室(Office of Economic Coodinator,OEC)側は、決定を韓国側で行ってほしいと韓国側に要請し、ソウル、仁川、釜山に接客業所やダンスホールを指定し設置した[9]。こうして洋公主は、国家管理によって慰安婦と「米軍同居女」の二つに分類されるようになり、東豆川や議政府という基地村が栄えていった[9]。
1955年のソウル市警察局によると米軍相手の性売買女性は61,833名であった[4]。
売春業者による誘拐事件[編集]
朝鮮では1930年代にも売春斡旋業者による少女誘拐事件が頻発したが[33]、朝鮮戦争後も売春斡旋業者による少女誘拐事件が発生している。1956年4月には「売淫ブローカー」によって少女2名が誘拐[34]。
また1956年7月11日の東亜日報は「田舎の処女誘引 売春窟に売った女人検挙」との見出しで、少女を誘拐し売春を強要した容疑で老婆が逮捕されたと報道している。
慰安婦の自殺[編集]
アメリカ軍(美軍)慰安婦2名が韓国釜山で悲観のあまり自殺したことを報じる1957年7月21日付東亜日報
韓国におけるアメリカ軍相手の女性達は自殺や中毒により死亡することもあった[30]。1957年7月21日付け東亜日報で、アメリカ軍慰安婦がわが身を悲観して自殺したと報道される[7]。1959年7月30日付け東亜日報で、慰安婦が悲觀自殺したと報道される[7]。
韓国政府による慰安婦政策:「特殊観光」[編集]
1960年代の韓国ではアメリカ軍相手の売春が国家を挙げて奨励され、国民総生産の25%を占めていた[35][9]。1962年の韓国の相場では、ショートタイムで2ドル、ロングタイムで5ドルであった[6]。固定的な性的関係を持つことによって月給をもらう女性もいた[6]。
1970年代になると、外貨稼ぎの主軸とみなされるようになり[9]、慰安婦・洋公主たちは「ドルを稼ぐ愛国者」、「真の愛国者」、「ドルを稼ぐ妖精」「民間外交官」[9]と韓国政府から称賛された[25][36][37][30][9]。
1961年、朴正煕政権は観光事業振興法を制定し、免税ビールを許可された特殊観光施設業者を指定し、赤線地帯を設立していった[9]。1962年6月には保健社会部、法務部、内務部合同で韓国国内の104カ所の淪落地域を設置、龍山駅、永登浦駅、ソウル駅、梨泰院、東豆川、議政府などもそこに含まれた[9]。国内で管理売春政策をすすめる一方、1962年4月に韓国は人身売買禁止条約に署名している[9]。
朴正煕政権は、慰安婦を新たに「特殊業態婦」という呼称でよぶようになり、特殊観光協議会と韓米親善協会が、売春の制度基盤となった[9]。
1960年代の東豆川だけで未登録の私娼が1万名のものぼり、米兵2,3名あたり1名の娼婦がいた[9]。1962年の韓国ではアメリカ兵相手の慰安婦として2万名以上が登録されていた[6][38]。韓国政府推算では1万6000名[9]。
自治体による慰安婦管理[編集]
慰安婦への教養講習が伊淡支署主催で行われていることを報ずる東亜日報1961年1月31日付
慰安婦の性病罹患が問題視されてから行政による実態調査が行われ、1959年9月の韓国保健社会省の性病保菌実態の報告では、接待婦の15.6%、私娼の11.7%、慰安婦の4.5%、ダンサーの4.4%が罹患していた[6]。1959年10月には、慰安婦の66%が性病保菌であることが検査でわかった[39][7]。
朴正煕政権は性病を規制をする目的として、慰安婦を自治会に所属させ、身元などを正確に把握させた上で相互監視を行わせる教育と管理システムを運営し、自治会長は韓国警察や韓国公務員によって選定された[14]。
1961年1月27日、東光劇場で伊淡支所主催の慰安婦向け教養講習会が開かれ、800余名の慰安婦、駐屯米軍第7師団憲兵部司令官、民事処長など米韓関係者が出席、慰安婦の性病管理について交流を行った[40]。
1961年、ソウル市社会局が「国連軍相手慰安婦性病管理士業界計画」を立案、9月13日には「UN軍相対慰安婦」(国連軍用慰安婦)の登録がソウル市警で開始された[8]。
モンキーハウス[編集]
韓国での慰安婦たちの写真や個人情報などはアメリカ軍も管理しており[14]、韓国におけるアメリカ軍相手の慰安婦は性病の疑いをもたれると韓国警察によりモンキーハウスと呼ばれる窓に柵のされた施設に、ジープやトラックにのせられ[9]、留置され強制的に薬を完治するまで飲まされることとなっていた[25]。また、性病に罹患した女性達は治るまでの間は強制的に拘置所に隔離されていたと在韓米軍の性病報告に記録されている[36][9]。また、病気ではないと証明された場合には犬のようにタグを付けることを強制された[30]。
韓国におけるアメリカ軍相手の慰安婦達は容易に行為の相手から見分けがつき易いように番号札をつけることを強制されていた[25]。 また、韓国政府は女性達に韓国を助けるために来た兵士達が満足するように清潔にしなさいと指導した[30]。
ベトナム戦争時[編集]
米国の性政策[編集]
ベトナム戦争のときに米軍は公認の慰安所でなく、現地の売春婦を買春した(慰安婦#アメリカ軍慰安婦を参照)。ベトナムでは、料金は500ピアストル(2ドル)で、女性の手取りは200ピアストル(0.8ドル)で、残りは業者のものとなった[10]。
1970年代初、アメリカ軍は韓国政府に韓国における基地村浄化事業を行うよう要求した[14]。1971年8月、吴致成内務長官が各警察署に保健当局と協力して慰安婦の性病予防策を講じ教養を強化するように命令した[18]。
韓国の性政策[編集]
ベトナム戦争に参戦するにあたり韓国政府は朝鮮戦争時と同様な「慰安隊」設置を計画したが、米軍の反対に遭い実現はしなかった(駐越韓国軍司令官)。このことがベトナムの民間女性に対する強姦事件が多発したことの一因になったとされる[41]。
韓国軍による性暴力[編集]
韓国軍兵士はベトナム人女性を多数強姦し、フォンニィ・フォンニャットの虐殺においてはレイプ後、虐殺するケースが多かったとされる[42]。韓国軍兵士によるレイプによって妊娠したベトナム人女性が生んだ父のいない混血児たちをライダイハン(𤳆大韓、ライ「𤳆(チュノム表記、U+24CC6)」はベトナム語で動物を含む「混血雑種」を意味する蔑称)といい、その数は3万人にのぼるともいわれる[43]。
韓国軍が制圧した地区で殺害されなかった女性は、ほとんど慰安婦にされたといわれる[44]
ベトナム戦争時の慰安婦の数[編集]
ベトナム戦争末期にはベトナムでは30万人から50万人の慰安婦がいた(Cynthia Enloeによる[45][46])[10]。アメリカ陸軍第1師団第3旅団(将兵4000名)ではベトナム女性60人が住み込みで相手した[10]。
1980年代までに100万人超の韓国女性が米軍の相手をした[38]。
■朴大統領演説、日本の慰安婦証言検証に「警告」
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20140302-OYT1T00195.htm
【ソウル=豊浦潤一】韓国の朴槿恵パククネ大統領は1日、日本の植民地支配に抵抗した1919年の「3・1独立運動」の95周年記念式典で演説した。
いわゆる従軍慰安婦問題を巡り、「55人しか残っていないおばあさんたちの傷は当然、癒やされなければならない」と踏み込んだ表現で解決を求めた。
米国の働きかけにもかかわらず、歴史問題にこだわる朴大統領の姿勢に変化はなく、安倍首相と一度も開かれていない首脳会談の見通しは依然として厳しい。
演説について韓国政府筋は、「日韓首脳会談のために安倍政権が取るべき道筋を示している」と説明した。
朴大統領は、「歴史の真実は、生存者たちの証言だ。政治的な利害のためだけにそれを認めなければ孤立を招く」と語った。菅官房長官が、河野談話の根拠となった元慰安婦の証言内容を検証するとしたことへの「警告だ」と韓国政府関係者は話す。「河野談話を継承することは関係改善の基本線。談話を覆せば首脳会談はできない」との趣旨だ。
(2014年3月2日10時51分 読売新聞)
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