59. 2014年2月24日 08:59:39
: esmsVHFkrM
>>53さま、ごもっとも。xyzxyzから売られたけんかとは言え昨夜の大人気ない行動を反省します。 海外渡航記録という視点が出ましたが、そのような従軍慰安婦の調達とその海外への移送に関して日本政府と軍が直接間接関与していたことを証明する文書ならびにその研究がありますので紹介します。 敗戦のドサクサに政府、軍が組織的に公文書を大量隠滅したことは今や常識です。陸海軍の中央機関、政府の各省庁、市町村の役所役場に至るまで軍事関係の文書の焼却が命じられました。 一番徹底した陸軍においては、8月15日の敗戦直前に参謀本部総務課長および陸軍省高級副官命令で全陸軍部隊に対して機密書類焼却の命令が発出されました。軍部からは核心分社に対してまで戦争関連の記録写真を焼却すべしとの圧力が加えられています。 外務省においては早くも8月7日に「じゅうぶん早きにおよんで全部を焼却す」なる方針が示され「極秘記録」を始めとする外交記録の多くを「非常焼却」しました。 内務省においては戦時中の言論・思想・報道統制と弾圧の当事者であっただけあって公文書焼却に必死でした。当時官房文書課事務官であった大山正は、「内務省の文書を全部焼くようにという命令が出まして、後になってどういう人にどういう迷惑がかかるかわからないから、選択なしに全部燃やせということで、内務省の裏庭で、三日三晩炎々と夜空を焦がして燃やしました」と回想しています(吉田裕「敗戦前後における公文書の焼却と隠滅」(「現代歴史学と戦争責任」青木書店1997年))。戦時中の内務省官僚(鹿児島での特高課長経験もあり)で戦後自民党有力政治家となった奥野誠亮は「戦犯にかかる恐れのあるような書類は処分しろと・・・・・・私も戦犯にされるおそれのあるような公文書を処理しろと指令を書きました。(中略)私も直接、名古屋の中部地方総監へ行きました。公文書を焼けといったものだから、方々から炎がいっぱい上がっていましたね。」と回想している(奥野誠亮「派によらず、義を忘れず − 奥野誠亮回顧録」PHP研究所2002年)。 しかし、それがどんなに徹底した証拠隠滅であろうと必ず漏れはあり、証拠はそれでも残っています。
そんな証拠隠滅を逃れた政府および軍の公文書を丹念に発掘して軍および政府の関与を実証した永井和京大教授の以下の論文があります。 「日本軍の慰安所政策について」 (http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/guniansyo.html) これは、以下に列挙する当時の日本政府の公文書(敗戦時の証拠隠滅を生き残って)を証拠として、 1. 慰安所を設置するに当たって陸軍、各地警察、内務省、外務省が関与したこと、 2. 慰安所の管理は軍が直接間接行ったこと、 3. さらに、「一方において慰安婦の募集と渡航を容認しながら、軍すなわち国家と慰安所の関係についてはそれを隠蔽することを業者に義務づけた。この公認と隠蔽のダブル・スタンダードが警保局の方針であり、日本政府の方針であった。なぜなら、自らが「醜業」と呼んではばからないことがらに軍=国家が直接手を染めるのは、いかに軍事上の必要からとはいえ、軍=国家の体面にかかわる「恥ずかしい」ことであり、大っぴらにできないことだったからだ」という日本政府による隠蔽があったこと、 を論証しています。 根拠とする一次資料は以下のとおりです。 陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」(1938年3月4日付) 外務次官発警視総監・各地方長官他宛「不良分子ノ渡支ニ関スル件」(1938年8月31日付) 群馬県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年1月19日付) 山形県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月25日付) 高知県知事発内務大臣宛「支那渡航婦女募集取締ニ関スル件」(1938年1月25日付) 和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(1938年2月7日付) 茨城県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年2月14日付) 宮城県知事発内務大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年2月15日付) 内務省警保局長通牒案「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(1938年2月18日付) 内務省警保局長発各地方長官宛「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」 (1938年2月23日付) 「醜業婦渡支ニ関スル経緯」(内務省の内偵メモ、日付不明) 在上海日本総領事館警察署長(田島周平)より長崎県水上警察署長(角川茂)に宛てた依頼状(1937年12月21日付) 飯沼守上海派遣軍参謀長の日記 1937年12月11日の項「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」 1937年12月19日の項「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」 上村利通上海派遣軍参謀副長の日記 1937年12月28日の項に「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」 山崎正男第十軍参謀の日記 1937年12月18日の項に「先行せる寺田中佐は憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置す」 在上海総領事館警察の報告書 1937年12月末の職業統計に「陸軍慰安所」の項目。 常州駐屯の独立攻城重砲兵第2大隊長の状況報告 1938年1月20日付「慰安施設は兵站の経営するもの及び軍直部隊の経営するもの二カ所あり」 元陸軍軍医麻生徹男の手記 1938年の2月には上海郊外の楊家宅に兵站司令部の管轄する軍経営の陸軍慰安所が開設されていた 1938年1月に軍の命令を受け、奥地へ進出する女性(朝鮮人80名、日本人20名余り)の梅毒検査を上海で実施した 1937年9月29日制定の陸達第48号「野戦酒保規程改正」 上海派遣軍参謀長飯沼守少将の陣中日記(『南京戦史資料集I』) 「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」(1937年12月11日) 「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」(1937年12月19日) 同参謀副長上村利通陸軍大佐の陣中日記(『南京戦史資料集II』) 「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」(1937年12月28日) 第101聯隊(上海派遣軍第101師団)の一兵士の陣中日記(荻島静夫陣中日記田中常雄編『追憶の視線』下、1989年) 『初級作戦給養百題』、『陸軍主計団記事』第三七八号附録、清水一郎陸軍主計少佐編、陸軍主計団記事発行部発行(陸軍の経理学校の教官が経理将校の教育のために執筆した演習教材集) 多くの人がこのわずかサイト1ページの永井論文を読んで改めて真実を確認ことを願います。 読者には、特に、永井論文が論証した3点目、当初から政府が意図した慰安所と軍および政府の関係の隠蔽について注目されたいと思います。これは、当時の日本政府においてすら政府および軍の主導でその管理下に慰安所を設立運営することに道義的および政治的な問題があることをよく認識し将来それが問題になったときに「関与はない」と強弁できるように準備していたと言うことです。まさに日本の右翼保守はこれに依拠して、そして敗戦時の組織的証拠隠滅を僥倖として、「はっきりした証拠はないから政府軍の関与はない」と主張しているのだから笑止千万です。まことに類は友を呼ぶと言うのか、悪党の友達は悪党だと言うことでしょうか。 これでも日本の右翼保守は従軍慰安所に対する軍と政府の主導を否定するのでしょうか。 JohnMungさんはわたしが敬愛する阿修羅の論客ですが、従軍慰安婦問題においては意見を異にすることを残念に思います。持ち前の正義感から日本の蛮行を認めたくないお気持ちは理解できますが、事実は事実です。事実をよくご覧の上その正義感を日本人と日本が本当の名誉を獲得すること、すなわち過ちは過ちとして認め公正な解決を行った上でそのような道義的な健全性を踏まえてアジア各国の尊敬と信頼を集めて世界でリーダーシップを発揮していくこと、に向けられることを切に願います。 わたしはこれから野暮用で外出しますのでレスがあっても答えられませんので悪しからず。 以上、阿修羅の読者の参考に供します。
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